其之四 「 小さな冒険 」
夏休みに入って間もないとある夕方。
食事の後片づけもおわり、自室の部屋に戻り机についた舞姫<マイヒメ>は、学校に体操着を忘れていることに気がついた。
「いけない。早くとってきて洗濯しなくちゃ」
滅多なことでは失敗をしない舞姫だが、この程度の忘れ物をときどきしてしまう。自分の頭をぽかっと叩くと、すぐに気を取り戻して部屋をでた。思い立ったら行動するあたりは神無月家の特徴のようで、そのまま舞姫は階段をとっとっとおりていく。玄関につくと、靴をはき紐をきゅっと縛った。
「あれ? 舞姫さん、お出かけですか?」
舞姫にこんな律儀な敬語をつかう住人は、つい最近この家に居候することになった芳春<ヨシハル>しかいない。テレビを見ていたようで、台所から萌荵<モエギ>と一緒にひょっこり顔を出していた。
「あっ、うん。学校に忘れ物してきちゃった。取ってくる」
「今からですか? もう、暗くなりますよ」
夏とはいえ、もう闇があたりを覆う時間になっていたが、靴をはき終えた舞姫はすっくと立ち上がると首を横にふった。
「この街で私を襲う人はいないわ」
姉の萌荵がうんうんと首を縦にふる。舞姫自身の要因も含め、姉妹、知り合いの要因も含め、舞姫に手を出せる人はそうはいない。
そういえば以前、母親と一緒に買い物をした帰りに、その財布をバックごと盗んだ人がいたが、横にいた舞姫が持っていた大根を相手の頭に投げつけて捕まえ、4才にして警察官に褒められたことがあった。「物をぶつけて褒められたのは、あれが生まれて初めてね」と、後になって舞姫は言ったものである。
「それに、まだそんなに遅くないわ。いってきますっ!」
短いきれいな髪をさらっとなびかせて、舞姫は飛び出していった。
「あっ、僕もいきます」
つい体が動いてしまう芳春を見て、萌荵は嬉しそうはやしたてた。
「二人でいってらっしゃぁい! 遅くなってもいいわよぉ!」
「うるさいわね! 萌荵っ!」
「萌荵さん、いってきます」
「気をつけてね」
萌荵に見送られながら、二人は夏の夕闇の中へ飛び出した。
この街は、少し変わっている。
見た目にはほとんど他の街と変わらないのだが、ときおり不思議なことが起こる。座敷童子や河童を子供が見たと言うと、「小さい頃は、見えるものよ」と親が答えるような、そんな不思議なことがそこらに転がっている。占い、祈祷師、お祓い、神社、巫などが多いのはその副産物みたいなもので、神無月家も古くからある名家だった。
夜が近くなり、街が青一色に染まるとき。外の大気は、まだ体の中から暑くするような熱気を含んだ中、舞姫と芳春はすぐ近い学校までの道を、二人っきりで歩いていた。
「舞姫さんは、更紗<サラサ>さんのように何かできるのですか?」
芳春は、神無月家三姉妹の長女の名を出した。以前、この人に母親を降霊してもらったことがあった。
「あの時みたいな?」
「はい」
「基本的にああいうことができるのは、更紗だけ」
ちらっと流し目をする舞姫の顔は、笑っていた。その美しい笑顔が自分に向けられたものかと思うと、芳春はちょっと嬉しくなった。
「でも、偉大な守護霊のついている萌荵とは違って、私はちょっとだけ護身術程度のものは教えてもらっているけど、使ったことがないわ」
「そうなんですか?」
「だって、そんな術が必要だったこと、芳春君はある?」
自分の名前を初めて呼ばれてどきっとしたが、何もなかったように装う。
「ないですけど」
「私も同じよ。私だけ特別ではないわ」
芳春はふうんとうなずいた。
「更紗は特別だけどね」
相変わらず十分に皮肉が込められているようなので、芳春は少々方向を変えた。
