11.
※
ゼーレンブルン城での魔法の訓練の一環として、自分の限界を見極める、というものを課されることがあった。
魔術師にとってそれは、どれほどの量の〈不純物〉を許容できるか、ということを第一義とする。第二義としてはフィジカルな体力ということになる。もっとも、こちらは魔法の技術を磨けば消耗も抑えられるので、〈不純物〉の許容量ほど重視されているわけではない。
具体的な訓練内容は、〈モナドの窓〉を開いて念動力で重りを持ち上げ続けるというものだった。持久走にも似た苦しい訓練で、姉さんも私も、あまり好きではなかった。そうは言ってもやはり、訓練を続けて〈器〉の容量が増すにつれて、限界に至るまでの時間が伸びるのは嬉しかった。
最後にこの訓練を課されたのが今年の七月、日本に発つ少し前だった。その時に比べて、意外にも私は〈不純物〉の許容量を増大させていたようだ。高原たちとの決闘だって実戦なわけで、経験を積むという意味では案外バカにしたものでもないのかもしれない。
……しかしそれでも、限界はいずれ容赦なくやって来る。
相川と連携しながら、いったいどれくらいの間戦い続けただろうか。攻性魔法の発射を阻止し、飛来する尾を障壁で弾き、私たちは“姉さん”を叩き続けた。それでも相変わらず効果を上げていない。
そしてついに、
「ぐっ……?」
くらり、と私は軽い目眩を覚えた。〈不純物〉が精神と肉体を圧迫し始めたのだ。
もはや私たちの攻撃はジリ貧になる一方だった。ダメージを与えることよりも、“姉さん”をこの場に留めること、そしてあの危険極まる攻性魔法を撃たせないこと、それだけが目的となりつつあった。遠からず、自分の身を守るので精一杯になることだろう。ゴールの見えない長距離走は、ただでさえ私の精神をすり減らしていた。
だが、限界が見え出していたのは私だけではなかった。しかもそれは、予想もしなかった形で突如として訪れた。
ぎゅっ、と一秒足らず目を瞑り、眩みを追い出してから、魔法の準備を再開する――その私の視界の隅で、相川の膝がかくんと折れた。
さっきまであれほど敏捷機敏に動いていた相川の身に何が起こったのか、私は把握しかねて咄嗟に動けなかった。
「あちゃ、こんな時に……」
しゃがみ込んだ姿勢で両の太ももを平手で叩き、がくがくと震える両脚を叱咤して立ち上がろうとする相川。そんな彼女の様子に、後方で体力の回復に務めていた一条が、ハッと顔色を変えた。
「魅咲? もしかして……」
「あー、うん。昨日『あれ』やっちゃってさ。でも、大丈夫だから。このっ、言うこと聞けっての!」
そんな風に強がり、今度は握り拳で腿を叩こうとする。だが、あろうことか、相川の拳は自分の脚をかすめることさえなく空を切った。
「あ……れ……? く、そっ……」
バランスを崩した相川はそのまま顔面から地面に倒れた。そして、普段の彼女を知る者には信じがたいことに、そのまま沈黙してしまった。
その相川に、“姉さん”の攻撃が殺到する。上方から、五、六本の尾が、動きの止まった獲物を串刺しにせんと襲いかかる。
「魅咲!」
一条と私は同時に地面を蹴った。
離れた場所にいた私の方は、到底間に合わなかった。
代わりに、地面スレスレを滑空した一条が、相川の背に覆いかぶさり、防御障壁を張った。
まったく、一条と来たら――全速力で走りながら、私はどこかしら呆れていた――さっき同じようにして私を守ったと思ったら、今度は相川か。
魔術師は普通、危機が顕在化する前に先読みで防御障壁を張る。強力な光線でも放たれたら間に合わないかもしれないからだ。
なのに一条はその展開スピードが異常に速い。私よりも明らかに上である。
同じ魔法を使えば使うほど、精神から〈器〉への働きかけに慣れ、行使する速度が上がる。一条はこれまで何度防御障壁を張ったのだろう。幾度こうして相川や高原を守ってやったのだろう。
――あまりいいところを見せないでよ、敵愾心を保てなくなるじゃない。
私の足は、目まぐるしく移る思考の速度に追いついていなかった。体育の授業でやらされた水中ウォーキングのように、手も脚ももどかしいほどに動きが遅く感じられた。実際にはこれでも、百メートル走で八秒を切るほどの勢いで走っているはずなのだが。
私が二人のもとに駆けつけるよりも遥かに早く、“姉さん”の尾が次々にその障壁に突き刺さり――
「あ……」
最後の一本を受け止めたところで一条の防御障壁が消失した。それとともに、力を使い果たしたのであろう、一条までもが首を折って動かなくなった。
「〈烈風刃〉!」
なおも二人に迫ろうとする尾を目がけ、私は微細な氷の粒を交えた突風を放った。
引き裂かれた尾が、ズルズルと後退していく。だがそれと入れ替わるように、倍する数の尾が、再び一条と相川のもとへと伸びる。
私はもう一度攻性魔法を放とうとして――失敗した。〈不純物〉に圧迫された精神は、〈器〉への作用効率を低下させていたのだ。
とうとう尾の内の三本が、倒れたままの一条の体に絡みつき、宙に吊り上げた。蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のような格好の一条を引き寄せながら、“姉さん”は口を大きく開いた。
攻性魔法を撃つ気か、と思った。
だが違った。
――“姉さん”は一条を口内へと運ぼうとしていた。
「姉さん!?」
させない! そんな蛮行に姉さんを走らせてなるものか!
