其之弐 「 子の気持ち、親の気持ち 」
神無月家の夕食は、大きな庭の中で開かれていた。
夏の夕暮れ。
街をあたたかく包みこむ風。
ぽつり、ぽつりと家の明かりがつく度に、空に星がまたたき始める。
街がゆるやかに夜を迎えようとしていた。
大きなお皿に、ぼん、と盛られたスパゲッティが「食べて!」と待っているようで、見かけよりずっと大食いである長女の更紗は、そのスパゲッティをむんずとフォークでからみとった。
こうばしい香りを放つスパゲッティに意識が向きがちだが、優しげな瞳は大人しい感じの一人の少年をとらえ、興味津々な光を放っていた。
すっきりと切り揃えた柔らかな髪。一つ一つがしっかりとした線でできあがった顔立ち。両家のお坊っちゃまを絵に描いたようなこの少年の名は、佐久間芳春<サクマ ヨシハル>といった。
「佐久間翁に似ない、いい男ね」
更紗<サラサ>は笑顔でそう言ったが、芳春は視線一つ動かさず沈黙を守った。
家にきてからずっとこうである。
初めに、「……佐久間芳春といいます。どうか僕を引き取って下さい」といったきり、一度も口を開いていない。
更紗は気まずげに、スパゲッティを口に運んだ。
あれは10日ほど前の夕暮れのこと……この少年の祖父が突然、この家に尋ねてきた。死ぬ前にこの街のすべてを見たくて、この家に来たという。
愉快なお祖父さんで、その晩はずいぶんと遅くまで飲み明かした。
「何か困ったことがあったら、百円でみてあげる!」
「嬉しいのぉ……では、こんどホテルにいらっしゃい。貸し切ってやろう」
酔った勢いで、そんな約束をした。
お祖父さんはすべてを見終わって、そして死んでしまった。
少年のような容姿をした、次女の萌荵<モエギ>が助け船を出した。
「ねっ、ねぇ。芳春君、スパゲッティ、食べて。遠慮せずに」
それでも、芳春は動けずにいた。
きっと、恐いわけではないのだろう。
ただ、おじいちゃんが死んで、急に知らない人達に預けられるようになったわが身を考えると、どうしたらいいのか解らなくなってしまっただけなのだと思う。
それからしばらく、更紗と萌荵が芳春の心をときほぐそうと苦労したが、優しい言葉と明るい冗談はすべて徒労に終わった。
電灯が青白い光を庭に落とす。
あたりはすっかり暗くなっていた。
更紗と萌荵は言葉も出尽くし、二人して困り果てていた……この調子なら、佐久間翁には申し訳ないのだが、引き取るべきではないのかも知れないとさえ、思った。
しばらく気まずい静寂が続いたが、芳春と同じように沈黙を保ち続けていた一人の女の子の言葉によって、それは破られた。
「冷める」
三人姉妹の残り一人、末妹の舞姫<マイヒメ>の声に、萌荵と更紗の顔が向いた。
「料理は、美味しく食べてもらうために、最高の状態で出されるのよ」
舞姫の強い語調に、芳春の顔がほんの少し持ち上がった。瞳が自然と舞姫をとらえる。
肩の位置でさっぱりと切ったストレートの髪が、ゆるやかな風で流れる。意志の強さを表すようなきつい大きな瞳は、限りなく澄んでいた。
舞姫が目をつぶると、怒ったような表情はあたたかくなり、彼女は両手を前にあわせた。
「料理はね、素材に怒られないように一つ一つ丁寧に作り上げていくものなの。スパゲッティをゆでるにしても、塩をどのぐらい入れるにしても、バターを溶かすにしても」
舞姫は目を開ける。美しげな表情が、風とともに芳春に届いた。
ドキドキしているのを、芳春は感じた。
「その結果として『美味しい』といわれて、素材も作った人も満足するの」
そこまでは天女の言葉だった。
「それを……冷やした上に、残すなんて許さない! フォークを持て!」
「はっ、はい!」
芳春が飛び上がるように返事をして、フォークを取った。
「いただきます、は!?」
「いただきます!」
芳春は、かけ込むように食べ始めた。
「急いで食べなくてもいい、美味しく食べて」
芳春は思わずむせて萌荵の水をもらうことになったが、それからはゆっくりと食べ始めた。
萌荵は唖然としてこの様子を見ていたが、更紗はやがて吹き出すように大笑いした。
