16
我が親友である花山祐樹の妹、花山愛乃についての説明、というより紹介をしておきたい。
最初に彼女と出会ったのは俺が小学四年生、彼女がまだピカピカの一年生の時であった。俺と花山は毎日といってもいいほどに一緒に遊んでいたのだが、たいがいは近所の公園、または俺の家でというのが決まりのようなものとなっていた。というのも花山の家にはおよそ小学生が持っていそうなゲーム関連のものが少なく、遊びに行っても特に何もすることがなかったのである。それに、今でこそ俺はいわゆるインドア派というやつだが当時はキャッチボールが何よりも大好きな典型的なアウトドア派だったので、そもそも俺の家でゲームをして遊ぶということも滅多になかったと思う。
その日は雨だった。
もちろん、外で遊ぶことなどできるはずもなく、なくなく俺の家で遊ぶこととなった。事件はそこで起きた。事件というのもそれは紛うことなく俺の自業自得というやつであり、ましてや殺人現場を目撃したといった大事でもない。しかし、小学生である俺だけでなく、おそらく全人類がその時と同じ状況に陥ったとき、軽くパニック状態になると予想できるくらいにはそれなりに大変なことだった。
当時、俺は両親が共働きということもあり、いわゆる学校に家の鍵を持ち歩く鍵っ子というやつだった。この時点でだいたいの想像はつくと思うので詳しくは語らないが、つまりはそういうことである。ランドセルにキーホルダーの如く付けていたはずの物をなくした俺が慌てていると花山が言ったのだ。「僕の家に来る?」と。
そういう問題ではない。俺はこのままじゃ彼と遊べないということで困ったのではなく、そもそもこのままでは家に入れない、そして今晩にでも下るであろう母による大目玉が本気で恐ろしかったのである。しかし、親切心をはたらかせてくれた彼の提案を断れるはずもなく、俺は鍵のありかを思い出しながら花山の家に向かったのだった。言うまでもなく、その時、彼の家で出会ったのが愛乃である。
視線が気になった。
誰かに見られている気がする。
気のせいかもしれない。
しかし、それでも気になった。
花山の部屋に行き、さて何をするかという話になり、特にすることもないという結論に至ると俺たちは無言で明日が提出期限の課題をやり始めた。真面目な花山が一週間前に出されたはずの宿題に今日まで手を付けていなかったことに驚いた記憶がある。視線を感じたのはそれを片付けている途中のことだった。
おそるおそる視線を感じる方角、花山の部屋のクローゼットを見やる。一昨日、放送されたホラー番組ではたしかクローゼットには幽霊の女がいた。主人公を呪う、生き霊の女だった――しかし、花山は「たいてい、そういうのは作り話だ。気にする必要はない」なんてことを言っていた。だから、うん、大丈夫だ。そんなこと現実にあるわけがない。何でもかんでも気にしすぎるのは、俺の悪い癖だ。
――そのはずだったのだが、そんな一種の願望のようなものは脆くも崩れ去り、そこにはたしかにいるはずのない人影がこちらを見つめていた。目が充血せんばかりに凝視していた。
「ヒッ!」
たしか、そんなありがちな怯え声を発してしまったと思われる。そう、人は本当に怖いとたしかにそんな声が出てしまうのだ。声が出ない、固まってしまうなんて言う奴はただ、状況が瞬時に把握できていないだけである。俺はその説を信じて疑わない、提唱し続ける所存である。
「どうした?」と花山が聞いてくる。
「花山、俺はどうやら魑魅魍魎の類に呪われてしまったらしい」
クローゼットを指して言ってみた。
「ほう。もし、それが本当なのだとしたらそれはどちらかというと僕の部屋のクローゼットが呪われているんじゃあないのかい? あまり信じたい話ではないな。非情に不本意だ」
魑魅魍魎って言いたかっただけでは?
