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月夜話  作者: 京夜
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3/11

其之参 「 差別 」


 夏の夕暮れ前。

 青い、ただ青い空。

 暖かい空気が肌にぴったりと馴染む。

 そんな空気が、ちょっと暑いけど、肌に心地よくて、

 むせるような大気の中を、萌荵は歩いていた。

 右には車の排気音。

 左には蝉の鳴き声。

 空には月。

 もうすぐ夕暮れが、街をおおう時。


 萌荵<モエギ>は、大会の会場から帰路についているところだった。

 その周りには、剣道部の仲間達あわせて6名が仲良く連れ添い、今日あった出来事を楽しく笑いあっていた。

 萌荵が1年生にして女子優勝。他のみんなも少しずつ賞をいただいたりして、嬉しそうな笑顔は夏よりも明るい。

 みんな片手に防具をかつぎ、もう一方には竹刀を持っているのに、制服につつまれた体が浮きそうなぐらい軽い足どりで歩いていた。

 萌荵達の住む街は海と山に囲まれる元漁村で、大会のあったこの都会から電車で1時間ほどのところにある。公園をつっきりば、もうそこは駅。みんなの足どりは、知らず知らず早くなってきていた。

 その駅前の、とある小さな公園に足を踏みいれた時の出来事である。


「あら?」

 先頭を歩いていた女子主将の水上<ミナカミ>が、公園の片隅に視線を向けた。

「どうしたの?」

 すぐ側にいた女の子が聞く。

「ほら」

 水上の視線の先には、中学生ぐらいの少年が二人いて、浮浪者に石を投げつけていた。

「いやね」

 水上は、きつい感じの眉をしかめた。

 浮浪者に石を投げるなんて信じられない。

 駆け出して、今すぐ止めに入りたいのに、でも、体はまったく動かなかった。

 剣道部の女子主将をやっているだけあって、水上は人より気が強いし、正義感も強い。

 でも、体は動かない。

 親がそう教えている。

 関わっては駄目、と。

 だから、相手は子供なのに、体が恐がってしまう。

 でもいつだって、そんな時は、後悔と自責の念がわき起こる。

 その重たい思いに気づきながら、それでも自分では何もできないのだとあきらめてしまうしかなかった。

 それは弱いことではないのだと、心に言い聞かせながら。

 一人、萌荵は飛び出していた。

「萌荵っ!」

 防具を放りなげ、猫のように軽やかに少年達に駆け寄っていく。

 砂場を駆け抜け、少年達に気づかれる前に二人を両手で抱き上げると、そのまま前進して浮浪者の前にぺたりと座った。

「また始まった」

 水上は、安堵のため息をついた。

 本当に、心からホッとした。

 『有り難う、萌荵。私たちにできないことを代わりにやってくれて』、と本当は呟きたかったが、恥ずかしくて口には出せそうにはなかった。

 こんなプライドなんか捨ててしまえればいいのに、と思いながら。

「水上さん、ごめん! 先に行ってて!」

 萌荵が振り返って叫ぶと、水上は強く頷いた。

 いつものことなのだから。

「みんな、行くよっ!」

「萌荵さぁん、気をつけてっ!」

 水上が言うと、みんなも明るいもので、声だけかけて駅に向かった。

 ただ、一人の青年だけは歩き出さなかった。それを誰も不思議に思わず、ちょっとだけ含んだような笑いをして、公園を出ていった。

 その青年は成瀬<ナルセ>と言う、均整のとれた体格をしていて顔も決して悪くない。剣道の経験はほとんどないがなかなか練習熱心で、部員からの評判もいい。そして、萌荵の大ファンだった。

 今までバスケットをやっていたのに、わざわざ剣道部に入りなおしたこの青年は、萌荵が「崖から飛び込め」と言えば間違いなく飛び込むだろうと、部員達は思っていた。それほど、彼は萌荵に心酔している。