少しは和やかになった雰囲気は、あたりの様子も明るくした。
芳春は初めて外で食べているという事実に気づいた。
風が吹いている。
目の前には家が立ち並ぶ。
黒い海とが見える。
青白い月が浮かんでいる。
甘ったるい風も美味しく、スパゲッティはいつもより多く胃の中におさまってしまった。
「部屋は、舞姫の隣部屋を使ってね。好きなように使っていいから」
「……はい、お世話になります」
やっと、素直に言葉が返ってくるようになり、更紗はにっこりと微笑んだ。
やがて食べ終わると萌荵と更紗はさっさといなくなり、計られたように二人残された芳春と舞姫は、台所で後片づけをすることになった。
台所は、三方から強いライトが照らすだけの、落ちついた空間だった。
木とタイルを基調とした床と壁に、夜と昼をつくり出すライト。
きれいに磨かれた床とキッチン。
たぶん、舞姫がいつも使っているらしい、微妙な緊張感と温かさがあった。
流しの横に使われた食器をおくと、舞姫はキッチンの上に飛びのる。
「はいっ」
と、芳春に食器拭きの布を渡すと流しの蛇口をひねり、お皿を洗い始めた。
一枚、また一枚と流れる水にお皿をひたしていく。
その手際のいいこと、芳春がいくら頑張っても舞姫の半分でしかなかった。
さっさと洗い終わると舞姫は流れるお湯を止め、自分の手を拭いたていたが、芳春はまだぜんぜん終わっていなかった。
そんな一生懸命、汗を出しながらやっている芳春の様子を、仕事の終わった舞姫は思わずぼぉーっと眺めてしまった。
何となく不思議な気分だった。家族が減ったのと同じぐらい、不思議な気分だった。
同い年の少年がライトに照らし出されて、お皿を拭いている。
よくみるとけっこう端正な顔立ちをしていた。
優しそうではあったが、力の抜けたところがない。舞姫と同じように一種の緊張感がある。
芳春の手が止まり、恥ずかしそうに舞姫を見つめる。
「あの、何か……」
「あっ、いえその、天涯孤独って寂しくないかな、と思って」
言った後に、舞姫は激しく後悔した。なんて言うことを聞いてしまったのだろう、と。
「あの、父がまだ生きていますが」
「えっ!? あっ、そういえば」
葬式で挨拶したのは芳春の父だった。
「あれ? だったら何故、この家に来たのかしら?」
芳春の表情はかわらなかった。
「父と祖父が話し合って、もしもの時はここに行くようにと……」
舞姫は大きな目をまん丸に開き、芳春を見つめた。
「何故かしら」
芳春はちょっと首をかしげて、そしてまたお皿を拭き始めた。
舞姫はしばらく顎に手をあて芳春のことをじっと眺めていたが、突然、流しからふわりと舞い降り、芳春の前に降り立った。
背はだいたい同じぐらい。
きつそうな、それでいて鮮烈なほどに澄んだ瞳が、じっと自分を見つめるのを感じた。
「上から話しかけるなんて、礼儀知らずだわね」
舞姫は珍しくわずかに笑みを浮かべた。
「まずは挨拶からね。私は、神無月舞姫。これから宜しくね」
彼女はそういって、手を差しのべてくれた。
芳春は舞姫のとなり部屋をあてがわれた。
かなり広い部屋だったので聞いてみたところ、もとは両親の部屋だったと舞姫が説明してくれた。
「……お亡くなりになられたのですか?」と芳春が聞くと、舞姫はけらけらと笑った。
舞姫の両親は単身赴任で少し遠くの大都市に暮らしているが、ちゃんと生きている。子供達もそれについていきたかったのだが、更紗がこの家を継いだ時点で残ることになっただけである。
「寂しくないですか?」
「毎月一度は必ず帰ってくるわ。お土産つきでね」
家族なんだから好きなように使っていいから……と言い残して、舞姫は部屋に戻ってしまうと、急に静けさが広がった。
確かに広い部屋である。
畳張りの、ちょっと薄暗い部屋。
芳春はぺたんと座り込んだ。
寂しい気持ちになるかと思ったのだが、不思議とそれほど寂しくはなかった。
一人になれているせいかとも思ったが、そうじゃなかった。
さっきの舞姫の笑顔が浮かぶ。
