4.
※
洗い物を終え、高原姉へのメールを送信するのとほぼ同時に、姉さんの携帯電話が鳴った。
例によって姉さんは入浴中だった。ディスプレイの表示を見ると、『公衆電話』となっていた。
私は悪戯心を出した。姉さんのフリをして出てやろう。姉さんも私のフリをして登校したのだ、これくらいやっても罰は当たるまい。
「もしもーし? ひあ・しゅぷりひと・しのでーす」
『あ、梓乃ちゃん? 俺。タカヒロ。ドイツ語はびっくりするからやめてくれってば』
うわっ、男だ。早まった。
しかし、後悔先に立たず。今さら姉さんのフリをやめることはできない。
「――ああ、公衆電話からだったからわかんなかったよ。こんな時間にどした?」
『悪い悪い、ケータイの調子が悪くってさ。昨日からメール受け取れなかったんだよ。明後日の約束、変更なしでオーケー?』
約束? 姉さんが、男子と?
「え、あっ、うん……」
意表を突かれて、危うく素に戻りそうになった。さっさと話を切り上げたかったのに、相手がコインを追加する気配があった。
『そ。よかった。それだけを確認したかったんだ。ところで恵真ちゃんは?』
「恵真なら今お風呂だよ」
馴れ馴れしい呼び方をする奴だな。不快さが声音に出ないようにするのに、少しばかり注意を要した。
『そっかそっか。そんじゃ、おやすみ』
「うん、それじゃ……おやすみ」
挨拶を返そうとして相手の名前を咄嗟に思い出すことのできなかった私は、ドイツ語でごまかした。
通話を切った後、リビングの固定電話の子機をとってきて、ゼーレンブルン城の番号をプッシュする。少しだけ懸念していることがあったのだ。
『ハロー?』
「もしもし、こんにちは。ノエマです。」
『おやおや、ノエマお嬢様。こんばんは。ヨハネスです。どうですか、調子は?』
受話器をとったのは、使用人のヨハネスだった。彼も魔術師である。明るい性格で、一般人の使用人の間でも人気者だ。
「うん、まあまあ。城主様はいらっしゃる?」
『生憎と、まだお戻りではありません』
これは予想していたことだ。
「それなら、アーデルベルトに代わってもらえる?」
「承りました。少々お待ちください」
言われた通り保留のメロディを聴きながら待つ。ゼーレンブルン城は決して大きな城ではないが、城主様の加えた増改築のせいで作りが複雑だ。ヨハネスもアーデルベルトも魔術師だから精神感応で相手を呼べるにしても、場所によっては電話のあるホールにやって来るまでに時間がかかる。
三分ほど待っただろうか。何度もループされたメロディを鼻歌でなぞっていると、保留が解除されてアーデルベルトの声が耳に飛び込んできた。
『アーデルベルトです。こんばんは、ノエマお嬢様』
「こんにちは、アーデルベルト。あのね、ちょっと聞きたいことがあって」
私は挨拶もそこそこに用件を切り出した。
『いかがなさいましたか?』
「ええと、答えにくい質問かもしれないけど、城主様って〈連盟〉の中でどのくらいの地位なの?」
『ほう? それはまたなぜ?』
「……やっぱり答えにくいの?」
『いえ、お嬢様方がそのようなことをお尋ねになるのを、今まで一度もお聞きしたことがないもので、意外に思いました』
「気になっていなかったわけじゃないけど、城主様はやっぱり城主様だし。お城にいる間はそれで十分だったもの」
『ふむ。口止めされているわけではないのですが、積極的に教えろとも申しつけられておりませんもので……困りましたな』
やっぱり答えにくいんじゃない。
『しかしそれならば先ほどのヨハネスにでもお尋ねになればよろしかったのに。口の軽い彼ならば、べらべらと喋ってくれたことでしょう』
「城主様が一番信頼しているあなたの口から聞きたかったの」
アーデルベルトが押し黙った。
嘘ではない。それでも、少しズルい言い方かな、と思った。
『……なぜ今になって興味を持たれたか、お教えいただけませんか?』
十数秒ほどの沈黙の後、アーデルベルトはそう問いかけてきた。
「えーと、城主様の推薦を受けてこの任に就いた私たちが失敗続きだし、上からお咎めでも頂戴してはいないかと」
その上今週はサボりである。城主様のお立場が心配だった。
「ほう」と意表を突かれたような声を上げてから、アーデルベルトはくくっ、と小さく笑った。