「萌荵さんには、強い守護霊がついているのですか?」
「あの人は、霊にも好かれるのよ」
舞姫の表現は何となく萌荵にぴったりと合うような気がして、芳春はちょっとだけ笑った。
「ただ、あんまり強い霊が周りをおおっているから、萌荵は霊感っていうのがないの。更紗がいないと、幽霊とか見えないんだって」
「そうなんですか」
「でも、その方が幸せよね」
舞姫と話すと一つ一つが新鮮に聞こえて、芳春は思わず感心するように深くうなずいてしまう。そして舞姫はその姿を見て、微笑んだ。
夏の夜道は暖かくて、お湯の中を歩いているような不思議な浮遊感がある。銭湯に行った帰りに、まだお風呂の中に入っているようなあの温かい感じ。
蹴った石の音が、冬に比べて、まるく響きわたる。
ちょっと汗ばむくらいなのに、ふと駆け出したくなるようなアスファルトの道を、二人は笑いながら歩いていた。
いつも通っている学校はもう、目の前にあった。
ちょうどその頃、校舎の中でちょっと不思議な起きていた。
3階の廊下に、ゆらゆらと陽炎のように大きな「顔」が浮かんでいた。
大きさは、1mぐらい。
小学生ぐらいの大きさのただの「顔」は、髪の毛がほとんどなくて不要なほど目を大きく見開いていた。
口をむっと曲げ、浮かんだままゆっくりと廊下を渡っていく。
それが自然なことのように、ゆったりと。
正門は閉まっていたが、裏門の横にある教員用の小さな門は開いて、二人はその門をくぐって学校の中へ入った。
「実は、以前も入ったことがあるの」
「学校にですか? 恐くなかったですか?」
「別に。でも、その時は萌荵がついてきてくれたけど」
学校はかなり静かだった。虫の鳴き声も聞こえない。ただ、ひとつの外灯が校舎の大きな壁を照らしだしていた。
舞姫にとっては芳春が横にいて、芳春にとっては横に舞姫がいる。大きな闇と静寂は心の中にわずかな不安を作りだすが、舞姫と芳春はそれよりも大きな安心感に包まれていた。
恐さを紛らわせるような口笛も吹かず、かといって沈黙してしまうでもない。大きな静寂を壊さないように、二人は静かに語り合いつつ、校舎のあいだの小道を歩いていた。
大きなコンクリートの壁。そして、グラウンド。背の高い外灯が、二人の影を小さくまとめる。
視界の端に、ちょっと欠けた月がゆらゆらと、雲の中に身をまかせていた。
ウサギ小屋を曲がると、そこには大きな校舎が広がっていた。その校舎の片隅には、開け放たれた扉があった。
「よかった。やっぱり開いてた」
二人はそうして、暗い校舎の中へ入った。不思議とどちらからともなく、声をださなくなった。
外よりも暗い闇も、目がなれればそれほど困ることはなかった。入ったすぐの階段を2つ、3つ上がっていく。毎日歩いている階段は、夜はまた静かないつもと違った様子でそこにあった。
ちょっとだけ息が上がりかけてきた3階で廊下へわたると、一本の長い道は窓からの月明かりで美しく浮かび上がっていた。
「……きれいね」
静かな一言はあたりにしんっと広がり、心の中へとどいた。
そして、横を見る。舞姫の横顔をのほうがずっときれいだと、芳春は思った。
廊下を歩き、二つの目の教室に入る。舞姫の机は窓側の後ろの方の席だった。机の横にかけてある体操着のはいった袋を手にとり、ほっとしたように舞姫は抱きしめた。
月がかげったのと、舞姫の動きが止まったように見えたのが、だいたい同じ時だった。
「舞姫さん?」
.......ァ...
様子がおかしかった。目がうつろで、何も見つめていなかった。
そして、何かを唱えていた。
...ァーマァ...シャダ..