花山がそんなふうに話をはぐらかそうとするので「違う」と否定する。
「一体全体、君は何が言いたいんだ」
花山が半ばあきれるように、クローゼットを見やる。すると、何を思ったのかゆっくりとそこに近づき、あろうことかその扉を開け放ってしまったのだ。
何、馬鹿なことをしてくれたんだ。百鬼夜行の軍隊にたったひとりの親友を売ったというのか――そう言おうとしたが、もちろん、そんな怪談話は成立するはずもなく、オチはなんともマヌケなものだった。当時の俺はそういった不思議体験に過剰な畏れを抱いていたのだ。誰しも、そういった時期があったと思われる。
「何が魑魅魍魎の類だ。ただの僕の妹じゃないか」
花山は「失礼な話だ」と鼻を鳴らしつつそう言った。
そこにいたのはたしかにひとりの女の子だった。目が大きいが体は小さい、それこそ豆粒に生命が宿ったような感じの子だった。右手には大きなクマのぬいぐるみ、左手には大きな絵本を携えて、こちらを凝視している。いや、それらが大きいのではなく、この子が小さいからそう見えるのだろう。おそらく、クラスでも一番前の身長だとか、一番黒板に近い席に座っているとか、そういった不遇な立場に追いやられているに違いない。しかし、まあ、なんとも、
「随分とかわいらしい妹さんだな」
と、つい思ってしまったことを口にしてしまう。実際に、当時の彼女はそんな小動物的な愛くるしさの権化のような存在であった。それを聞くと花山は「自慢の妹だ」と言い、彼女は聞かれることなく「あいの……です」と少し照れたように自己紹介した。愛乃はそのまま兄の背中に隠れた。どうやら彼女は、いわゆる人見知りというやつらしい。なんて、かわいらしいやつなんだ。
結論をいうと、兄に絵本を読んでもらおうと部屋で待機していたら、見知らぬ人と帰って来たので慌ててクローゼットの中に隠れてしまった、ということらしい。
花山に妹がいることくらい、知っていた。考えてみれば、いや、考えてみなくともあれが花山の妹であることくらい予想できたはずである。それができなかったのは、まぎれもなく、俺がそういったオカルト関係に色々な意味で心酔していたのと、ただ単に阿呆だったからである。
随分と前置きが長くなってしまったが、愛乃との出会いはそんな感じであった。俺の記憶がすべて正しいとは言えないが(何せ、四捨五入すれば十年も前の出来事である)、それからである。花山と遊んでいるときにちょくちょく、混ざってくるようになったのは。そして、彼女の趣味が読書ということも相まって、俺たちが仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
ちなみに、である。
あの後、母に大目玉を食らったのは言うまでもない。翌朝、職員室前の落とし物入れで見つかったときは心底安心した覚えがある。
「なるほど、人に歴史在り、だね」
隣にいる彼が大きな花束を抱えながらそう言った。
「で、ここがその愛乃ちゃんと君の親友の祐樹君のお宅であると」
「そういうことになります、入りましょう」
俺はそう言って、インターホンを押した。聞きなれた音が響くと、誰が来るかなど分かっていたかのように扉が開く。
「やあ、奏斗。直接会うのは終業式以来だな。今日は来てくれてありが……」
途中、花山の言葉がとまった。それは、花山がまるで蛇にでもにらまれたかのように硬直してしまったからに他ならない。俺にとってはしてやったりといった感じであった。
いつまでたっても来ないので痺れを切らした本日の主役である愛乃が姿を現したのはそれから少したってのことだった。服はいつもより少し気合の入った、もちろん私服であるが肩には「本日の主役」と書かれたタスキがかけられている。
愛乃が固まる。その表情はさすが兄妹といったところか、兄の祐樹にそっくりであった。
「わあ、ヒーロー君の言っていたとおり、かわいらしい人じゃないか」
隣にいる彼、新子八雲が微笑んだ。
『どうしたんだい、こんな夜に。いや、僕には夜しかないからそちらの方が結果的にはありがたいんだけども』
新子さんはそう言った。自虐的にそう言った。
あの後、花山との電話の後、俺は新子さんにメールをした。要件はただ一つ、「電話番号を教えてください」というものであった。話が長くなりそうな気がしたので電話の方が都合がいいように思えたためである。
「それは少し、返しに困りますね。……あまり時間をとらせるのも申し訳ないので話をすすめます」
『友達に対して随分と他人行儀な口をきくんだね。水臭いじゃあないか、もっとこう、フレンドリーな感じでお願いしたいよ』
