7.
※
「あ~、“許可”が出ちゃった」
「許可?」
携帯で会話しながら“姉さん”の攻性魔法をかわすという意外すぎる反射神経を見せた一条だが、通話を切るなり、泣きそうな顔で頭を抱えた。いったいどうしたというのだろう。
「うん。……恵真ちゃん、できれば見ないで欲しいんだけど、そういうわけにもいかないよね。あ~ん、詩都香も魅咲も他人事だと思って」
空中でくねくねと身悶えする一条。なかなかに器用だ。
しかしそれも暫時のこと、やがて彼女は落ち着いた様子で直立姿勢をとった。
「……はぁ、しかたないか。ちょっとだけ待ってね。人前じゃやりたくないんだけど、恵真ちゃんだったらいいや。今朝えらそうなこと言っちゃったしね」
不可解な言動とともに、一条は私に背を向けた。それから、固い体で無理をして両の親指で肩甲骨の当たりを指す。
「ねえ恵真ちゃん。この背中のとこにチャックついてるから、それ開けてくれない? あ、中のブラウスにもあるから、それも」
彼女の制服には、一見してそれとわからぬ形でファスナーが設えられていた。私は言われたとおりにそれらを開けてやった。
「ありがとう。じゃあ、やるね」
一条は目を瞑った。そのまま数秒経ってから、
「〈超変身〉!」
彼女は瞼を上げて叫んだ。
なんだそれ、と疑問に思う間もなく、彼女は変化を開始した。
「なに、この魔力……?」
一条の〈モナドの窓〉が数倍に膨れ上がった。〈炉〉の火が煌々と燃え、同じく幾倍にも容量を増した〈器〉に、精錬された魔力が勢いよく流れ込んでいくのが感じられた。
身体の方も変化していた。私が開けてやった開口部を抜けて、太古の翼竜のような巨大な翼が展開される。すっと見開かれた両眼の、私に向けられたその瞳は、鮮血のごとき紅。
そうだ。普段忘れがちだが、彼女は純粋な人間ではなかったのだ。
「どう、かな? やっぱ化け物みたい?」
すっかり変貌を遂げた一条が、自虐的な物言いをしつつ目を伏せた。その唇から、吸血鬼のように伸長した上の犬歯がはみ出ていた。
「いえ、あなたは元々童顔なので、少し茶目っ気が増しただけのようにも見えますが……」
なに率直な感想を述べてるんだ、と我ながら呆れた。
だけど、それだけ一条の変化に呑まれていたのも事実だ。
〈半魔族〉……その存在を、私は甘く見ていたのかもしれない。
「〈超変身〉ってね、詩都香が名づけたの。わたしたちって、実は三人ともこういう奥の手を持ってるんだ。〈モナドの窓〉を開く“変身”から、さらにもう一段階変わるから〈超変身〉なんだって。何のネタなのか、わたしにも魅咲にもわからないけどね。三人とも使った後は反動があるし、色々事情もあって、今まで見せたことはなかったけど」
三人が何か切り札を隠し持っているという私たちの推測は当たっていたようだ。
だが、今の一条の力が加われば、ひょっとすると何とかできるかもしれない。
「わかりました、やりましょう」
元に戻す方策は思いもつかなかったが、とにもかくにも“姉さん”を行動不能にしなければならない。
勢い込む私に対して、しかしながら一条はかぶりを振った。
「ううん、恵真ちゃんには別にやって欲しいことがあるの。――あれ」
一条が指差す先には、山火事の現場があった。白い煙が本格的に上がり始め、延焼の危険性が高まっている。
「恵真ちゃんなら何とかできるでしょ? わたしにはそういう技術ないから」
「でも――」
喫緊の問題はそこではないだろう。そう反論しようとしたが、一条から遮られた。
「このままじゃ人が来ちゃう。その人たちを巻き込まないようにしながらじゃ、とても戦えない。それに、あの下には新幹線のトンネルもあるし」
