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 「この前から少しだけ思っていたのだけれど、もしかしてあなたはかなりの馬鹿なんじゃないかしら」


 さあ、帰ろうか。やれやれ、今日も実に疲れた――補習が終わり、そんなことを思った矢先、隣にいる彼女はそう言った。


「随分とひどい物言いじゃあないか。否定はしないが普通はそんなこと、口にはしないものだぜ」


 口が裂けても、とまでは言わないが本人がナイーブになっているポイントを突く行為はあまりいただけない。あまり信じてはもらえないかもしれないが、これでも俺は補習に行かなくてはならないという事実にほとほと疲れている。毎日、両親の俺を見る目が痛くて仕方ない。

 いや、そうでなくともである。


「あまりおま……白河さんにそんなこと言われたくないな。人のこと言えた口じゃないだろう」


 何せ相手は全教科補習という普通にしていれば絶対にとらないような偉業を成し遂げたあの白河さんである。そんな人物に馬鹿と言われる――逆に、こちらが発言する神経を疑うレベルである。


「そんなことないわ。少なくとも、あれほどおまえという呼び方はやめてと言ったはずなのにそれでも言いかけるあなたよりかは」


「そこはスルーしてほしい限りだな」


 分かっていても言い直したのは事実なのだから許容範囲ではなかろうか。今のは完全に人の失敗という傷口に塩を塗る行為である。まあ、そんなこと、彼女にとってはまったく関係のないことなのだろう。この場合、被害者なのは彼女のほうである。随分と、軽傷ではあるが。


「悪かったよ。でも、白河さんもそれほど傷ついていないだろう? 少なくとも、それほど気にはしていないはずだ」


「その心は?」


「そこまで冷静に物事を分析している人がただの言い間違いごときにあーだこーだは言わないだろうって話」


 彼女ははたして冷静なのか。冷静に見えて実はそうじゃないのかもしれない。しかし、俺にはそうとしか見えなかった。


「面白い話ね」


「そりゃあ、どうも」


 おそれく、いや、絶対に褒めているわけではないのだろう。この場合の面白い話というのは少年漫画などにでてくる悪役が怒りをあらわにする時に発するセリフのような――そんな嵐の前の静けさ、前ぶり的ななにかである。


「別に、褒めているわけではないのだけど……まあ、あなたのことだからそれくらいは分かっているんでしょうね。あなたはそういう人よ」


「白河さんに俺の何が分かるって言うんだい?」


「そうやってそれっぽく振る舞うところとかは特に顕著に。別に気にもしていないくせに」


 どうやら、彼女にはお見通しということらしい。

たしかに、そういうふうに読む必要のない空気を読んでしまう癖はあった。

普段は空気が読める質ではないのだが、相手にとって杞憂なところで変に敏感に反応してしまう。こういうのを悪い癖と呼ぶのか。

 それはそうと、俺はそれほどまでに彼女に見透かされているのか。もしくは、ただ単に俺が分かりやすい人間であるだけなのか。

 どっちなのだろう?

 問いただしたい気持ちはあったがそれを正気で聞けるほど、俺のメンタルは強くない。ましてや相手は直接、相手の精神を抉りとることに定評のあるあの白河さんである。彼女の話に真剣に耳を傾けるには、もう少し彼女を知る必要があるように思えた。

 ただ、確信がもてる。


 おそらく、彼女は想像以上に人のことを見ている。


「そろそろ本題に入ってもらってもよろしいか?」


「そう、ね。あなたの振る舞いにいちいち気を使っていたらキリがないもの」


 そもそも、なんで私があなたのことを気にしないといけないのかしら、と彼女はため息をつく。

正確には、いや、これは俺の推測であるが彼女は自然と人のことを見てしまう癖があるのだろう。それは、いわゆるいい癖というやつなのかもしれない。自分のことばかり気にしているよりかはよっぽどいいように思えた。本人にとってはただ疲れるだけの話なのかもしれないが。