 もちろん、萌荵はそんなことを言いはしないが。

 成瀬は少しずつ萌荵の方に歩いて行き、近くの木にもたれかかった。

 実は、成瀬は何かがあったときの用心棒として残ったつもりだった。

 そんな必要はぜんぜん無いのだが、あの天使のような萌荵の笑顔を思い出す度に成瀬は不安で不安で、萌荵を一人にさせるなんて言うことは絶対にできないのである。

 あの笑顔が曇ったり、体に少しでも傷がつこうものなら、萌荵が焦って止めに入ったとしても、相手を半殺しにしてしまいそうで恐い。

 あぁ、可愛い娘を持つ父親はこんな気持ちなのだろう、と成瀬は思わずにはいられない。

 その萌荵は、逃げだそうとする両わきの少年達をしっかりと抱きしめ、いまだ恐怖に顔をそむける浮浪者を見つめていた。

「はなせっ、はなせよぅ!」

 少年達は力の限り抜け出そうとしているようだが、あの細い腕のどこにそんな力があるのか知らないが、いっこうに抜け出せる気配はなかった。

 そして、あきらめたのか、二人は静かになった。ただ、ぶすくれている。

 そうなってようやく、浮浪者がおそるおそる振り返った。

「ぅ…………」

 目の前には美しい女性が一人、まっすぐに自分を見つめていた。そして、両わきには石を投げた少年達がいる。

 あたりが、しんっ……と静かになる。遠くで、ぷわぁん、と鳴る車の警笛だけが静かに響きわたった。

 今まで真剣な表情で浮浪者を見つめていた萌荵は少しずつ、少しずついつもの元気な笑顔になっていった。

 まるで、そこから優しい風が吹いてきているような笑顔−−−成瀬は思わず、この笑顔なんだよな、と心の中で呟いた。

 浮浪者も頭の中を真っ白にして、萌荵を見つめ続けてしまっていた。

「初めまして。僕、神無月萌荵と言います。おじさん、名前は?」

 萌荵の第一声は静かな響きを伴っていて、時間はかかったもののそれほど戸惑いもせず、浮浪者は返答をすることができた。

「加藤、柴三郎」

「加藤さん、なんでこんな所にいるの?」

 浮浪者は、思わず首をかしげた。この美しい少女は何がいいたいのだろう?

 薄汚れた衣服とぼさぼさの髪をしていて、こうして駅前の公園にいるならば、だいたい想像はついているだろうに。

「夜になるまで、寝てようかと思ったのじゃが」

「失礼ですけど、お仕事は」

「ずいぶん昔からしとらん」

「よかったら、理由を聞かせてくれませんか? この子達に」

 萌荵のいった意味を、成瀬は理解できた。たぶん、この浮浪者も大きな世界を背負ったひとりの人間であることを、萌荵は少年達に理解して欲しいのだと思う。

 子供の頃は大人はまったくの他人のような気がして、相手がもしかして会社で非常に辛い思いをしているかも知れないというのに、彼の愛車に平気で傷をつけたり、家事に忙しいときに呼び鈴を鳴らして逃げたり、なんの悪気もなく数々の悪事を働いてしまう。