芳春は見た。
教室のちょうど反対側の壁から、何かがとおり抜けてくるのを。
「顔」
ただの、大きな「顔」。
その「顔」が、口をかっぽりと開けた。
芳春の背中の毛が、立っていく。
こわい。
心臓がトクンっと音をたてた。
「顔」の大きな口のなかに歯のようなもの、唾液のようなものが見えたと思ったときには、すでに「顔」は凄いいきよいで向かってきた。
ぐん、ぐん、ぐん、と大きくなっていく。
そして、来た。
舞姫が振り返る。
「カンマンっ!!」
すごい風が、吹き荒れた。
あたりの席がいくつか跳ね上がり、芳春の服と髪がびゅっとはためいた。
「う゛っぃぃぃぃぃあぁ!!」
叫び声。
「顔」が粘土細工のようにへこんでいく。
そして、いくつかの塊となって飛び散った。
「芳春君、こっち!」
舞姫がぐんっと袖をひっぱる。
やっと意識を取り戻して、二人は教室から駆け出していった。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、という足音と胸の、トクン、トクン、という音が一致するほど走った。
さっきよりもずっと暗い廊下を、すべるように走り抜けていく。
廊下を突き当たり、階段をかけ降りていく。
転びそうで、もどかしくて、二人で信じられないぐらい階段を飛び降りていく。
最後のおどり場をまわると、あの扉が当然のように閉まっていた。
かすかな不安。
扉をのぶをひねっても、押しても、引いても、ぶつかっても、扉は開かなかった。
「駄目、開かないっ!」
「鍵は?!」
「それが開いてるみたいなのっ!」
舞姫の一言がいいもいえぬ不安になり、芳春は泣き出したい気持ちになった。
それでも必死にこらえて、あたりを見渡した。
「窓っ!」
二人は急いですぐ近くの教室に入り込み、窓に駆け寄る。
芳春が、もどかしく鍵を回して開け、窓を開けようとするが、たてつけたようにピクリとも動かなかった。
「芳春君、どいてっ!」
振り返ると、舞姫が椅子をかがげて立っていた。
芳春が横にとびき、椅子が窓にぶちあたる。
「きゃっ!」
有り得ぬことだが、椅子の方がはね返り、ガラスは微動だにしていなかった。
「舞姫さんっ」
倒れこむ舞姫にかけより、抱き起こす。
「大丈夫。芳春君、おねがい、ここら辺の机をどけて………」
「うん、分かった」
座り込んだままの舞姫を中心にして、芳春は必死に机をどかしていく。
転がる机もあるが、気にせずどんどんと外にはじき出していく。
舞姫はふらりと、立ち上がった。
瞳を閉じ、ふるえる手で自分の足元にゆっくりと円をかく。
「芳春君、来てっ!」
動かしかけの机をほっぽり、舞姫のもとにかえると、「もっと近寄って」といわれ触れあうぐらいに近寄った。
今まで見た中でいちばん真剣な表情で、何かを呟く舞姫。
その呪文が終わったかと思ったら、崩れるように床に座り込んだ。
「舞姫さん」
「……この円から出ないように座って」
どうしていいか分からなかったが、あきらめて、膝を触れあわせるぐらい近い位置に芳春は座った。
「この円の中にいれば、安全だから」
それを聞いて、少しだけ安心した。
心臓だけは信じられないぐらい早さで、トクトクトク、と音をたてていたが、それがほんの少しずつ、もとの早さに戻っていく。
少しずつ、立っていた毛がもとに戻っていく。
でも、舞姫はさっきから下を向いていた。
「舞姫さん?」
舞姫はピクリとも、動かなかった。
「……舞姫さん?」
おそるおそる手をのばして顔を触ろうとしたら、その手にぽたりと何かが落ちた。
水……涙っ!!