魔法が使えないのなら、直接あの尾を引きちぎってやるまでだ。私は一条と“姉さん”の間に飛び込んでいった。
その刹那――
「どいてどいて! ノエマ、どいてーっ!」
聞き覚えのある声が降ってきたかと思うと、足を止めた私の前を黒い影が上から下へ猛スピードで通過していった。同時に、一条に巻きついていた尾がまとめて切断され、解放された彼女の体が落下する。
それを為したのは、赤く光る灼熱の刃――
一条の体をキャッチした私は、その持ち主を見上げた。
巨大な黒い帽子に同色の大きなマント。アクセントを加えるは鈍く輝く黄紫水晶。滝のような細い髪が腰までを覆い、普段タレがちなその目は敵意に吊り上がっている。
「あー、もうっ。あんなん見られたらもう伊豆高原行けないじゃないのよ! これ持ってアクティー乗るのもすっごい恥ずかしかったし!」
高原だった。わけのわからないことを言って、ぷんすか怒っている。片手には長柄の箒。それを少し離れた所に放り投げ、びしっと“姉さん”を指差す。
「あんな生き恥晒したのはあんたのせいだぞっ、この野郎!」
戦意は上々のようだが、何をやらかしたんだ、こいつは。
それと……
「高原、何か変な臭いが」
「うっさいわアホっ! 臭いのはあいつのせいでしょ!」
高原は赤い顔で怒鳴り、それからもう一度“姉さん”を見据えた。
「こいつは」
「……姉さんです。姉さんが変身して、こんな姿に。私と姉さんはたぶん夜の――」
支離滅裂な説明。それさえも尻すぼみになってしまう。
だが高原は呆れたような顔で私を振り返った。
「は? ノエシスが変身? ――いやいやいや。あんたらが〈夜の種〉かどうかは知らないけど、これはそういうんじゃないでしょ。あー、そんなんで手こずってたんだ?」
「え?」
「しっかりしなさい、ノエマ! あんたは冷静な判断力を失ってる。よく観察して。あいつのあの体色、あの腐り切った目、それからこの胸のムカつく臭い、魅咲や伽那はともかく、あんたは知ってるはずでしょうが。ノエシスがこうなったってことは、あのときあそこでわたしを助けてくれたの、あんたたちなんでしょう? あのとき何か無かった?」
助けた? 何のことだろう?
――と、そこでやっと思い至った。“あのとき”とは、火曜日の廃病院での戦いのことか。
ハッとして“姉さん”に視線を戻す。
「もう一度言うけど冷静に考えて。ノエシスがこんな風になるわけないでしょうが。あいつは……」
答えが見えてきた。そういえば、あの戦いの折――
「あいつはあのホムンクルスとやらの成れの果て。どうやってかは知らないけど、あいつはノエシスに寄生して力を回復してたの。そして、ヤブ医者が力を込めた黄紫水晶なんかよりも、もっともっと強い魔力の塊を得て、こんなばかでかくなった」
姉さんはあいつの体液に目や口の中まで侵されてしまった。
「じゃあ……っ!」
「うん。ノエシスはあの薄気味悪い体のどこかに取り込まれている。そこから切り離して救出するのは、たぶん不可能じゃない――っと、話の邪魔すんな!」
新たな敵を認めて攻撃を仕掛けようとしたホムンクルスに向かって、高原は攻性魔法を放った。指先から伸びた白い光は狙いすましたように化物の眉間に突き刺さり、炸裂した。両の眼球を失ったホムンクルスが、めちゃくちゃに尾を振り回しながら右往左往する。
薄っすらと希望が見えた。姉さんを救うことができるかもしれない。
でも、どうやって? この巨大な肉塊から、姉さんを掘り当てるのか? ――無茶だ。片っ端から再生されてしまう。
せめて……せめて姉さんの体の位置さえわかれば……。
「ねえ、ノエマ」考え込んだ私に、高原が再度声をかけてきた。「ごめんね。うちの琉斗のせいで、つらい想いをさせちゃったみたいね」
ぐ、としばし言葉に詰まった。なんでこいつがあのことを知ってるんだ。
「こんな時に何を。もういいんです、そんなこと」
本心かと問われれば微妙だが、優先順位は弁えている。
「道々ずっと考えてたんだ。姉妹たった二人だけで異国で生活を始めて、知らない人間関係に飛び込んでいくなんて、どんなに心細いだろう、って。わたしには到底無理だわ。きっとあんたたちはお互いに支え合っていたから、それができたんだろうな」
高原はそんなクサいことを言う。また元ネタがあるのではないかと疑ってしまった。
「半身を失いかけているあんたの辛さ、想像に余りあるわ。しかもうちのアホな弟のせいで傷ついてるタイミングでだなんて。――ねえ、ノエマ、あんたはノエシスを絶対助けたいわよね。そして私は、そんなあんたを助けてあげたい。こんな想いでやったことはないんだけど……。だからわたし、やってみるね」
