3.
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宿舎の一室で、詩都香は半ば呆然と携帯電話のディスプレイを眺めていた。
入浴を一度済ませ、水分を補給した後、魅咲は由佳里を引っ張って卓球をしに行った。汗をかいてもう一度温泉に入るのだそうだ。つき合ってはいられないので、詩都香は部屋に残って『伊豆豪族考』を読んでいた。そのメールを受信したのは、いやに長い序文を読み終わった頃だった。
まさか彼女からメールが来るとは思っていなかった。しかもこんな内容だなんて、天地がひっくり返ってもありえないはずの、それこそ驚天動地とも言える出来事だった。
『明日高原くんに手料理をごちそうする予定なんですけど、好きな料理って何ですか?』
最初、詩都香は自分の好きな料理を尋ねられているのかと思ってしまった。もう一度本文を読み返して、「高原くんに」という与格が弟の琉斗を指すのだということを理解した。
それから、琉斗のことを思い返してみる。三日間も家を空けるのに、「適当に食べて」と二千円札だけを置いてきたのは少しばかり薄情だっただろうか。小遣いはあるし、冷蔵庫にはまだ食材も残っているので餓死はしないと踏んでのことだったが。
さらに付け加えれば、昨日の別れ際に買い食いはするなと言っておいたのに、よりにもよって詩都香が旅行用に買ったお菓子を食べてきた弟を懲らしめるという意図もある。
その上でこの文面。この手の事柄に疎い詩都香にもわかる。これは、姉の不在をいいことに彼女が世話焼きに来てくれるというパターンだ。
送信元のアドレスをしつこく六回も確認して、詩都香は深呼吸した。
@の前のローカル部は『noema_v._sb.』。
――Noema von Seelenbrunn。ストレートに本名だった。「恵真は要らない」と勘違いされなければいいが。
(そういえば、昨日伽那から二人の連絡先が届いていたような)
面倒だし遣り取りがあるとも思えなかったので、登録しておかなかったのだった。おそらく伽那はゼーレンブルン姉妹にも詩都香のアドレスを教えたのだろう。
その時の伽那のメールを開いてみると、ノエシスとノエマのメールアドレスがきっちり記されていた。片方はやはりさっき届いたのと同じアドレスだった。しかしてもう片方は。
「なんじゃこりゃ。しのうえべら……断末魔? ……ああ、『世界に冠たる梓乃』ってか」
『shinoueberalles』――Shino über alles。変な姉妹だ、と詩都香は思った。
ノエシスのメールアドレスはいいとして、問題はノエマである。
「ノエマが、琉斗の彼女……?」
口に出して呟いてみて、その奇々怪々たる響きに胸の内がもやもやする。そもそも弟に恋人ができるなどという椿事を、彼女の脳みそは想定していない。だが確かに、過日のロワ・ソレイユでのお茶会では、あの二人の間に変な空気が漂っていた。あれからつき合うことになったのだろうか。
「なーに考えてんのよ、アホ琉斗。あいつはお姉ちゃんの敵なんだぞ?」
思わず一人ごちてから、もやもやと想像を巡らせてみる。あの二人、案外お似合いだったかもしれない。ふてぶてしい態度の琉斗の隣に、小柄なノエマがちょこんと座っている――なかなか微笑ましい。
(あんな子が弟の彼女かぁ)
ふひひ、と気持ちの悪い笑い声が洩れそうになったのを自覚して、詩都香は口元に手をやった。
搦め手から攻める作戦というのも考えたが、おそらく彼女たちはそんな真似はしないだろう。
……いつの間にか彼女も、かの姉妹のことを信用しつつあったのだ。
そうは言っても、詩都香たちとゼーレンブルン姉妹が敵同士であることに変わりはないのだから、哀しい結末も予想される。しかしそれはそれ。詩都香自身はこういう障害のある恋愛劇が嫌いではない。無責任と言われればそれまでだが、“障害”の一要素であるという当事者意識も薄かった。
そこへ、ぐでーっと湯だった由佳里を引きずるようにして魅咲が帰ってきた。布団を延べて由佳里を寝かせる魅咲に、サプライズ報告をしてやることにする。
「ねえねえ、魅咲。あのさ……琉斗に彼女ができたかも」
「……はい? ――嘘ぉっ!?」
魅咲は詩都香よりも数段驚いた様子だった。
「相手が誰だか知ったら知ったらもう一度驚くわよ」
「ってことは、マジで? あの難攻不落を?」
目を白黒させる魅咲に、詩都香はにやにやしながら件のメールを示した。
何度かその文面に目を走らせてから、魅咲ははーっ、と深く息を吐いた。
「このアドレスって、恵真か。あーなるほど。あー……まいったな」
「ね?」
「『ね?』じゃないっての、まったく。詩都香、これちょっとまずいかもね」
魅咲が難しい顔を作る。
詩都香はきょとんとした。
「何が?」
「何がって、あんた全然気づいてないの?」
「恵真がうちのアホ琉斗のこと好きかも、ってことならわかってたよ」
由佳里を気にして、偽名で呼ぶ詩都香。本当はさっき気づいたばかりなのだが。
「……それだけ?」
「それだけって?」
魅咲の眼差しがきっ、と吊り上った。
「詩都香、そこに正座」
いきなり正座ですか、と何が何やらわからないまま言われた通りに座る詩都香。そんな彼女を見下ろして、魅咲はいやに真剣な顔つきで前口上を入れた。
「詩都香、今から言うこと、真面目に聞いてよ?」
