25
「……白河さん」
二階に上がった時に最初に見える正面の扉が彼女の部屋のものであるのはすぐに分かった。「YUNA」という文字が書かれた札があったから、なんてことは今はどうでもいいだろう。ノックをしたはいいがどう声をかけようか迷った挙句、口に出た言葉はいつも彼女を呼ぶときの名前であった。
「帰って、って言ったでしょう」
「ごめん」
「嘘。知っている。父が勝手に入れたのでしょう。余計なことをしてくれたわ」
ドア越しでも彼女の言葉ははっきりと聞こえた。
「なんで学校来ないんだよ」
「……行かなくてももう単位はとれるもの。追試なんて簡単だわ」
「知ってる」
「じゃあ聞かないでちょうだい。まあ、どうせあなたのことだからそう返されると分かってて言ったのでしょうけど。本当に、あなたは変わっているわ」
「白河さんには負けるよ」
白河さんは何も言わなかった。いつもなら言い返してくるのに。何倍返しに、あらゆる屁理屈を並べてでも自分の正当性を主張してくるのに。
「話、聞いてたのか?」
「あんなにうるさい口喧嘩が聞こえないとでも思ったの? 騒音として近所から訴えられても文句言えないわ」
「まあ、その時はあの人がどうにかしてくれるだろう」
わずかな沈黙が痛くて俺は必死に言葉を探した。何の脈絡もない、関係のない、支離滅裂な言葉が脳内を飛び交う。そんな混乱の末に出た言葉はまたもや嫌な沈黙が起こりそうな短い言葉だった。
「努力家なんだな」
「…………」
「いや、マジですごいと思うよ。油絵絵の具はたしかに匂いが強いけどそれが体に染みつくことはほとんどないし。それだけ白河さんが描いているってことだろ?」
「……随分とたいそうな知ったかぶりね。たしかに匂いは付くけどシャワーでも浴びればすぐに落ちるわ。匂いがついているのはたいてい、直前まで描いていた時よ。ところで、どうしてあなたが私の匂いを知っているのかしら? そういう趣味でもあるの?」
「生憎、美術部の幽霊部員というにわかでね。あと俺にそんな特殊な趣味はない」
「どうだか」
「あんたは俺のことをどういう人間だと思っているんだ」
「勝手に女の家に押し掛けるストーカー、ってところかしら」
「それを認めちまったら人として色々と終わることになるな」
「豚箱で一生後悔することになるわね」
「それは困る」
「私は今困っているわ。どういう経緯であなたがそこにいるのか見当もつかないんだもの」
「色々あってな」
「その色々が一番大切だと思うのだけれど……」
「いささか阿呆なもので、余計な墓穴を掘るよりとぼけるのが一番効果的なんだよ」
彼女は少し黙った。もしかしたら呆れてため息でもついているのかもしれない。
閑話休題。ややあって切り出したのは彼女の方だった。
「で、何をしにきたの? まさか私を努力家と称するためにここに来たわけではないわよね?」
「あ、ああ……まあな」
俺は少しどもってしまった。たしかにそんなこと(そんなことではないが)を伝えに来たわけではないのだが実は聞きたいことを白河父が勝手に話してくれたのだ。俺は今日、「彼女が何になりたいのか」を聞くためにここに来たのだ。しかし、それを言ってまた「帰って」などと言われてしまっては、それはなんというか困る。
「じゃあ何?」
彼女が急かすように言うので俺は必死に言葉を探した。最近、言葉をとっさに選ばなくてはならない機会が増えた。
しかし、俺はまだ言葉を選ぶセンスや頭の回転が弱い。結局口にした言葉はやはり短く、単純なものだった。
「画家になりたいんだってな」
「ええ」
彼女は一寸の迷いもない様子で答えた。その凛とした声に、声色とは違う意志のような力強さを感じた。
「反対されたんだろ。リスクの高すぎる世界だから」
「ええ、今まで私が描いていた絵も努力も全て否定されたわ」
「それは……きついな。好きなことを否定されるのはやっぱり痛いよ」
「それは同情?」
「いや、俺の経験則。俺も将来の夢っていうやつを否定された口なもんで」
しかし、俺と彼女は決定的に違う。彼女は現実や世界に溢れる才能を目の前にしても諦めなかった。俺は、才能というものから逃げた腰抜け野郎だ。