「恐いの。こんなこと始めてだし、こういうときに限って更紗は仕事でどっかいってるし」
芳春はあわてふためいた。
舞姫さんが泣いている。それだけで、「顔」があらわれたとき以上のパニックになってしまった。
どうしたらいいのかまったく分からないくせに、鼓動だけは信じられないぐらい大きく早くなっていく。
「萌荵はいないし、お父さんもお母さんもいないし、私ができるのはここまでだし。これがもう、精一杯なの。これ以上、何もできないの」
ぽたり、ぽたり、と涙が膝に落ちる。
芳春はさっきまで舞姫がどんな時でも強い人なのだと、思っていた。
そして今、やっぱり誰でも恐いのだと、気づいた。
舞姫は、特別な人でないことを、体で知った。
おそるおそる、顔にふれた。
触った瞬間、ぴくっと舞姫の体がふるえる。
「舞姫さん……」
驚いた瞬間に、涙は止まった。
それでも、しばらくは相変わらず下を向いたままだった。
「そうね『舞姫』だものね。『姫』の名がつくからには、泣いては駄目よね」
一度、舞姫は顔をふると、はぁーっと深呼吸をする。
そして、ゆっくりと顔をあげる。
少しずつ見えてくる、顔。
眉、瞳、鼻、口。
涙に洗い流された顔はいつもよりもずっと真摯で、まるでせせらぎのように澄んで綺麗だった。
窓からの淡い光に映し出される、舞姫の姿。
芳春は、いままで味わったことのない、胸の苦しさを感じた。
そして、舞姫はにっこりと笑う。
極上の笑顔で。
あたりは、またあの静けさを取り戻していた。
なるで何事もなかったように。
月は相変わらず雲に隠れていて、うっすらとした光だけが机の転がった教室を照らしていた。
つぃっと舞姫が床に書いてある円をなぞる。
「この円の中にいる限り、霊には見えないんだって」
舞姫はもう、すっかり落ちついていた。
声も、水のように穏やかで、澄みきっていた。
「力が続いてるばらくの間は安全。その間にきっと助けが来るはずだから」
「しばらくって、どのぐらいですか?」
「30分弱」
長いとも、短いともいえる。
「もし助けが来なかったら?」
舞姫の手が止まった。
芳春ははっとした。舞姫も不安なのだ。聞いてはいけないことだったのかも知れない。
舞姫は、振り返り、微笑んだ。
「分からない」
我慢した笑いなのはすぐにわかって、芳春は後悔した。
ぎゅっと握った舞姫の手が小刻みに震えているのを見ると、もう芳春は恐ろしい「顔」のことなどどこかにいってしまった。
「えっ、えっと………僕、今まで幽霊ってあまり恐くなかったんです」
舞姫の震えがぴたっととまり、潤んだ瞳が芳春を見た。
少し色っぽくてドキッとしてしまったが、教壇の前で作文を発表する少年のように、一生懸命、続きを語りだした。
「怪談とか聞いても恐くなかったし、実際に見たこともなかったし。でも、一つだけ恐いものがあったんです」
芳春が指を一本たてる。
舞姫が「……なに?」と聞いて、瞬きをしたとき、残りの涙が頬を伝わった。
「えっと、ほら、指がチョキをしている怪獣」
「もしかして、バルタン星人?」
最近、ウルトラマンも再放送していて、舞姫もその名前を知っていた。
でも、それにしても、バルタン星人とは。
それを聞いて、舞姫はやっと微笑んだ。
「はい、床屋で髪を切っている時に漫画で読んだんですけど、主人公の周りの人がすべてバルタン星人になっちゃうという話だったんです」
「すべての人が?」
「うん、八百屋のおじさんも、知り合いも、家族も」
「ふぅーん」
「それで、なんか恐くなっちゃって。家にいたとき、暗闇からバルタン星人が出て来るんじゃないかって、すごく恐い日が何度かあったりしました」
舞姫がくすくすと笑いだして、芳春は飛び上がるように嬉しくなった。
ひとしきり笑うと、舞姫は「……もっと何か話して」と呟いた。
優しい瞳。
幸せに包まれたような、優しい笑顔。
芳春は今度は自信を持って、話すことができるようになっていた。
「むかし力が弱くて、持ったもの何でも落としちゃった頃があったんです。それで、アイスクリームを買ってもらったんですけど、そのまま落としちゃって。泣いて、泣いて、泣いたら、新しいのをまた買ってくれたんです」