「あなたはかなりの馬鹿なんじゃないか、と言ったのよ」


「振り返ってもひどい言い回しだな」


「断定していないだけまだマシだと思いなさい。ただの疑念と推測よ」


「疑念と推測ねえ……」


 それで彼女が出した推測としての答えが「飯田奏斗は馬鹿」ということらしい。真実としての答えを出すためには実験を残すのみとなったわけだ。


「それはあれだな。俺の沽券にもかかってくる話だ」


 同級生に馬鹿だと思われたまま過ごすのは、少なくとも、俺自身は嫌である。馬鹿だ馬鹿だと言われても笑って流せる人はさぞ、徳の高い人物なのだろう。嫌味ではなく、本当にそう思う。しかし、それでも流せることができない。そんな自分は人としての器が小さいのだろうか。


「沽券、ね。補習に来る人間に沽券も何もあったもんじゃないと、私は思うのだけど」


「これでもプライド的な何かは傷ついているよ。ズタズタだ」


 最後の最後で失敗する俺を、一体どれだけの人が笑うだろう。そう考えると俺はまだ同じように笑って流せる自信はない。いや、断定的に流すことなどできない。

 醜く顔をゆがませて、醜い言い訳を吐き出す自分が目に浮かぶ。そして、その後、さらにプライドが傷ついた自分に気づく――とんでもない、しかし、決して空想的ではない悪循環だ。自分で自分のプライドを傷つけていることに気づくほど、恥辱的、屈辱的なことはない。自分が情けなくて死にたくなるかもしれない。

それが今、俺が辿っている道なのかもしれないと思うと怖くてたまらなかった。


「変にプライドが高いのは嫌われるわよ。もちろん、ないよりはあった方がいいのだけど」


 どんぐりの背比べ、というやつか。


「白河さんは? 自分のプライドについてどう思う?」


「……まるで遠回しにプライドが高い人物と言われているようで気分が悪いわ」


「ただの疑念と推測だよ」


 深く考えたつもりはない。ただ単純に言葉を返すのにその言葉が一番、適切であるように思えたのだ。


「どうせあなたのことだからこの口調や性格的なことでそう判断したんでしょうけど――残念ながらそれはハズレよ」


「プライドが高いわけではないと?」


 そうなるわね、と彼女が嘆息する。ため息をついたのは俺の推測に呆れたからではなく、次に発する言葉のために息を吐くことで準備を整えるためだろう。何かを話す際に、一度、深呼吸をしておくとスッと言葉が出やすくなるのと同じである。

 俺は次の言葉を待つことにした。何かを話そうとしているのは分かっているのだから、今は耳を傾けることに徹した方がいいだろう。相手が話そうとしているときに割って何かを話すのは、神経を逆なでする行為になることだってあるのだ。彼女のような自己主張の激しい相手なら特に。

 彼女はもう一度、一呼吸してゆっくりと口を開いた。

 しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。


「……いえ、もしかしたら私はプライドが高いのかもしれないわ」


 彼女は凛としてそう言った。

 俺は驚きで呆然と彼女を見つめていた。彼女が、白河さんが自身の言葉を自身で否定するなんてことは天地がひっくり返ってもありえないことであると、そう思っていたからだ。


「でも、もし、私のプライドが高いのだとしたら全教科補習という言葉に耐えられているかしら? 絶対にそんなことはないと思うのだけど……」


 彼女が彼女自身の言葉に迷っている。

 それも、想像だにしていない光景だった。

 不謹慎ではあるかもしれないが、少し面白いと思ってしまった――その妙な自信はどこから湧いてきているのだろうか。


「プライドが刺激されるトリガーが別にあるとか?」


 可能性の一つとしての疑問を投げかけてみる。


「そう……かもしれないわね。あながち間違ってはいないわ。と、するとあれかしら、私も変にプライドが高い人間ということになるのかしら? 私はこれでもそれなりに嫌われているからその素質はあると思うのだけど」


「でもないよりはあった方がいいんだろ?」


「そうね。人のこと言えないのについ、言ってしまったわ。気を悪くしたのならごめんなさい」


 彼女が深々と頭を下げる。やはり、誰かに謝辞されるのはなんだか居心地が悪く感じた。謝られ慣れていない、というのもあるだろうが彼女は特に、悪いことをしたわけではないのだ。たしかに、人よりも少し言い方がきつい、やはり一言二言多いのは認めるが、間違ったことは口にしていないのだから。


「そこまで謝られるとこちらまで罪悪感にかられてしまう。それに、そんな謝ることでもねえよ」


「…………」


「それにそんな自虐的になられた後で謝られても困る……いや、今のは少し言い方が悪かった。といっても代わりの言葉は思いつかないんだけど。でも、本当に謝る必要はねえよ」