彼女は抗った。学年一の秀才からテストを白紙回答にし、問題児として補習を受けなければならない立場に転落しても、絵を描く時間なんてなくなったはずなのにそれでも描いた。描き続けた。自分の覚悟が本気であることを示し続けた。
お門違いだと思う。
そんなことをしてもそれはただ子供が駄々をこねているようにしか見えないし、大人である教師にそれを軽く見透かされて勝手に補習に来なくなったのもいただけない。子供がただ一人で戦うという形で空回りしているだけだ。彼女自身、それを自覚しているのかもしれない。
「白河さんは馬鹿だよ」
「少なくともあなたよりは賢いわ」
「まあな。それでも白河さんはそれに負けず劣らずの馬鹿だ。空回りばかりの大馬鹿者だ」
「なっ……!」
馬鹿だ馬鹿だと言われ、彼女は少しお怒りらしい。彼女は声を荒げて言う。彼女の叫びを聞く。それは凛となんてしているはずもなく裏返った、痛々しい彼女の本当の声だった。
「じゃあどうするのが正解だったというの! 頭がおかしくなるくらいに否定されてそれでも諦めたくなくて必死になって頑張ったんじゃない! 描いて描いて描いて描いて描いて描きまくったんじゃない!」
「ああ」
「認めてもらいたくて、こっちを向いてほしくて、嫌でもこちらを向かなくてはいけない状況にもちこんでそれでも描き続けたんじゃない!」
「ああ」
「それでもあの人はこちらを向いてくれない! 心配しているから? 勝手な理由をつけて私の夢を否定しているだけじゃない! ここまでしても! こんなに描いていても! もうくじけそうよ! くじけたらどんなに楽になるか! でも、それでも諦めたくないんじゃない!」
「ああ!」
俺は扉を開けた。
そこにいたのは――顔は真っ赤、溢れた涙でめちゃくちゃになっている、髪も乱れた、広い部屋でむせかえるような油絵絵の具の匂いが充満した、自分が描いたのであろう数えるのも億劫になるほどの絵に囲まれた――孤独に戦う一人の少女であった。
ああ。これが本当の彼女の姿なのか。いや、違うのかもしれない。取り乱すことは誰にだってあることだ。しかし、それはたしかに彼女の本当の心が表面にあらわれた彼女自身の姿だった。そう感じられた。
彼女は強い。弱いから泣くのではなく、強いから泣くのだ。強いからこそ本気になれて涙を流せるのだ。弱い俺には決してない諦めないという才能をもった彼女自身の強さが涙を流させるのだ。
愛おしいと思った。
俺は困惑する彼女に近づき、その体を自分の方へ引き寄せた。彼女を強く抱きしめた。
彼女は泣くのも忘れたように硬直していた。自身の身に何が起こったのかを理解できない様子だった。
「白河さんは大馬鹿だ」
「…………」
「けど、本当にすごいやつだ。人間味にあふれている」
見ただけでも分かる。彼女は世界的に有名になるような画家としての才能を有しているわけではない。それらは素人に何本か毛が生えたのを必死に伸ばし続けたような、それこそ現実にひたすら抗い続けたような絵だった。
「……それは、どういうこと?」
はて、と俺は思案した。しかし、答えは出なかった。
「分からん。……でも、一応誉め言葉なんだと思う」
「そう、ならいいわ」
彼女の声はうわずっていた。
「俺はそんな、人間味にあふれた白河さんに興味を抱いたんだ。面白いと思ったんだ。もっと知りたいと思ったんだ」
「やっぱりストーカーね」
「もう、それでいいよ。訴えなければな」
「そんな馬鹿なことはしないわ。私は馬鹿じゃないから」
「悪かったよ」
とりあえず、謝っておく。あとあと怖いことに定評があるのが彼女だ。
「……ねえ、これからどうしたらいいと思う?」
「さあ、がんばって説得し続けるしかないんじゃないか? どうして?」
後半にそう聞いたのは単純に俺に意見を求めてきたからである。
「一人で戦うのに限界を感じたのよ。前言をほんの少しだけ撤回するわ。私は可能性の薄いことでも、それでも信じて前に進みたいと思う程度には馬鹿よ。今度から愛すべき馬鹿と呼んでちょうだい。……ふむ、それにしても曖昧な答えね」
「具体案を出してもそれを見透かすのが大人というものでは?」
「……一理あるわ」
「もううんざりするほど何度もしただろうけど、それでも話し合うしかないんじゃないか?」
彼女は思案しているようだった。そして、静かに息を吐いて言うのだった。
「そうね」