「あなた一人にあれの相手を任せられるわけないじゃないですか」
「やっつけるのは無理かもしれないけど、足止めくらいはしてみせるよ。そのために詩都香と魅咲の許可をもらったんだから」
一条がにぃ、と口の端を吊り上げた。いつか見せたあの笑顔だった。
しばらく見つめ合った末に、先に目を逸らしてしまったのは私だった。
一条の言うのは正論である。〈連盟〉に所属する魔術師には、周囲への被害を最低限に抑える義務がある。この場でそれを履行することができるのが私しかいないのであれば、やるほかない。
それでも私は、未練がましく最後にひとつだけつけ加えざるを得なかった。
「……一つだけ、お願いがあります。その機会があっても、あの〈夜の種〉を殺さないでください」
一条がきょとんとする。だが、彼女はもう一度小さく笑い、コクリと力強く頷いた。
「わかった。できるだけ早く戻ってきてね」
私は一条に背を向けると、山火事の現場に向かって飛翔した。
※
「詩都香、電車の時間は!?」
詩都香は携帯の時刻表示を見て溜息を吐いた。
「……だめ。二分後に『踊り子』が出ちゃう。次の普通電車だと、三時間かかる」
二分で駅まで辿り着くのは到底不可能だ。
「そっか。困ったわね……って、なんであんた特急の発車時刻なんて覚えてんのよ」
「名前に惹かれて駅で覚えちゃった。伊豆だから“踊り子”……安直だけどいい名前よね」
詩都香は肩をすくめて韜晦した。
残る手段は――仮病で先生の車で自宅に送ってもらう……だめだ、最寄の病院に搬送される。
家族が急病……送ってもらった後、先生も見舞おうとするだろう。身動きが取れなくなるかもしれない。
(まあ、そこはなんとか誤魔化すとして、琉斗にでも死にかけてもらうことにするか)
詩都香が頭の中でストーリーを組み立て始めた時だった。
「これを使いなさい」
思わぬ所から不意に声をかけられ、詩都香のみならず魅咲までぎくっとすくみ上った。
振り返ると、副部長の初瀬佐緒理だった。その手に長い棒状の物を携えている。実測用のロッド――ではなかった。
「副部長? えーと……?」
どこから聞かれていたのだろう? いや、彼女がどこから聞いていたとしても、二人の話を理解したりはできないはずだ。
――彼女が普通の人間であるならば、だが。
「これを使いなさい」
再度繰り返す佐緒理。歩み寄ってきた彼女は、手に握ったそれを詩都香に向かって差し出した。
「えっと、ほうき?」
思わず受け取ったそれは確かに箒だった。ただし、日本で一般的な竹箒等ではなく、タモ材の柄に麦わらの穂先がくくりつけられた、西洋のアンティーク調のものだ。
「もしかして、これって……」
「そう、魔法の箒。魔力で空を飛ぶことができる補助具。あなたたちはまだ飛行の魔法を使えないようだから」
詩都香と魅咲は、弾かれたように沙緒里から距離を取った。
「副部長、あなたは――」
――魔術師。ということは……
「〈リーガ〉の構成員なの?」
詩都香の後を承けた魅咲の問いに、しかし佐緒理は否定も肯定もせずにただ一言。
「急ぐのでしょう?」
それっきり彼女はだんまりを決め込んだ。何を訊いても無駄なようだ。
「……わかり、ました。副部長はみんなを適当に誤魔化しておいてください」
「ちょっと、詩都香!」
抗議の声を上げる魅咲の手首を、詩都香は開いている方の手で握った。
「行こう、魅咲。まずは伽那の方が優先」
詩都香を見返す魅咲の表情にはためらいの色を残されていた。詩都香はそれを振り切るように駆け出した。
※
消火作業は思ったより手間がかかるものだった。火消し自体は難しくなかったが、範囲があまりに広い。