「そういうものかしら」


「そういうものなんだよ」


 彼女が頭を上げる。前に垂れていた長い黒髪がサラリと流れて元の位置にもどる。


「白河さんはあれだな、物事を大げさにとらえすぎる癖があるな」


「そんなことはないわ」


「あ、そこは否定するんだ」


「なんだか、あなたに諭されるのは気分が悪いもの」


 素直じゃないなあ、そう言おうかと思ったがやめておいた。そんなことを言った時点で諭されたと認めているようなものだからだ。天邪鬼な彼女はそう悟れるようにわざとそうなる言葉を選んだのかもしれない。さすがに、それは考えすぎかもしれないが。


「なんだか、あなたが人に嫌われる理由が分かったような気がするわ」


 彼女はふと、思いついたようにそう言った。

 彼女は俺に友達があまりいないことを知っているのだろうか。そのような自虐的な発言はしていなかった気がするのだが。

 彼女は、


「ただの疑念と推測よ」


 と――少し、混乱する俺に嘲笑しながらそう言った。


 話をもどした方がよさそうだ。もちろん、メンタル的な問題で。


「で、だよ」


「?」


 彼女が怪訝そうに首をかしげる。昨日の葉渡とは違い、そのしぐさはかなり大人びているように感じられた。葉渡には失礼かもしれないが二年という月日の差はこれほどまでに人を変えてしまうらしい。


「そろそろ俺のことを馬鹿と称した理由をお聞かせ願いたいな。いい加減、俺も帰りたい」


「なら、帰ったらいいわ。別に、引き止めたりしないから」


 彼女がスッと視線をそらす。


「そんなにあっさり引き下がられたらこっちもさすがに寂しいんですが⁉」


 今、それなりに和気あいあいと会話を繰り広げていた気がするのだが。それも全て俺の勘違いだというのか。いや、そんなことはないはずである。

 ここまで一緒にいて彼女について分かったことがいくつかある。そのうちの一つが、彼女は別に人が嫌いなわけでもなければ、人と話すのが嫌いなわけでもないことだ。そんなこと、彼女は一言も言っていない――俺が彼女に人が嫌いそうという印象を勝手に抱いていただけだ。彼女には失礼かもしれないが、俺の目にはそうとしか映らなかった。


「いや、別に本当にいいのよ。本当にとるに足りない話でもあるのだし、よく考えてみると私が語る話でもない気がしてきたわ」


「そんなに遠慮するなよ、逆に気になる。よし、俺は決めたぞ。もう決めた。俺は白河さんの話を聞き終わるまで帰らない。これでいいか?」


「良いも悪いも私はどちらでもかまわないのだけど……まあ、聞いた方があなたのためになるのは確かかもしれないわね。人の話を聞くことに無駄なことなんてあまりないもの。ましてや私の話となると特に」


 彼女が納得したように何度か首を縦にふる。なんとなく分かる。これは俺のその話を聞く姿勢に納得したのではなく、自身が言った言葉に関してうなずいているのだろう。要するに、自画自賛というやつだ。


「いいわ、話してあげましょう」


「そう言ってくれるのを待っていたぜ。あ、でも難しい話は勘弁な」


「あなたが馬鹿だから?」


「そう受け取られても仕方ないか」


 白河さんの話が分かりづらいから、とは口が裂けても言えまい。それは話の聞き手として失礼というものだろう。俺は別に、彼女の話し方にケチをつけたいわけではないのだ。すでに大分、手遅れのような気がしないでもないが。


「あなたはいつも補習中、どこを見ているの?」


「?」


 今度は俺が首をかしげる。彼女の話が理解できないというよりかは、まさか彼女がそこから話を切り出すとは思わなかったという驚きによるしぐさと表現する方がこの場合の理由としては近い。


「というと?」


 そう言うと彼女は話をつづけた。


「上の空、というのかしら。卒業すら危ぶまれるからという理由で設けられたこの補習という時間の中であなたはいつもどこか集中していない様子でいるわ」


「そうなのか?」


「それは私に聞かれても困るわ。あなた自身のことだもの」


 それもそうだ。


「なんというか、その、上手く表現はできないのだけど……形としては黒板を見つめているし、板書もしているのに実際は何もしていない、というのかしら。あなたの目はいつも達観したようにその奥を見据えているように見えるの」