「それはそれは。お優しいお嬢様らしい。しかしながら、ご心配なさいますな。あのお方を裁ける者は、〈連盟〉の中にも存在しません」
「じゃあやっぱり、城主様は七人の幹部の一人……」
「お気づきでしたか。ええ、それも、選挙侯、ドイツ大法官。選挙侯の首位にして盟主様に次ぐ〈悦ばしき知識の求道者連盟〉のナンバーツー。それがあのお方のご地位でございます。たとえ盟主様といえど、あのお方をどうこうなさることはできません」
盟主を選出する選挙の仕組みと歴史は私たちも学んでいた。選挙侯の筆頭たるドイツ大法官は、五百年前の結成当初から一度も投票権を行使したことがない。他の六人の投票で同率一位が生まれた場合にのみ、ドイツ大法官は投票する。いわゆるタイブレークだ。その一票は幻の票であり、そしてそれにもかかわらず、キャスティングボートとなりうる。
「……やっぱり。でもどうして城主様は私たちに教えてくださらなかったのかしら」
まだ年若のヨハネスでさえ知っていたということは、城の魔術師の間では公然のことだったのだろう。
『さあ、どうしてでしょうかな。あのお方のお考えはつかみどころがありませんから』
百五十年も仕えるアーデルベルトがそれでは、十年一緒に過ごしただけの私たちには計り知れない。
『――お嬢様方がドイツ大法官の弟子であることを鼻にかけて慢心するのを懸念されたのかもしれませんし、お嬢様方が縮こまってしまったり距離を置かれるのを怖がっておられたのかもしれません』
「そんな」
そんなことあるわけがないのに、と少し悲しい気持ちになった。
その気配を察したのだろう、アーデルベルトがすぐさま付け加えた。
『失礼いたしました。今のは私の勝手な憶測です。――あるいは城主様は単純に、この仰々しいご地位を明かすのが恥ずかしかったのかもしれません。あのお方がご自分からドイツ大法官を名乗ることは決してありませんから』
「ああ」
それが一番ありそうに思えた。選挙侯を『ごっこ遊び』呼ばわりした城主様だ、自分がその筆頭であることを明かすのは、恥ずかしいのかもしれない。
「でも、私たちにくらい教えてくださってもいいのに」
『それは違います。親しい者には何でもさらけ出せるというのは幻想。特別な相手だからこそかえって秘すべきこともあるのではないでしょうか』
「そういうもの……なのかな」
私にはよくわからなかった。クラスメートたちにも隠し事だらけの私には。
『――おっと、そうでした、そうでした』アーデルベルトは話題を変えた。『あれから思い出したのですが、お嬢様方が討った怪物、“ホムンクルス”でしたか。人工の生命――私は以前、そのような研究に従事する者と知り合ったことがありまして』
「へぇ」
正直なところ、あまり興味を惹かれる話題ではなかった。
『以前わたくしが研修生としてストラスブールで研鑽を積んでいた折、同僚がそのような研究をしておりましてな。主の年一八六〇年前後のことでございます。ご存知の通り、その後アルザス地方では色々とありまして、彼もごたごたの間に行方不明になっていたのですが……』
私は第二の祖国の歴史を思い起こした。ストラスブールを首府とするアルザス地方は、一八七〇年に起こった普仏戦争の結果ドイツ帝国に併合され、第一次大戦後にフランスに返還されていたはず。
「それで、その彼はその後どうしたの?」
『それが、どうもイギリスに渡っていたようでして。風の噂では、最近就任した選挙侯の一人、イギリス大法官が彼だとか。上り詰めたものですな』
途端に話が大きくなった。私の知識では、イギリス大法官といえば七人の幹部の中でも序列二番目か三番目のはず。
選挙侯には各国――必ずしも今日の国民国家の領域とは一致しないが――の最高位の魔術師(通例、大法官)が就任する。選挙侯を出している国は選挙侯国と呼ばれ、その数は七つに限定されている。
もちろん固定メンバーではない。選挙侯の誰かが死ねば代替わりするし、後を引き継ぐ有力な魔術師がいなければ選挙侯国は他に移る。十九世紀後半にイタリア王国が選挙侯国の座から脱落したため、〈連盟〉の設立当初からの選挙侯国は、イギリス、スペイン、フランス、それにドイツのみである。
「それで、イギリス大法官――失礼、猊下はどうしてるの?」