同じ学校の同じ学年。隣クラスだったけど、舞姫のことは少し知っていた。
綺麗で、しっかりしていて、凄く冷静な人。
話もしたことがなくて、どちらかと言えば恐かった。
でも、さっきは違った。
話していた時、心が暖かくなった。
今も、隣から音が聞こえる。
それだけで十分、寂しくはなかった。
芳春は安心して、神無月家の最初の夜を布団のなかですごすことになった。
その頃、芳春の父はホテルにある大きな一室で、いつものように膨大な量の仕事をこなしていた。大きなホテル、20ある旅館、33の店、この土地に関するいくつもの仕事の書類が机に山積みされている。
「ふぅ」
顔をあげると、昔とった自分と妻と芳春の3人の写真が、目に入った。
実用性を第1に考えたこの室の中で、唯一の有機的な存在であった。
その写真立てをふと手に持ち、芳春の顔をじっと見つめる。
「……芳春……、親父は何を言いたいんだろうな」
愛息だといっても実際に顔を会わせるのは月に一回、それもほとんど寝顔であることが多かった。
それでも、元気で育っていてくれるし、別に死ぬわけでもないので、あまり会いたいと言う気持ちは涌いてこなかった。
可愛くないわけではない。ただ、あまり心配ではないのだ。
いい子に育っている、それだけで十分。
あとは、なるべく自由に生きて欲しい、そう思っているだけである。
自分は親に徹底的に監視され、家をつぐことを強要された。
「知っているかい、芳春? 僕の兄がそれに耐えられなくて成年の日の前日に自殺したことを」
自分は大丈夫。
とにかく、どんな苦痛でも機械的に受け取れる能力がある。
それが良いか悪いかは解らないが。
芳春の父は、なんとなく苦笑してしまった。
「親父、俺は息子を手元におけないほど、それほど親父にとって駄目な男なのかい?」
生前には決して言えなかった言葉が思わず口からこぼれてしまうほど、今日は何となく寂しかった。
ぱちくり。
芳春は一瞬だけ、自分が何処にいるかを考えてしまった。
体を起こし、あたりを見渡して、納得する。
「家じゃないだ」
その事実を確認することは、まるでクラブの合宿のように、何となく心細くはあったが、それでもやはり寂しくはなかった。
何しろもといた家でも、ほとんど独りだったのだから。
かついできたリュックから服を出し着替えると、そぉっと襖を開けて外をうかがった。
誰もいないことを確認すると部屋を出る。
何はともあれ、階段を降りていった。
階段を降りるつれて、眩しくなる。
だんだんと、いろいろな声が響いてくる。
何の声だろう。
たん……階段を降りきると、そこには明るい道場が見えた。
声はそこにいた十人ほどの、合気道をする老若男女たちのものらしい。
その中に、ひときわ目を引く、次女の萌荵がいた。
まるでモデルのような、軽やかな立ち振る舞いを思わず眺めていると、向こうがこちらに気づいてしまった。
いたずらっ子のような表情を浮かべ、芳春の方へ走ってくる。
いいも知れぬ悪い予感がして逃げようとしたが、先に萌荵に抱きかかえられてしまった。
「芳春君、つかまぇた! みんなぁ、今日からの新しい仲間でぇす!」
まるで宝物をみんなに見せまわるように、抱きかかえたまま芳春を紹介をする。
みんなが笑いながら、それに応じてくれた。
こんにちは、よろしく、と。
その勢いのまま柔軟までお付き合いしてしまったが、まだ食事をしていないことをどうにか説明して、芳春は逃げだすことに成功した。
何とも、賑やか。不思議な驚きだった。
胸をなでおろしながら食堂へつづく廊下を歩いていると、庭の木の下で寝ている人がいた。
更紗だった。
昨日と同じ、欅の下の木陰で、心地よく堕眠をむさぼっているように見える。
そして、食堂についた。
ここだけは、他と雰囲気が違った。
暗く、落ちついている。
窓が流しのところに一つだけあって、そこだけが明るい。
ほかは昼間とは思えないくらい、暗く落ちついていた。
「いま、起きたの?」
庭からの逆行をあびた舞姫が、土間に立っていた。
手には、大きな洗濯カゴを持ちながら。