 そういえば、自分も小さいときはずいぶんと悪さをしたものだ、と木にもたれながら成瀬はうんうんと思わず感慨にふけってしまった。

 浮浪者の加藤さんも、思考ではなく感覚でそのことに気づいた。

「息子がのぅ、人を殺して、会社がつぶれて、一家離散したからじゃ」

 加藤さんは、すらっとそう言ってのけた。

 軽くいわれたその言葉にあたりは圧倒されて、静かになってしまった。

「それで、もう仕事をする気になれん」

「辛くないですか?」

「辛いが、もうあまり辛くない」

 ベンチによっこらせと座った浮浪者は、思いだしたようにベンチの下からお酒を取りだした。

「変わったお嬢さんや。こういう話は、やっぱり飲みながらせにゃあな」

「いただきます。まだ未成年だけど」

 両わきの少年達は自由になったがすっかり神妙な面もちで、立ち上がろうともしない。

 萌荵はそのきれいな手で、シミや亀裂の入った湯呑みを受け取り、何かもしらぬ酒を受けた。

 浮浪者がじかに一息飲むと、萌荵も湯呑みを一気に飲み干した。

「はぁ……」

「嬢ちゃん、なかなかいける口だねぇ」

 浮浪者は嬉しそうに笑った。

 あはは、と萌荵は笑ったが、しばらくすると神妙な顔つきになった。

「どうしたのじゃ」

「加藤さん、どうして人は人をいじめたりするのかな」

「それはまた、難しいことを考えるのぉ」

 浮浪者はふたたび萌荵の湯呑みにつぎ、自分の胃にもそそいだ。

 周りは、夕暮れになりつつあった。

 蝉の鳴き声も、どこか遠くに聞こえる。

「お嬢ちゃんは、人をいじめたことはないのかい?」

「ないと思う」

「心正しいね」

 ふーむ、と考えるように浮浪者は髭に手を当てた。

「例えば、自分より優れている奴があらわれて、恐くなっていじめたりするとか」

 自分の子分のように思っていた人間が、実は自分よりも優れていると思ったときの、恥ずかしさ、屈辱感。

 例えばこの少年達のように、汚い浮浪者が自分の近くにいることが「恐くて」、石を投げたり。

「自分よりも優れていたら」

 萌荵は盛大に拍手をした。嬉しそうに。

 浮浪者は、眉をひそめた。

「心からかい?」

「心から」

「本当に?」

 萌荵はしばらく、黙って考え直してみた。

 普通、自分より優れている人を、心から本当に賞賛することはできない。そして、そのせいで、心が痛むときがある。

 ただ萌荵は、

「僕の得意なものより優れていたら凄いことだし、苦手なものはとことん苦手だから、できる人を尊敬しゃうし」

 と答えた。

 そういえばそうだ、と成瀬はうなずいた。

 萌荵に武道で勝つということは心から賞賛に値するはずであるし、竹刀を持たせると一級品のくせに包丁を持たせると手を絆創膏だらけにしてくる。

 ついでに、ネズミも死ぬほど苦手だ。

 それは、それでいいのだ。一人の人間がすべてに優れていなくてもいいのだし、一番でなくてもいいのだから。

 だが浮浪者は信じられないと言った様子で、質問はだんだんときつい調子になっていった。

「お嬢ちゃん、例えばあんたがね、お金を持っている以外になんの魅力もない人間だったとする。お金があるうちは、いろいろな人があんたを必要とするが、そのお金が無くなったとき、あんたは手放しにお金がある人のことを賞賛できるんかい?」

 唾を飛ばしながら、浮浪者は真剣だった。

 萌荵は何も言えなかった。

 今の言葉はたぶん、彼自身のことだろう。

 そして彼と同じ場面になったとき、違う行動がとれる自信はほとんどなかった。

「…………できないと思う」

 浮浪者は「ほらごらん」とでもいいたげに微笑み、酒を飲んだ。

 萌荵も成瀬も少年達も、声がでなかった。

 静かに、この浮浪者を見つめるしかなかった。

 くいっと酒を飲み干す。ふたたび見た浮浪者の顔は、しかし、もはや満足気な表情はどこにもなかった。

 静かな、少し遠くを見るような表情。

 萌荵の胸が少しいたんだ。

「だれだって『差別』はするもんじゃ。自分が無価値であることを確認することが恐いからの」

 浮浪者は手に持った一升瓶を月に向かってかかげ、ちょっと大きな声で滔々と話はじめた。

「会社でも家でも、自分がさも偉いように振る舞わないと、周りが自分のことを無価値な人間だと言い出しそうになるように思えることがある。いつか、それがばれることは解っていても、それでも相手が駄目な人間だと思わずにはいられなかったりする時が、大人にはあるんじゃ」

 本当に無価値な人間なんていないと解っていても、それが自分のこととなると不安でしかたがなくなる。

 ほんの少しでも、価値のある人間であることを他人に見せて、そして前以上に自分が無価値であることを恐れてしまったりする。

 成瀬はふと萌荵を見た。

 浮浪者の言葉に真剣に耳を傾けている、美しい萌荵。

 どうして彼女は、違うのだろう。

 全身を火傷して体中が動かなくなり、あの美しい容姿がなくなったとしても、優しく頭を撫でてくれる人がいることを、萌荵はなぜか無意識で知っている。

 だから、彼女は心から純粋でいられる、のだと思う。

 自分一人の強さではない、強さを持って。

「わしは息子が恐かった。言うことは聞かない、勉強はできない、暴力を加える。だから、遠ざけとった。しょうがない奴だと思っていた。だが息子は、体をはってわしに訴えかけていただけなんじゃ。しょうがないのは、それに気づこうとしなかった鈍感なわしだった」