「良かったじゃない」
「でも、また落としちゃって」
今度は、声をだして笑った。
教室がほんの少しだけ、明るくなったような気がした。
「舞姫さんは、何かないのですか?」
「私?」
うーん、と何か考える。
「私はあまり無いけど………お父さんとお母さんが神奈川の方に引っ越しちゃった時、私は更紗や萌荵と一緒に残ることに決めたんだけど、お母さんが心配しちゃってね」
静かに、静かに、舞姫は語った。
「料理の真似ごととか、洗濯をしたりして、『お母さん、私でもできるよ。心配しなくてもいいよ』って言ったんだけど、本当にいなくなったらすごく寂しくって」
芳春は真剣に聞いていた。
「何度も更紗に、『お母さんどこ? お父さんどこ?』って聞いて、困らせたことがあったなぁ」
髪をかき上げると、ちょっとだけ寂しそうな笑顔が見えた。
「いるときは分からなかったのに、いなくなって初めて今までそこにいたんだって気づいて。いるわけが無いって知っているのに、いろんな部屋を開けて調べちゃったりしたの」
「僕も、どの家にでもお母さんがいるって知ったときは、どこかに隠れてるんじゃないかって探したときがありました」
「タンスの中とか?」
「ごみ箱の中とか」
舞姫はまた笑った。
「その時は真剣だったんですけど………」
うん、と舞姫はうなずいた。
二人の間だけで、なごんだ雰囲気が流れた。
振りむけば、静かに広がる教室があるというのに。この学校のどこかにいまだ、「顔」がいるというのに。
そう芳春が思ったとき、舞姫が抱きついてきた。鼓動が一気に跳ね上がる。
「まっ、舞姫さん」
「……来た」
説明はそれだけで十分だった。
思わず体中の筋肉がかたくなった。
あたりを見渡すが、そこは変わらず静かな教室だった。
違う。
床から、何かが出てきた。
ぎゅっと舞姫の体をつかむ。
ところどころが欠け、焼けただれた「顔」が、ぷかりと浮かんでいた。
すぐ目の前に。
芳春は目をつぶった。
恐い。
恐い!
舞姫をくだけるほど強く、抱きしめた。
息などしていないようなのに、すぐ耳元で聞こえるようだった。
たれる涎。
ぎらついた歯。
もとのままの片目。
目をつぶっていても、あともう1cmのところまで来ていることを、肌で感じる。
かっぽりと口をあけ、ほんの一口で飲み込んでしまう。
そう思っていたが、けっきょく何も起こらなかった。
永遠のような時がすぎ、気づいてみれば「顔」はいなかった。
もうそこは、静かなままの教室だった。
「もう大丈夫みたいです」
「うん……」
舞姫はそぅっと、離れた。
それでも、二人はしばらく落ち込んだように口を閉ざした。
早く、誰か助けにきて。
そうでないと、食べられてしまう。
残り時間は、ほんのわずかしかなかった。
「誰もこないわね」
芳春は何も言えなかった。
「もうすぐ、この円の効力もなくなるわ」
「はい」
「でも、最後まで頑張ってみるから、信じてね」
「何か手があるのですか?」
「他にもいくつか知ってる呪文があるから、それを唱えてみる。なにも効果がないと思うけど」
芳春は少し不安になったが、「顔」よりなにより、舞姫が泣いてしまうことの方が嫌だった。
「僕も頑張ってみます」
「うん」
舞姫はそう言って、何かを呟いた。
「4つ、かな思い出せるのは。この円が壊れる瞬間に合図するから、私から離れてね」
「はい」
舞姫が顔をあげた。
やっぱり、今にも泣き出しそうだったので、芳春はまた慌ててしまった。
「あっ、あの。たぶん呪文、効くと思います。それに、危ない時になったら、誰か助けに来てくれるかも知れませんし………ウルトラマンみたいに」
舞姫はぷっと吹きだした。
泣きながら、笑いながら。
ぼたぼたと涙をこぼすと、やっと落ちついて笑ってくれた。
芳春はほっと安心した。その時、舞姫が近寄ってきた。
これ以上近寄れないところまできて、そして、額にそっと唇が触れた。
温かな、柔らかな感触。
「有り難う」
とくん
一回だけの鼓動。
そして、今までいちばん強く、大きく、早く、鼓動が鳴り響いた。
「こわれたわ!」
もう恐いものは何もないっ!