そう結び、高原は目を瞑った。
一体何を――そう言いかけ、息を呑んだ。高原は変わろうとしていた。
※
意識的にこれを使うのは初めてだった。
死ぬかもしれないという恐怖は、不思議と感じなかった。そんな夾雑物が交じり込んではそもそも成功しないのだ。
詩都香は想像してみる。ノエマがどれだけ姉を慕っているか、助けたいと思っているか。そうしながら、〈モナドの窓〉の開放率を上げていく。
(あ、くっ……)
押し寄せてくる〈不純物〉によって頭が割れるように痛む。このままではまた吐いてしまいそうだ。
……ダメだ、やっぱりこの程度の「想い」では変われない。まだ足りない。詩都香は感情移入しやすいタチだが、まだ足りない。
ならば――
「……ノエマ、ちょっと手伝って。ノエシスへの想いを精神感応の波に乗せて、わたしに全部注ぎ込んで」
詩都香はいったん目を開き、ノエマにそう求めた。詩都香としても新しい試みだった。
ノエマは思いがけない言葉に戸惑った様子だったが、それもわずかの間だけだった。意を決した表情で片手を伸ばす。その手が詩都香の額に触れる。その目が柔らかく閉ざされる。
そして、ありったけの「想い」が、詩都香の魂を揺さぶった。
※
高原の言葉は不可解だったが、微かな予感めいたものもあった。彼女は、「奥の手」を使おうとしているのだ。
いや、そう納得するより先に、私の手は素直に彼女に向かって伸びていた。
目を瞑り、過去を想起する。
――姉さん。
記憶に残る最古の出来事から、否、それ以前から、何をするにもずっと一緒だった姉さん。
助けたい。助けてあげたい。助けてください。
――お願い、高原!
私は高原に、全身全霊の願いを託した。
※
詩都香は確かにそれを受け取った。
同時に、〈モナドの窓〉を全開。
〈モナドの窓〉の開放率に従って、混沌に含まれる〈不純物〉の割合は等比級数的に上がる。開放率百パーセントでは五割近い。母数、すなわち流れ込む混沌の量そのものもマキシマムまで増加しているのだから、〈不純物〉の量は途方もないものだ。目の細かい〈フィルター〉をかければ幾分かシャットアウトできるが、それでもすぐさま術者は再起不能になる。そもそもにして、〈フィルター〉をかけて単位時間当たりに取り込める混沌の量を減少させるのならば、全開にする意味など最初からない。
「〈開放〉」
だが詩都香は、最後の防波堤である〈フィルター〉さえ取り払う。
押し寄せてくる莫大な量の異界の混沌。その半分は現実態をわずかに含んだ〈不純物〉。それが〈炉〉を抜けて〈器〉に到達すれば、彼女はおそらく死ぬ。
だが詩都香は、ノエマの想いを受け取った詩都香は、その想いを〈炉〉に通した。別種のエネルギーを授かった〈炉〉が、ごうと燃え立った。
そしてひと声叫ぶ。
「〈消尽〉!」
※※
「そろそろ、かな」
映像を投射する盟主が、周囲の注意を喚起した。
「タカハラ・シズカ、今は取るに足らない初心者魔術師だ。〈モナドの窓〉の大きさ、〈器〉の容量、魔法の技術、いずれも研修生のレベル。あまりもったいぶって徒な期待を煽ってもなんなので、あらかじめ断っておくけど、イチジョウや昨日のアイカワのような劇的な変化はないよ。些細な、本当に些細なパワーアップだ。だが、諸君。世界の頂点に立つ魔術師諸君――」
※
詩都香の黒髪が、芯から輝き出す。
※※
「――諸君の中で、タカハラと同じことができるという者がいたら、名乗り出て欲しい」
円卓の周りから次々に驚きの声が上がる。表情を変えないのは、盟主の他は彼女たった一人。
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〈器〉はあっという間に魔力によって、魔力のみによって満たされた。消費しきれない余剰魔力が、長い髪を伝って少しずつ放出されていく。その髪一本一本にいたるまで、青白い光が宿っているかのよう。
※※
その光をどこか懐かしい気持ちで眺めていた彼女は、盟主の言葉によって現実へと引き戻された。
「諸君にもわかるね。あの娘は今〈モナドの窓〉を全開にしている。〈フィルター〉も何もかけていない。それにもかかわらず、この余裕。そう、あの子は――」
※
詩都香は目を開いた。その瞳も、超高温の恒星を閉じ込めたかのようなウルトラマリン。
※※
「――〈不純物〉を全て燃やせるんだ」