 浮浪者の顔は、むしろ悲しいほどまでに、笑っていた。

 自虐的な笑い。

 でも、優しい笑顔。

「あんた達は、わしのようになるんじゃあないよ」

 萌荵は立ち上がり、ゆっくりと歩いて浮浪者の後ろにまわった。

 そして、その細いきれいな腕を浮浪者の首に回した。いくぶん、きつめに。

「自分をいじめる人は嫌いだ」

 浮浪者のかき乱れた髪の中で、萌荵が呟いた。


 相手をいとおしいと思ったとき、萌荵はこうやって首ねっこを抱きしめてしまう。本当は体を抱きしめたいけど、そうもいかなくて、こうして首にまとわりつく。

 ある日の学校での出来事。ある大人しい女の子が、自分が馬鹿にされているのに、それを一緒になって笑っていた。

 その女の子が「私、馬鹿だから」と言って笑ったとき、萌荵はついうしろから抱きついて、真剣に「自分で自分をいじめないで」と言ってしまった。

 自分をいじめる姿が、いじらしくて、健気で。つい、抱きしめずにはいられなかった。

 女の子はしばらく笑っていたが、首にまわる萌荵の手を取ると、涙をこぼした。


 浮浪者の目からは涙は落ちなかったが、その表情から自虐さは消え、本当の笑顔になった。

その汚い手で、ぐしゃぐしゃと萌荵の頭をなでる。

「あんた、いい子じゃ」

 浮浪者は萌荵の手を取ると、もといた場所に座らせた。

 萌荵の方がむしろ泣き出しそうで、横にいた少年達を最初の時のように脇に抱きしめた。

「あんたみたいな娘がいたら、わしも少しは素直になったかもしれんなぁ」

 公園は夕に染まっていた。

 まだまだ青さを残す空に、青白い月が光っていた。

 駅から来た幾人かが、不思議そうに見て、通り過ぎていく。

 その頃になってやっと、気持ちが落ちついてきたらしい−−−少年の一人が、抱きかかえる萌荵の顔を見た。

 萌荵が、何かな、と見つめかえすと、少年は顔を真っ赤にした。

 見つめられて、急に恥ずかしくなったらしい。

「はなさんか」

 萌荵はちょっと嬉しそうに、力を強めた。

「やだよ」

 萌荵の胸元でもがく少年は、にたりと笑って、

「姉ちゃん、胸、でかいな!」

 と言った。

 萌荵が恥ずかしがって手をはなすかと思ったが、むしろ手の力は強まった。

「いいだろぉ」

 萌荵はそう答えたが、何がどういいのか理解に苦しんだ。

 ただ成瀬だけが、抱きかかえられる少年達を見て「いいなぁ」と心の中で呟いていたことは、誰も知らない。

 烏が、悲しげな鳴き声をあげていた。



 自分はなぜ萌荵のように生きられないのだろう。

 萌荵のように勇気が出せないのだろう。

 やっと駅について、帰りのキップを買いながら、成瀬は繰り返し呟いてしまった。

 萌荵はもう、いつもの笑顔を取り戻し、美しげな横顔を見せていた。

 ふと何かに気づいたように、萌荵は視線を移動した。

 そして軽やかに歩いていく。

「おばあちゃん、どうしたの?」

「うん? あぁ、どうも目が悪くてね。いくらか、わからなくて」

「何処まで?」

「白石ちゅう所なんだが」

「あっ、隣町! ……1560円だよ」

「有り難う、お嬢ちゃん」

 萌荵は、にっこりと笑った。

 『有り難う』、この言葉を言われたはいつのことだったか。

 萌荵は今日だけで何回言われたか。

 おばあちゃんの手を取り一緒にホームに向かう萌荵の後ろ姿を見て、あの水上のような「しょうがないな」とでもいいたげな温かなため息をつきながら、成瀬はゆっくりと後を追っていった。