「いや、一応、年下なのと断られても仕方のないようなことを今から言おうとしているので柄にもなく緊張しているんです」
新子さんがクスッと微笑するのが聞こえた。
『それはなんだい、僕は断る前提で身構えた方がいいのかい?』
「そうしてくれてかまいません」
『ほう』
新子さんが感心したように息を漏らした。
『では、こちらもそのことを考慮したうえの態度をとろう』
ビジネスごっこといこうじゃないか、と新子さんは言った。望むところだ。俺は一歩も引かんぞ。俺が引くとき――それはこの交渉を諦めた瞬間だけだ。
「一言で言うと誘い、です。俺の友人の妹の誕生会に来ていただきたいのです」
『随分と遠い関係だね、僕との面識は皆無と言ってよさそうだ』
そのとおりだ。おそらく、花山は新子さんに会ったことなど一度もないはずだし、そもそも、友達の友達はこれすなわち他人である。
「失礼なのも承知の上です」
『いや、友達のいない僕にとってこれは友達を作るチャンスというやつだ。僕が言いたいのはただ一つ、僕が行ってもいいのかということなのだよ』
ごもっとも、である。あきらかにおかしいことを言っているのは俺の方だ。しかし、俺にも引けない理由というものがある。常識による撤退はありえないのだ。
「そのとおりです。しかし、これはいわゆるディナーショーだと思ってください。その親友の妹があなたに会うことを望んでいたとしたらの話なんです」
彼がふむ、と鼻を鳴らす。
『つまりはあれか、その妹さんは僕の、新子八雲のファンという認識でいいわけだね?』
「そのとおりです!」
嘘は言っていない。花山愛乃は俺と同じく、ひとりの新子八雲信者だった。彼の作品をこよなく愛す、彼にとって愛すべき読者なのだ。
『それはとっても嬉しいことだけども、問題なのは僕が新子八雲だと信じてもらえない可能性のほうが高いということなんだよ。君でさえ、まだ完全には信じていないというじゃないか』
「…………」
グーの音もでないとはこのことをいうのだろう。たしかにそのとおりだ。俺は自分が新子八雲と知り合いであることを彼女に信じてもらおうとしていたが、当の俺自身が新子八雲という存在を誰よりも疑っているのだ。なんとも、皮肉な話である。
『誘っていただけるのは本当にありがたいんだけどねえ』
新子さんが申し訳なさそうに言う。無礼、無作法なのは俺の方であるのだからそんな声を出さないでほしい。しかし、である。
「こちらとしては絶対に来てほしいんです。なんというか、喜ばしてあげたいんです」
新子さんが息を吐く。そして、少し面白がるように、
『君はその娘のことが好きなのかい?』
と、聞いてきた。
「いえ、別にそういうことではないんですけど……?」
どこかにそんな誤解をするようなポイントがあったのだろうか、と思う。たしかに、ここまで必死になるさまを見ると、そう受け取れなくもないかもしれないが。
もちろん、愛乃にたいして恋愛感情といった特別なものは一切ないと断言できる。実際、中学三年になった彼女はとても美人だし、それでいて少しあどけなさも残るという年相応の魅力にあふれてはいる。しかし、それが恋愛感情に結びつくかは別問題である。俺にとって愛乃は出会った頃の丸くて小さい姿のままであり――要するに失礼な話、親や兄のような気持ちなのである。
『ふむ、恋愛的なものではないのか。もしそうだったら面白おかしくからかえたのに』
この人はもう少し本音を隠す努力をした方がよさそうだ。口には出さないが。
『で、恋愛感情でないのならどうしてそこまで必死になるんだい?』
はて、たしかにそうかもしれない。思案してみる。普通に誕生日プレゼントを渡し、精一杯祝うのじゃ駄目なのか。いや、本来、誕生日というのはとらえかたの差は多少あれど、そういうものだろう。では、そこまでして彼女を新子八雲に会わせたい理由はなんなのだろう。
「喜ばせたい……それは本当です」
そうだ、それに尽きる――否、それだけではないはずだ。俺は新子八雲との接触によって彼女にどんな反応を期待していたのだろうか。そうだ、やっぱり。
「でも、それ以上に、驚かせてあげたいのかもしれません。彼女は中学三年、俺と同じで受験生ですから」
その理由はただのこじ付けなのかもしれない。しかし、それは、その出会いはきっと一生忘れられないものになる。