『それがわからないのです。うかがい知れないので不気味――失礼、不思議なのです。第一次大戦後は一時期日本に赴任していたという噂なのですが。第二次大戦の直後に選挙侯に就任し、それ以後のことはわかりません。もっとも、第十一階梯の私めには知る由もありませんが。ただ……』
「ただ?」
『彼が研究していたのは、不死身の生物――というより自己再生能力を持った不死身の細胞でした。人間の体に移植することで、あらゆる傷を癒し、手足すら再生可能といったものです。今回の件、ひょっとすると繋がるやもしれません』
挨拶を交わして電話を切ってから、私は顎に手を当ててしばらく考えた。世界の頂点に立つイギリス大法官と、それ自体は悲劇とはいえ日本の片隅で起こった事件……。共通項はあれど、繋がるだろうか。
「恵真ー、お風呂空いたよ」
姉さんが扉の外から声をかけてきた。
「はい、わかりました」
明日は万が一にも寝坊するわけにはいかない。早く寝てしまうことにして、私は子機を片手に立ち上がった。
※※
彼女に宛てがわれた客室は、館の外観に似ずに近代的な設備を具えたものだった。二間続きで、片方が寝室、もう片方が居室となっている。その他に広い浴室もあった。
彼女はソファにだらけた姿勢で座り、ぼんやりとテレビを視ていた。他の魔術師たちは、たとえ選挙侯といえども、時代に歩調を合わせた暮らしを営んでいるのだな、と思った。
番組の内容はドイツのものと似たり寄ったりだが、ここ二百年ほどでスペイン語もだいぶ変わったようだ。外来語や新造語が出てくると理解に多少の時間を要した。
盟主は観光でもして来るといい、などと言っていたが、既に見るべきほどのものは見てしまっていた。かつて馴染んだものが五世紀分古さびているというのは彼女の心をときめかせたものの、次に観光するのはまた数世紀後でいい。
コッ、ココン、という独特のリズムのノックがあったのはそんなときだった。
ノックの調子で相手はわかった。あまり会いたくはないが、仕方あるまい。
「どうぞ」
心持ち大きめの声を出したにもかかわらず、無駄に遮音性の高い扉はそれを透さなかったようだ。立つのも億劫なので精神感応を使って招じ入れようとしたところで、先を越された。
『お邪魔かな?』
『とんでもない。どうぞお入りください、閣下』
扉を押して入ってきたのは、果たして盟主その人であった。少々渋い顔である。
「邪魔するよ、我が友。昨日は皆の手前強くは言わなかったけれど、せめて二人のときは“閣下”はやめてくれないか。君からそんな呼ばれ方をすると、背筋がぞっとする」
「それを聞いてはますますやめられませんわ、閣下」彼女は立ち上がって盟主を出迎えた。
「三四半世紀ぶりの再会だというのに、相変わらず意地が悪い」
「自分に正直なだけです」
そこで彼は点けっぱなしのテレビに目を向ける。
「君までこんなものを視るようになったのか」
「わりと面白いですよ? あなたこそ、世界の動勢に気を配らなくてよろしいのですか?」
「構わないとも。私がいかに無知でも、下で勝手に処理をしてくれる」
彼はそう言うと、指先を向けてテレビのスイッチを切った。
束の間の静寂が室内を制した。彼と彼女はどちらからともなくソファに座った。
「……何のご用ですか?」
「用がなければ古き友人を訪ねてはいけないのかな? いや、失敬。用はあるとも。君の顔を見にきたんだ。再び世界に興味を持ち始めた君の、ね」
「それは用がないということですね。私はこれでも忙しいので――」
「君の弟子たちのことだよ」
「…………」
彼女は口を閉ざした。
「まさか生きている内に君が弟子をとるのを見られるとはね」
「深く考えてのことではありません」
「おや、君は自分に正直なのではなかったかな? 自慢の弟子たちなのだろう?」
「あの子たちはまだ成長の最中です。でも、正魔術師に任じていただいたことには感謝しておりますわ。研修生として束縛されるのでは、あの子たちを日本に送り込んだ意味がありませんから」
「私が手を回したわけではないよ。担当者が彼女たちの実力を評価してのことだろう。もちろん、推薦状に記された『ドイツ大法官』の署名の効き目もあったのかもしれないが」
「意趣返しはやめてください」
彼女は意識的に険しい顔を作った。