 カタン、カタン、コトン………


 列車は走っていく。

 暗闇に、家の明かりを流れ星に変えながら。

 人もだいぶ少なくなり、車両の中には遠くに二人と向かいに座るあのおばあちゃん、そして隣に座る萌荵だけとなっていた。

 窓の外を見ると、ただ一つ、満ちかけた月がこの列車を追っかけていた。

 真っ白な月。兎が餅でもついているかも知れない。

 萌荵はしばらく黙っていた。

 それまでは大会の話で盛り上がっていたのだが、話もつきると自然に話は途切れた。

 昔はこの沈黙が辛くて、なんとか話を作りだそうとしたものだが、最近はそんな心配もしなくなった。萌荵にいらない気遣いをしてもしょうがないのだから。

 眠たくなるような、窓からもれる風を感じながら、しばらくこの幸せな沈黙を感じていたいぐらいだった。

「なんで人って、人をいじめたりするのかな」

 萌荵の言葉は突然だったが、不自然さは何もなかった。

「いじめられる方も、いじめる方も苦しむのにね」

 本当だね。

 何故なんだろう。

 萌荵と一緒にいると、それが不思議になる。

 本当は、解っているのに。

 どちらも止められない、どうしようもない何かを誰もが持っているせいなのに。

 不思議だ。何故、人は自分を苦しめるのだろう。

 どれだけ人に、有り難うと言えるだろう。

 どれだけ人に、有り難うと言われるだろう。

 人はなんで人をいじめるのかな。


 成瀬の見る光景は、少しずつ色合いを増してきているように思えた。


 カタン、カタン、コトン


 静かな、リズムを持った音。

 昔、『銀河鉄道の夜』を読んで聞かされたとき、列車は永遠にどこまでも行くものだと思った。

 地球の果てまで走っていって、いつかは宇宙まで飛び出して行くのだと、信じて疑わなかった。

 目の前に広がる光景は、闇と月と山だけ。

 月だけが、こちらを見つめるように、動かないでそこにいる。

 どうして、月は動かないのだろう。

 理屈は知っているのに、月が追っかけてきているからと言われれば、正直にうなずける。

 月夜の晩は、人の気持ちを優しくしてくれるような気がした。


 コトリ………


 ふいに肩に重さが加ると、成瀬は今までの落ちつきをすっかりなくしてしまった。

 眠ってしまった萌荵が、拠り所をなくした頭を成瀬の肩にもたれさせてしまったらしく、肩のうえで安らかな寝息をたてていたのだ。

 柔らかな髪が頬をくすぐり、石鹸のほのかな香りが鼻にとどく。

 目に映えるような服の白さと、薄い小麦の肌。

 一気に激しくなってきた胸の鼓動とは反対に、萌荵の服は何事もなかったように静かに揺れていた。

 ちょっとでも力を入れればくずれそうな小さな頭を左肩に感じながら、自由な右手で思わずぎゅっと握り拳をにぎりしめ、成瀬は心の中でおもいっきり叫んでしまった。


『超らっきぃぃぃぃぃっっっっっ!!』


 向かい側ではあのおばあちゃんが、くすくすと、二人を見て笑っていた。




 夜の10時。

 風呂上がりの更紗は、いつものように台所でテレビを見ていた。

 頭の上にバスタオルをのせ、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、ぷしゅっとプルトップを引き上げる。それをうまそうに飲むと、「ぷはぁっ」と息をはいた。