芳春は舞姫から離れると、椅子の一つをつかんだ。
どこからか、叫び声が聞こえる。
二人を見つけたらしい。
風が吹いてくる。
廊下から。窓から。
叫び声が大きくなる。
すぐそこにいる。
廊下を。そして、すぐそこに。
来たっ!
舞姫が必死に、いくつかの呪文を唱える。
「顔」は一瞬ちゅうちょしたようだが、呪文が意味をなしていないことをしると、ゆっくりとさぐるように舞姫に近寄っていった。
まだ舞姫は、呪文を唱えていた。
かぱりと口が開く。
「顔っ! こっちに来い!」
芳春の声に反応して、「顔」の瞳がぐるりとこちらを向いた。
そしてもう一度、舞姫を見つめる。
芳春を見る。
そして、芳春の方に向かってきた。
どうやら万が一、舞姫からさっきのようなものを受けるよりは、芳春の方がいいと思ったらしい。
教室の反対側へ逃げた芳春は、もう一度、椅子を構える。
「顔」が再び口をかぱりと開け、そして向かってきた。
芳春は必死にその口の中に椅子を投げ込み、横に逃げた。
ぐしゃっ
振り返ると、もうすぐそこに顔があった。
ぱっかり開けた口には、ひん曲がった椅子があった。
なす術はもうなかった。
食べられるっ!
その時、すべてが白く輝いた。
まばゆいばかりまでの光。
ほんの一瞬のできごと。
光が消えたとき、「顔」はもうどこにもいなかった。
二人はもたれ掛かるように寄り添いながら、家路についていた。
外はもうまっくらで、今になってやっと月が明るく光っていた。
歩いている人が見えたときは、嬉しくて涙が出そうだったけど、二人はただもう寄り添って歩くぐらいしかできなかった。
「最後に唱えたのは、どんな呪文だったんですか」
芳春は、これだけは聞いておきたい思って、呟くように聞いた。
「最後のはね………霊を呼ぶ呪文」
「え?」
「だから助けてくれたのは、何かの霊なの」
どんな霊がいったい助けてくれたのだろう。
あの明るい光。
すべて包み込むような、温かい光だった。
たぶん霊に好かれているのは、萌荵だけではないのだと、芳春はふと思った。
家につき、玄関を開けると、出てきたときと変わらない土間があった。
あたたかい、住み慣れた家。
「舞姫?」
食堂からタオルをかぶった萌荵が、顔をだした。
そして、二人を見て目をまん丸に開く。
「……どうしたの、二人とも」
そう言って、軽い足どりで二人のもとに来て、そして頭にかけていたタオルで二人の顔をおおった。
タオルは温かくしめり、ほんのりとリンスの香りがした。
そのタオルでごしごしと顔を拭かれた二匹の子豚は、やっと子供ように泣きだした。
わんわんと泣くと、萌荵が優しく抱きしめてくれた。
月夜の晩の、そんなお話。