「おっと、これは失礼。それにしても、なかなか優秀な魔術師のようだね、君の弟子たちは。赴任して一ヶ月で早くも世を騒がせていた〈夜の種〉を討ち果たした」
そのことについては、彼女も城の使用人から報告を受けていた。
「ええ、魔術師としては優秀です。でも、あの子たちは城の外のことをほとんど知りません。魔術師としても人としても、これからもっと成長しなければいけません」
「まるで自分が世間のことをよく知っているかのような口ぶりじゃないか。空港でちゃんとEU加盟国からの入国者向けのカウンターに並べたのかな?」
「ご心配なく。旅行ガイドくらいシュヴァルツヴァルトの片隅でも入手できます」
「そうか」彼は少しばかりしょげたような表情を浮かべた。「私は最初の時にまごついたものだが」
「やはりあなたこそテレビくらい視るべきでしょう」
彼女は画面に指先を向けた。スイッチが入り、液晶画面が点灯する。
「今までずっと籠城主義だった君から言われたくないな。しかしその君も、こうして出てきてくれた。君の弟子たちに乾杯といこうじゃないか。ここの地下蔵から失敬してきたんだ。地酒だよ」
いつの間にかその手には、赤ワインの瓶が握られていた。
「ご冗談を。昼間から飲む習慣は私にはありません」
「まあまあ。君たちドイツ人にとっては水みたいなものだろう。それに、君の弟子たちのいる国は今は夜じゃないか。むしろ今こそが乾杯にはふさわしい時間なんだよ」
彼女は溜息を吐いて〈器〉に働きかけた。その両手にグラスが二つ現れた。
「お見事」
彼は軽口を叩くと、瓶のコルクを手も触れずに引き抜き、中身をグラスに注いだ。
「君の弟子たちに」
彼女はそれには応じず、ただグラスを小さく掲げて一息に飲み干した。
「相変わらずお強い。しかし君が羨ましいな。未来に向かって生きていくためのよすがを見つけたわけだ」
これも同じく一気に飲んだ彼が、真面目な顔で言いつつ二つのグラスに二杯目を注ぐ。
それを言いにきたのか、と彼女は察した。
「ならばあなたも成長を見守ることのできる弟子でも見つければいいではないですか。過去に囚われて生きるよりもよっぽど健全でしょうに」
「そういうわけにもいかない。それに、君はそう言うけど、私だって未来に目を向けてはいるのだよ」
未来、ね、と彼女は小さく呟いて、グラスを口元に運んだ。
「その点では私たち以上に師匠が気の毒だ。空間的にも時間的にも孤立して五百年。一体どんな暮らしをしているのだろう。発狂していないといいが」
「彼はそんなに弱い人間ではないと思いますが。それに、意外と何か見つけているかもしれません」
「だといいがね。そういえば、知っているかい? タカハラとアイカワは今旅行中で、イチジョウだけが残っているそうだ。絶好のチャンスだとは思わないか」
「あの子たちはそんなことしませんよ。そんな真似をしなくても、いつか必ず任務を達成するでしょう」
「そうだね。君の弟子たちは正統派だ。だけど、今現地にいる魔術師は彼女たちだけではない」
「……何を考えているのですか?」
グラスの残りを呷って、彼女は詰問した。空いたグラスに、すかさず彼はワインを注いだ。
「チーズでも持ってこさせようか?」
「結構です」
彼のつまらない提案を、彼女は突っぱねた。それでもグラスに伸ばす手は止めない。
彼は肩をすくめた。
「……政治とは詰まるところ利害調整だ。自分の弟子たちに業績を挙げさせたいという魔術師は多い。私の立場はこう見えて色々大変でね」
「第十五階梯のあの子たちの任務を、下っ端にかっさらわせるというのですか? 問題になりますよ?」
「それは大丈夫だ」
「ならば、もっと上の階梯の魔術師を? あの子たちよりも上の魔術師となると、あちらには東京法官と京都法官くらいしかいないはずですが」
「さすがに弟子を派遣しているだけあって、ちゃんと調べてはいるんだね。だけどそれも大丈夫だ。東京法官には少々申し訳ないが、今回は任務が違うんだよ」
「……一体何を?」
「昨日言っただろう、次は面白いものが見られるかもしれない、って」
彼は自分のグラスに三杯目のワインを注いだ。そして、
「老人たちの凝り固まった頭をほぐしてやるには、百言を重ねるよりも、ひとつの事実を見せてやる方がお手軽だからね」
自分が最も年長者であることも忘れてか、そう言って杯を口元に運んだ。