「はっ、はい」
「じゃあ、そこに座って」
芳春が椅子に腰掛けると、舞姫は洗濯カゴを置き、とんっと脚立の上からコンロの横に飛び乗り、鍋に火をつけた。
もうすでに、温めた後らしく鍋はすぐに沸騰しはじめ、舞姫はそう麺をゆるやかにながしていく。
こと、こと、こと……
鍋から沸騰した泡が白くはじけるのを、しばらく舞姫は見つめる。その横顔を、芳春は見つめる。
暗く落ちついた台所に、庭からの光が沸騰する鍋と舞姫だけを照らしあげる。
なんて、綺麗なんだろう。
泡のなかで、白いそう麺が見えかくれする。
舞姫の髪も、庭からの風に揺れていた。
ついっと舞姫が向きを変え、すでに用意してある薬味を切り刻みはじめた。
それにしても手慣れたもので、まるで一つの川の流れのように用意が進み、気づいてみれば机の上にそう麺が出来上がっていた。
二人分。
「お腹すいたぁ」
さっき舞姫がいたところに、更紗がいた。
ちょっとぼさぼさになった髪をかき分けながら、椅子に座る。
「教えてもいないのに現れるのよね」
更紗は気にせず、手を合わせる。
「いただきまぁす」
呆然と更紗を見ていたが、ふと舞姫の視線を感じて、芳春はあわてて「いただきます」と言って、そう麺を食べはじめた。
本当に舞姫の料理はおいしい。
冷たいそう麺がするりと喉を通り抜けていくとき、芳春はそう思った。
とにかく、なんて言うか、舞姫の料理は人を喜ばせる。
大事に、大事に食べたくなってしまう。
そう思っている間に、更紗はさっさと食べ終わってしまった。
「ごちそうさま」
「はいはい」
芳春は焦った。
食べはじめる前から舞姫がずっと見つめていたのだが、食べ終わった更紗も見つめはじめた。
静かな台所に、ずずっ……と自分の吸う音が響くとよけいに、はずかしくなった。
思わず喉につっかえてしまうと、更紗は大笑いし、舞姫は静かにすばやく水をくれた。
「美味しく食べなさい」
舞姫が、昨日よりもずっと優しい口調で、声をかけてくれた。不器用だけど、舞姫らしいなぐさめ方なのかも知れない。
更紗はまだ机につっぷして、笑っていた。
舞姫も、つられて笑顔になって、やっぱり芳春を見つめる。
突然、更紗はがばっと体を起こした。
「お父さんに会いに行こう」
また喉につまらせてしまった。
これには、舞姫も声をあげて笑った。
更紗もやっぱり笑った。
芳春には信じられないくらい、のどかな昼食風景だった。
ホテル、いつもの部屋で芳春の父は働いていた。
そこに、フロントに立っていたはずの従業員が現れた。
「支配人、御子息様がいらっしゃいました」
父は、しばらくなぜ息子が来たのか思い当たらぬようにしばらく考えていたが、やがて腰をあげた。
部屋を抜け、広い事務室を抜け、フロントに出る。
十階まで吹き抜ける広いロビー。
茶褐色の大理石を主とした落ちついた床が、外からの夕焼けと周りのライトで照らされる。
その中、雑踏の中、3人の一際めだつ娘達に囲まれて、息子がいた。
その美しい娘達に、見覚えがあった。特に、長女の更紗に。
父は、ちょっとのためらいの後、更紗に声をかけた。
「ようこそ、おいで下さいました。本来なら、こちらから先に御挨拶に行かねばならないと言うのに」
「良かったら、」
言葉の途中で、更紗の声が入った。
「は?」
「良かったら、御一緒に夕食を食べませんか?」
「……」
最上階、この街一番の展望を誇るレストランの一番おくまったテーブルに、5人は座った。
窓の下では、だいぶ暮れかけた夕焼けに浮かび上がる、祭の様子が見えた。
元国道ぞいに沢山の露店、家族、恋人、友達などが溢れている。
家の明かり、ライトが次第につきはじめる。
次第に、夜になっていく。
山ぞいに浮かぶ月が、しだいに白く光りはじめていた。
「息子が……芳春がなにか」
父は、芳春が何かをしたために、もしくは祖父の約束がデマだったために、芳春が返されるのだと、想像した。
いや、息子もそんな悪い人間でもないし、祖父もデマを言うような人ではない。
息子は父と一緒に住んだ方がいいと言う理由だろうか?