自分の誕生日会に新子八雲が来た――たとえそれが信じてもらえなくとも、自分の誕生日会に見知らぬ人が来てくれたというのはただそれだけで面白い話題になる。出会う、ということの楽しさや面白さを知ってほしい。いや、彼女はきっと俺なんかよりもよっぽどたくさんの人との出会いを体験してきたに違いない。いわばこれは、人との出会いをプレゼントする行為と言える。新子八雲という存在はそれにうってつけだったのだ。芸能人が自分の家に来ると理由もなくはしゃいでしまうのと一緒である。
『ふむ、言いたいことは分かったけど』
「それはありがたいです」
『いや、別に感謝されるようなことでもないんだけど。そういうことなんだけどそういうことでもないというべきか……今の話をずっと聞いていると僕にとってプラスになることが一つもないようだよ。強いて言うなら、友達が増えるかもしれない。でもそれはかもしれないというだけであって確定事項じゃあない』
今のところ前向きに検討もできない状況だね、と彼はきっぱりとそう言い放った。
さて、どうする。
「いわゆるギャラというやつですか」
『話が早くて助かるよ』
彼が笑う。
「えっと、ですね。一学生がプロを満足させるような額を用意できるかどうか……」
『心外だなあ……大人が学生をむしり取るようなまね、するわけないじゃあないか』
今度は彼がムッとしたように言う。喜怒哀楽の激しい人だ。
『それに、僕は自分で言うのもなんだがものすごく安い人間だ』
「つまり?」
『物語、つまり本を一冊僕にくれたまえ。そしたら僕は喜んで君についていくよ』
彼は堂々と言い放った。そこに遠慮や嘘偽りといったものはないように思えた。まるで、本当に物語が最上の贅沢のような言いぐさである。
本当に、彼は面白い。
そう思うことに俺も、遠慮や嘘偽りといったものは存在しなかった。だから当然の如く、俺もそれに対しての返事をした。
「もちろんです!」
「で、あの方はかの有名な作家の新子八雲先生というわけだな」
花山は静かにそう言った。
「そういうことらしい」
彼は少し呆れたように嘆息した。
「人の誕生日に、いや、これは妹のであるがそれは別にいい。よくもまあ、普通に初対面の人を家に連れてくるものだ」
「怒っているか?」
「普通は、な。けどまあ、主役があのご様子だし別にいいんじゃないのか?」
花山は前方にいる本日の主役とその隣にいる彼を指して言った。二人の手にはこの家には珍しいゲームのコントローラーが握られている。それはふた昔ほど前に流行った格闘ゲームだった。二人のゲームオリジナルキャラクターが蹴ったり殴ったりと大乱闘を繰り広げている。
「えいっ! そこだ!」
「おっと! やったなあ、じゃあこうだ! 必殺、根性叩きのめしボルケーノアッパー!」
「いやちょっと待って、待て待て待て待て待て! 死ぬな、死ぬなあ! 僕のギャラクシー鈴木!」
「勝利の女神はあたしに微笑むようにできているのだよ!」
愛乃の勝利の叫びと共に『ユアーウィナー!』といったテロップが表示された。彼女が操作していたキャラが画面上で勝利の舞いを披露している。
馴染んでいるなあ、と思う。
小さい頃とは違い、人見知りとは縁遠いものとなった愛乃。新子さんが彼女に花束をプレゼントすると、気づけばもう二人は友達のようになっていた。それは出会って十秒で友達、なんてことを間近で目撃した初めての瞬間であった。彼女は天真爛漫に笑い、そしてあろうことか彼のことを自分がファンの新子八雲先生だと本気で信じたのである。彼女もそうだが新子さんの適応力の高さには恐れ入った。彼は人と関わった経験が乏しいという点で俺と同じだと勝手に思っていたが、それは違っていたらしい。担当編集者や同じ作家などとも良好な関係を築くということは俺が思っている以上に重要なことなのかもしれない。
彼女がお花を摘みに、もとい、トイレに行くと新子さんがこちらの方を向いた。
「いやあ、彼女は面白い人だね。君とは違ってとても素直だし。僕のことも本物の新子八雲だと信じてくれたし」
「少しくらい言葉を選んでくださいよ。そんなにすぐ信じられる方がおかしいんですって」
「今日はわざわざ来てくださり、本当に感謝します。新子先生」
花山が頭を下げる。
「いやいや、こちらもお招きありがとう。いや、招かれたのはヒーロー君の方であって僕はそれにただついてきただけなんだけども」
「ヒーロー君?」
誰のことだ、と怪訝そうに首をかしげる花山。
「どうやら俺のことらしいぜ」
「そうそう、彼は僕のヒーローだからね」
「しばらく会っていない間に君の身に何があったというんだ……」
それはもう色々と、と言うしかなかった。
「話すと長くなるけどいいかい?」
「話さなくて結構です」