「えーと、何でしょうか」
続く台詞は、詩都香もまったく予想していないものだった。
「いっぺん死ね、ボケ」
寝そべっていた由佳里も、これには目をぱちくりさせた。向けられた詩都香は言わずもがな。
魅咲の説教が始まった。
「琉斗にはね、昔から好きな子がいるの。残念だけど詩都香が思ってるのとは違う子」
詩都香の胃の辺りに、ずしっと重い衝撃が走った。
「え……? じゃあ、これは……」
「うん、たぶん恵真のフライング。あたしの見立てでは、琉斗はまだその相手のことを完全には諦めてない。あいつは少し軽率で生意気なところもあるけど、基本誰にでも優しいからね。恵真はコロっと参っちゃったんじゃないかな。……つーかさ、詩都香、あんたがこの手のことにクソ鈍いっていうかクソなのは知ってるけど、琉斗に好きな子いるの気づいてなかったの? 姉弟なのにこれっぽっちも? もう結構長いよ?」
詩都香はまっすぐ向けられた魅咲の視線から顔を背けた。
気づかなかった。これっぽっちも。
「ほっんと信じらんない。そんなんだから平気で人を傷つけちゃうのよ。他人の好意を怖がって遠ざけて。あんたさ、不器用で鈍いのもいい加減にしなよ。犯罪の域だよ、もうそれ。あんたは外見はいいしさ、少しくらいなら可愛げもあるけど、ちょっと度が過ぎてイライラしてくんだよね。あんたなんかを好きになった誠介も可哀そうだよ」
長々と続く説教を聞きながら、詩都香もむかむかしてきた。誠介くんが何よ、と思う。
そもそもにして、弟の恋心とやらに気づかなかったのがそんなに大きな罪だろうか。思春期の男子なんて、血の繋がった実の姉にこそ恋心を知られたくないと思うものではないのか。
(……何よ、魅咲だって)
だいいち、そう言う魅咲だって、不器用さでは相当のものではないか。
「最近はなくなったけど、夏休み前までなんか、あんたにフられるたびに誠介があたしんとこに相談に来てたんだよ。『俺って本気で高原に嫌われてんのかな』って。『やっぱ俺じゃダメなのかな』って……。フるのはあんたの勝手だし、あたしがとやかく言うことじゃないけど、嘘でもいいからせめて理由くらい言ってあげなよ。誠介だっていつまでも踏ん切りつかないし――」
そして詩都香は、魅咲の説教の合間を縫うようにして、決して言うまいと思っていたはずの一言を口にしてしまった。それこそ墓の中まで持っていくつもりだったのに、激情は容易く理性の堰を切った。
「えらそうに、何なの? わたしが誰のために誠介くんを袖にしてるかわかってるわけ?」
まずいまずい、と思いながらも、暴走する舌を止めることができなかった。
次の瞬間、左の頬をものすごい衝撃が襲った。詩都香は正座の姿勢から半回転して床に倒れた。ハラハラしながら事態の推移を見守っていた由佳里が悲鳴を上げた。
「しっ、詩都香……あんた……!」
わなわなと魅咲が唇を震わせる。興奮のあまり言葉が出てこないようだ。
ようやく頬を張られたのだと気づいた詩都香だが、火が着いたかのようなその痛みよりも怒りが勝った。
「ふざけんな!」
魅咲に向かって跳びかかる。しかし取っ組み合いで魅咲に勝てるわけがない。浴衣の襟を掴まれ、そのまま仰向けに投げられた。息が詰まり、涙が滲んだ。それでも怒りは収まらないどころか、かえって燃え立つ。
「んの野郎!」
立ち上がり、叫びながらもう一度挑みかかった。魅咲はこれを正面から受け止めた。
「あたしに勝てると思ってんのか!」
「うるさいッ!」
詩都香と魅咲の個性には、相容れない部分もないわけではない。普段は伽那が両者の間でうまくバランスを取ってくれているのだが、生憎今日は不在である。
そこに、騒ぎを聞きつけたのか、奈緒が佐緒理を引き連れて飛び込んできた。
「何やってるんだ、お前ら!」
奈緒が魅咲を、無言のままの佐緒理が詩都香を羽交い絞めにし、引き離す。
「離せ! こいつに思い知らせてやるんだ!」
魅咲はじたばたと抵抗した。それでも奈緒の拘束は弛まない。
「落ち着きなさい、高原さん」
噛んで含めるような佐緒理の言い方は、かえって詩都香の激昂を煽った。
「うっさい! このまま引き下がれるか!」
背後の人間を引きずってなお相手に向かおうとする二人に業を煮やし、奈緒が羽交い絞めの体勢のまま器用に魅咲の足を払った。
「あ」
「あ」
奈緒に倣った佐緒理も詩都香を引き倒し、二人はほぼ同時に床に押さえ込まれた。詩都香と魅咲はなおももがいたが、
「もう……もう、やめてください……」
嗚咽交じりの由佳里の言葉に動きを止めた。
「相川、頭を冷やせ。今夜は私たちの部屋で寝ろ」
立ち上がった奈緒のこの言葉に、魅咲は素直に従い、バッグを持って部屋を出ていった。
佐緒里も出ていき、取り残される形になった詩都香は、バツの悪い気持ちを抱えたまま由佳里の顔色を窺った。由佳里は涙を浮かべて呆然としていた。
「ごめん、由佳里」
由佳里が詩都香に顔を向けた。
「……びっくりしました。クールな人かと思っていたけど、高原さんって激しいところもあるんですね」
「幻滅した?」
自嘲気味に尋ねる詩都香に対して、しかし由佳里は首を振る。
「いいえ。人間味があっていいと思います」
その慰めに、詩都香がどれほど救われたことか。そしてそれゆえに、その続きは胸に突き刺さった。
「でも、相川さんも言い過ぎだったと思いますけど、さっきのは高原さんが悪いと思います」