 相変わらず、見かけよりもおばんくさい更紗であった。

 ビールの缶を持ちながら、テレビの前の机に腰をおろす。

 台所は、夕食を食べ終えてゆっくりと牛乳を飲む萌荵と、片付けをする舞姫と、その手伝いをする芳春がいて、いつもは暗く落ちついた台所が明るく和やかだった。


『東南アジア系の3人組が昨夜、下校中の女子高生から現金1万5千円を奪いとり。そのまま逃走しました』


 意図的に無機質によまれるニュースが、台所に流れていった。

 そういえば最近は本当に外国人労働者が増えてきた。そしてそれに伴って、日本人の外人コンプレックスはいよいよ目立ってきているような気が、更紗はした。

 日本語を話せない、外国人労働者はそれだけでほとんど身体障害者と同じ扱いの就職しかできないこの現実は、なんとかならないのだろうか。

「外人さん、お金に困ってるね。就職の門戸が狭いせいよ、まったく」

 更紗がぶつくさと文句をいい始めた。

「更紗、そう言う文句は、本当に自分が雇ってからいいなさい」

 舞姫の言葉に、更紗は少し眉をしかめた。

「厳しいなぁ」

「弱者から見るだけでなく、ちゃんと強者からも見てやらないと論理は中途半端になる。そう教えてくれたのは、更紗よ」

「うっ………」

 この幼い舞姫にいつ教えたのだろう、と更紗は思わず考えてしまった。


『外国人の被害はこれまでに何度かあったものの、外国人による日本人への被害は初めてで、警察では厳重に警戒するよう住民に呼びかけました』


 辺りが静かになった。

 なぜ、苦しく数の少ない外国人の被害の方が、ずっと多いのだ?

「ちょっと違うんじゃない?」

 更紗の呟きに、舞姫は返答しなかった。

 つまり、反論の余地があまり見いだせなかったのだ。

「この前の小錦の横綱の話もそうよ。委員会さんの話は解らないでもないけど、それに対する国民の意識は頷けない。どうして、本音で言えば外人を横綱にしたくないが半数以上もいるの?」

「今までずっと日本人だったもの。急に変わることには、誰だって抵抗があるわ」

「それにしては、外国のものは好んでどんどん中にいれるのね」

 舞姫はまた黙ってしまった。

「アメフトを日本でやっても何も思われないのに、相撲がアメリカで行われることは良くは思わないわけ? 別に、こんな考え方が絶対に正しいとは思わないけど、いらない『囲い』で人を傷つけないで欲しいなぁ」

 幼い芳春には高度すぎて、話のほとんどは理解できなかった。そしてむしろ、外国でおこなっている相撲を想像して非常な違和感を感じていた。

 更紗はくるりと振り返り、萌荵の方を向いた。

「ねぇ、萌荵はどう思う?」

「僕?」

 萌荵はお気に入りの、白い雲の浮かぶ透明なグラスを両手で持ちながら、ふと目を閉じた。

 萌荵の頭の中には、あの少年達と浮浪者の姿が浮かんでいた。

 誰もが弱くて、誰かを傷つけなくてはやっていけなくて、

 辛くて、

 自分を傷つける。

 悪いことを誰も叱ってくれないから、

 自分で自分を叱るように自分を傷つける。

 それがあまりにも純粋で、健気で、

「……みんな、大好きだよ」

 心から、そう思う。

 更紗は、呆れたように両手をあげた。

「萌荵には負けるわ」

「更紗もあれぐらいの純粋さがあればね」

「いーだ。これぐらいひねてないと、舞姫の姉ができないもんでね」

「あら、萌荵も私の姉よ。自分のことは、ちゃんと自分に責任を持ちなさい」

 どうしても、舞姫に勝てない更紗であった。




 ある街の、ある駅前の公園。

 夕暮れになって、くっきりと月が浮かびあがってきていた。

 青白い空にくっきりと白い輪郭が、まるで額縁のように月を飾りたてている。

 そんな月を見つめながら加藤さんは、真っ白になっていく心を感じていた。

 心が真っ白になっていく。

 水面にうつる、月のように。

 ふと、すぐ近くに人が立っていることに気づいて、加藤さんはふと視線をさげた。

 そこには、あの少年達が立っていた。

「………………」

 あの時のような恐怖を、加藤さんは不思議と感じることはなかった。

 月の白さが、心を覆い尽くしていたせいかも知れない。

 それとも、あの少年っぽい娘のためかも知れない。

 少年達がぺこりと頭を下げた。

 そして方向をかえて、家路に向かって帰っていった。

 不思議な安堵感が体を満たしていく。

 加藤さんは、いつものベンチにゆっくりと体を寝かせていった。

 久しぶりに、落ちついた寝床を見つけた気持ちがしていた。



 月夜の晩の、そんな話。


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