私は相模湾まで飛び、そちら側の開口部も先ほどと同じように固めてから作業に当たっていた。この二回の〈極冷波〉で〈器〉の魔力を大部分消費してしまった。
〈炉〉が精錬する魔力は、今連発している魔法と概ね収支が釣り合っていた。手の上に生んだ冷気の塊を、燃え盛る樹木に叩きつけてやる。これで何十回目だろう。
天候を変えて吹雪でもひと荒れさせたいところだが、私の腕ではまだ無理だ。
姉さんが一緒なら、〈魔法剣〉が使えるのに。そうすれば、木々を切り倒しながら一直線に飛んで終わりなのに。
「姉さん……」
一人ぼっちの心細さがまたも襲ってくる。そんな私の前で、峰の向こうから赤橙色の光線が天空へと伸びた。
――まだ大丈夫。まだ一条が時間を稼いでくれている。……でも急げ、ノエマ。
自分にそう言い聞かせ、再び両手に魔力を込めた。
その時だった。
「……っ!」
タイムアップだ。私は唇を噛んで天を仰いだ。
無数の〈モナドの窓〉がこちらへと近づいてきていた。
※
「でもさ、こんな所で飛んだら目立ちすぎない? しかもほうきでって」
「大丈夫。人目につかないように十分な高度をとるまで〈認識攪乱幕〉を張るから」
習得したばかりの魔法をお披露目する時が来たか、と詩都香は内心勢い込む。ゼーレンブルン姉妹のせいか、最近の彼女の中ではドイツ語がブームである。
「何それ?」
「こないだの事件で張られてた結界を自分なりにアレンジしてみたの。人に見られても気にされないし、カメラに撮られてても大丈夫。効果範囲は自分の周りだけだけど。石コロ帽子みたいなものかな」
「詩都香にしてはわかりやすい喩えね。じゃあわざわざ高いところ飛ばなくても、それ張って行けばよくない?」
「それが、三分くらいしかもたないのよね」
二人は言葉を交わしつつも人間離れした速度で階段を駆け上がっていた。一段飛ばしどころではない。二歩で踊り場まで到達するや、靴底が溶けて床に黒い跡が残るほどの切り返しで方向転換、再び次の踊り場を目がけて跳ぶ。
詩都香たちが上っているのは下田駅前のひときわ高いビジネスホテルの非常階段だった。立ち入り禁止の鉄柵を飛び越え、さらに屋上へと続く棟屋の鉄扉を魅咲が蹴破る。屋上に出た二人は、眼下に広がる街と海のパノラマに目もくれず、飛行の準備をする。箒を支えた魅咲が後部――穂先の側――にまたがり、その前に詩都香が横座りになった。
「詩都香と箒乗るの久しぶりだね」
「前の箒があったら、東山まで自転車で行くことないんだけどねぇ。おかげで最近、脚に筋肉がついてきた気がするわ」
「詩都香の脚が太くなったらあの二人に文句言わなきゃね」
二人は視線を交わしてくすくすと笑った。
実は詩都香も二ヶ月ほど前まで魔法の箒を所有していた。しかし、初心者用のその箒は彼女の乱暴な飛行に耐え切れず、〈リーガ〉の魔術師との空中戦であっけなく折れてしまったのである。そのため、毎週のように行われるゼーレンブルン姉妹との決闘の場に赴くために、詩都香たちはえっちらおっちら自転車を漕いで山を登るはめになっている。
「いや、でもあんたはスポーツチャリだしいいじゃん。あたしはママチャリで、しかも伽那と二人乗りだよ?」
魅咲はそんな恨み言を述べる。
「それでもわたしより速いくせに……。よし、準備完了。張るよ!」
詩都香は〈認識撹乱幕〉を展開した。後ろの魅咲が「何か変わったの?」などととぼけたことをのたまうのを無視し、残りの魔力を箒に注ぎ込む。
二人を乗せた箒はふわりと空中に舞い上がった。
「――女子高生、リフトオフ!」
魔力を調整し、急上昇。魅咲が防御障壁を張りながら慌てて詩都香の腰にしがみついた。