本当に長くなりそうだったので静止させる。えー、と新子さんは唇を尖らせた。
「にしても、君たち兄妹は本当に素直だね。性格はあまり似てないみたいだけど。お兄さん、感動しちゃったよ」
若干、失礼な言葉が混ざっていたような気がしないでもないが、言われ慣れているためか特に気にも留めない様子でいた。
「それは、本当によかったです」
「君とは大違いだ」
「余計なお世話です」
新子さんがどことなく俺を見るのでそう言ってやった。いちいち気に留める俺を世間一般では器が小さいというのだろうか。
「ああ! 主役を差し置いて三人で男子会ですか。不当な扱いに猛烈に遺憾の意を表明するするであります!」
愛乃が仰々しく手を挙げて抗議する。むー、と軽く頬を膨らませていた。
「どうでもいいけど、男子会ってあまりいい絵面じゃないな」
おもわず、想像してしまう。むさくるしくてかなわない限りだ。
そして、今度は俺と花山も混じって四人で先程の格ゲーを楽しんだ。珍しく、花山も楽しんでいる様子だった。普段は楽しんでいてもあまり顔に出るタイプじゃないのでなんだかこちらまで嬉しい気持ちになった。
そして、ひと区切りつけると、俺は昨日買ったプレゼントを彼女に渡した。細い銀鎖に小さな緑の宝石が埋め込まれたクローバーのついた、ネックレスだ。きっと彼女にはぴったりだろうと思ったのだ。彼女はすぐさまそれを自身の首につけた。見立て通り、とても似合っていた。
新子さんは少し、カジュアルな腕時計を彼女にプレゼントした。彼女はそれもすぐさま装着した。初対面だというのに彼女に似合う腕時計だったので驚いた。
花山があらためて頭を下げる。やはりその姿はなんだかとても嬉しそうに見えた。
夜遅くになり、楽しかった誕生日会も解散となった。
人通りのない道を俺、新子さん、そしてその間には愛乃がいた。大丈夫とは言ったが最後まで見送ると言ってきかないのでこのような状況となっている。ちなみに、花山は家で後片付けをしてくれている。出張中の両親が明日帰ってくるのでそれまでには何としてでも元通りに片付けなければいけないのだそうだ。手伝うと言ったが断わられた。
「じゃあ、僕はこれで」
新子さんが交差点の角を曲がった。しかし、途中で歩みを止めてふたたびこちらに駆け寄ってきた。
「はい、これ」
そう言って愛乃に手渡したのは彼のサインであろうものが書かれた本だった。新作の『骨咲く桜』だ。それは、俺がおととい買ってくるようにと指定された本でもあった。まさかこんなことをするためだとは――粋な人だな、と思う。
「サインなんて書いたことなかったから昨日考えたんだよ」
彼は笑ってそう言った。
「ありがとうございます。……一生、大切にします!」
彼女のその満面の笑みは夜を照らす、満月のようであった。
新子さんと別れた後、俺たちは二人で夜の中を歩いていた。サイン本を抱えた彼女が終始、笑顔なためか不思議と暗くは感じなかった。
「受験勉強はどうだ。こんな日にそんなことを聞くのもなんだけど」
「うーん、どうだろう。一応、お兄ちゃんたちと同じ学校に行くつもりだけど……私はお兄ちゃんほど頭良くないし、ギリギリだと思う」
それでも、決して馬鹿ではないはずだが。そういえば、あの頃は俺も花山と同じくらいに頭良かったんだけどなあ、と思う。それでも、受験前はナイーブになっていた気がするし、受験というのはそれだけで人の自信といった感情を蝕む存在なのかもしれない。
「まあ、これからだよな」
「うん、そうだね。奏斗くんは、大丈夫そう?」
彼女は俺が補習に苦しめられていることを知っているのだろうか。
「俺もやばいかもな。でも、そうも言ってられねえしよ。ほどほどにがんばることにはしている」
そうだ、とにかくがんばらなければ。
「じゃあ、俺はここまででいいよ。暗いし、気をつけろよ。心配だから俺が送ってあげたいくらいだ」
「それじゃあ、一緒だよ」と彼女が静かに笑う。
「あらためて誕生日おめでとう。今日はありがとうな」
そう言って、歩を進めようとした時だった。
「待って!」
彼女のそんな大きな声に思わず歩みを止めてしまった。
彼女の方を振り向く。
「どうした?」
「あ、あの、その……」
彼女の顔は今までに見たこともないほどに紅潮していた。その表情で俺は彼女が何を言いたいのかおおかた悟ってしまう。それが本気であることも。こちらまで、顔が熱くなるのが分かった。
彼女はわずかに口元を引きつらせながらそれでも一生懸命に言ったのだった。
「奏斗君のことが好きです!」