 どこも見ていないという可能性ももちろんあるのだけど、と彼女は付け加える。

 そんなつもりはもちろんなかった。

 だから、彼女が付け加えたどこも見ていない、というのが正しいのかもしれない。どちらにせよ、そんなこと気にもしていなかった。

 しかし、どこか集中できていないのもまた事実だった。そのことはなんとなくであるが自分でも分かっていた。理由は分からない――そのことについて全くと言っていいほど危機感を感じなかったのもまた、言われてみると不思議である。


「なんか、その、迷惑だったか?」


 彼女は俺なんかよりもよっぽど補修について真面目に取り組んでいたのかもしれない。そんな中に補習に集中しきれていない人間がいるというのは、全体の士気(二人であるが)が下がるといった意味で邪魔になるのかもしれない。運動部などでしばしば意識の違いによって生まれるいざこざのようなものだ。それらは案外、修復不可能なほどに根が深かったりする。


「いや、別に迷惑ではないわ。勉強に対する意識が本当の意味で同じ人なんてほとんどいないもの」


「そう言われるとなんだか救われたような気持ちになるよ」


「で、実際のところどうなの? あなたはこの補習に意味を見出していないということなのかしら?」


 分からない、と俺は言った。そうとしか言えなかった。

 この前、つい昨日くらいまでならただ面倒な時間として片付けていただろう。しかし、いざ、そのことを指摘されるとなんだか考えてしまうものがある。


「まあ、あなたの心中はどうであれ、とにかく追試だけは突破することね。どれだけ補習に顔を出しても最終的な結果は点数という数字でしか認められないわ、残酷なことに学生とはそういうものよ」


 彼女はそう言って荷物をもって立ち上がる。カバンは俺と違ってとても大きく、かつそれもパンパンに膨れていた。彼女の落とした単位数を考えれば納得であるが、今の俺にはそれ以上の意味があるように思えた。


「話はこれでおしまい。私はお先に帰らせてもらうわ。今日は珍しくこの現代文だけで補習もおしまいなの」


 次は明後日ね、と言って彼女が教室を立ち去ろうとする。


「ちょっと待ってくれ!」


 俺はそう言って彼女を引きとめた。

 なぜ、そうしたのかは分からない。

 どうしてその言葉がでてきたのかも分からない。

 けれど俺は、どうしても彼女にそれを聞きたかった。

 無性に聞きたくなったのだ。


「白河さんは学校が好きか?」


 彼女がこちらを向いてその問いに対して答える。


「嫌いね。夢のない人が多すぎるもの」


 たった、二言。それだけ言って彼女はその場を去っていった。


 彼女の一言目の答えは俺と同じものであったがその理由や意味にはかなりの違いがあるように思われた。二言目にそれがよくあらわれている。

 俺は自分以外の生徒が自分とは違い、いや、自分を認識していないかのようにキラキラと学生生活を謳歌しているのがどうにも我慢ならないのだが(要するに嫉妬に近い感情)、彼女は彼らのことを夢がないから嫌いなのだという。

 つまり、大げさかつ単純に言うと俺は彼らを自分よりも階級のようなものが上だと感じているが、彼女は反対に自分よりも階級が下だとみなしている。ただ、断言できるのはどちらも良いふうには見られないということだろう。当然、平等を良しとする昨今の世の中で人を嫉妬の視線で見上げたり、嫌悪の視線で見下したりする人間が好かれるはずがない。どちらもうざったいと感じられるだろう。


 おそらく、俺があまり学校に馴染めていない理由はそこにもある。そして、彼女があまり学校に馴染めていない理由もそこにある。一般的にいうと、それらはきっと悪いことなんだと思う。人は人を見上げるべきではないのかもしれないし、見下すという行為に関しては言うまでもないだろう。しかし、変に俺を邪険に扱う学校の生徒たちよりも、「夢がない」と言ってバッサリと斬った彼女の方がよっぽど格好いいように思えた。俺の気持ちではないが、俺の言いたいことを代弁してくれているようにさえ感じた。


そんな彼女に興味を抱いた。

そんな彼女が面白いと感じた。

そんな彼女をもっと知りたいと思った。


 どこから始めようか――そうだ、まずは。


「『絵を置く旅人』を読まないとな」



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