芳春も、同じようなことを考えていたが、更紗の答はその逆だった。
「芳春君を、いただきに来たのです」
「……?」
「芳春君をすっかり気に入ってしまいました。彼さえよろしければ、佐久間翁との約束通り、預かりたいと思って」
その後、更紗は「こんな娘が当主ですが」と照れ笑いをつけ加えた。
父は不思議な気分だった。そう言われて急に、寂しい気持ちがしたのである。
他人に大事なものを盗られたような、寂しさ。
それでも、父は芳春に目を向けた。
全ては、芳春自身の気持ちに任せるつもりだった。
「ぼっ、僕は、どちらでも構いません」
そうか、どちらでも、か。ならば、祖父の約束は絶対である。
「祖父との約束通り、どうぞ宜しくお願いします」
更紗は、にっこりと微笑んだ。
「解りました。責任を持って、預からせていただきます」
更紗がピース、ピースと芳春と舞姫にサインをおくったが、舞姫はつれない顔、芳春は苦笑するしかなかった。
料理が運ばれてきた。
まずは、前菜とパン。
「いつも、このパンのせいでお腹一杯になるんですよね」
と愚痴ったのは、常にお腹をすかしている萌荵だった。
目に前にあるものは、だいたい口に運んでしまう彼女は、一品ずつ持ってくる中華料理をもっとも苦手としている。最初の方でお腹をすぐに一杯にしてしまい、最後まで食べた経験がないのである。
西洋料理でのネックは、このパンだった。
どうしても、メインディッシュがくる前に、食べ過ぎてしまうのである。もっとも、体格からは想像ができないぐらい食べるのではあるが。
いつものようにずっと黙っていた舞姫が、前菜に手をつける前に、芳春の父に目を向けた。
「一つだけ、質問をしてよろしいですか?」
「なんでしょうか?」
「息子と離れて暮らして、寂しくはないですか?」
実際のところ、それほど寂しい気持ちがしなかったので、返答におもわず口ごもってしまった。
「息子にとっていい経験になれば」
とだけ、答えた。
更紗は、いつもの調子で前菜をぺろりと平らげると、「舞姫の方が美味しいわね」と呟きながら、言葉を続けた。
「実は今日、突然こちらに来たのには、理由があるのです」
舞姫が思わず、「本当に考えた行動なの?」と疑わしげな視線をよこしたが、更紗は構わず続けた。
「芳春君がなるべく早く馴染んでくれるように、早くお父さんに会っておきたかったのです」
ふむ、と頷いたが、ちょっと首をかしげた。
「会って、それで?」
「いやその、会って話をすれば、今あるつっかえが取れるかななんて……」
舞姫が、「やっぱり何も考えていない」と苦々しい顔をした。
でも、芳春には何となく理解ができた。
神無月家にもらわれることに、あまり抵抗はない。が、でも何となく、つっかえがある。何だかしらないけど、心が苦しい。
なぜ、更紗はそれを知っているのだろう?
「それに、佐久間翁との約束も早めに果たしておいた方が、あなたのつっかえも取れるかな、なんて」
あはは、と更紗が笑ったのに対して、父は強く頷いた。
「そうですね。貸し切りにはできませんが、どうぞお泊まり下さい。祖父も喜びます」
祖父。
舞姫のスープをはこぶ手が止まった。
「もう一つ、お尋ねしてよろしいですか?」
「はい」
「佐久間翁はどんな考えがあって、芳春君を預けることにしたのでしょうか?」
これには、さすがの父も答えられず、しばらく沈黙が続いた。
「私も知らないのです。御存じないでしょうか」
舞姫も更紗も首を横に振った。
「そうですか」と言って、ため息をひとつつく。やはり、私のせいなのだろうか?
何はともあれ、考えるのはよそう。
ほとんど会えないのだから、むしろ彼女達に任せた方が芳春にとっても幸せのはずなのだから。
「それにしても、御聡明な方ですね」
「末妹です。姉としては、肩身が狭いです」と更紗が言うと、父ははじめて笑った。
「芳春と同級でしたね。話を聞いたことがあります。どうぞ、宜しくお願いします」
「こちらこそ」
「今日は、貸し切りの代わりにスィートにお泊まり下さい。プールの方は8時で終わってしまいますので、それから貸し切りにしましょう」
外の夜景はいつしか、街の明かりだけとなっていた。
ホテル別館、プール。
50メートルのレーンが8つ、深さは1メートル30センチ。
天井は2階分の高さがあり、ほぼガラス張りになっている。
そのガラス張りの天井は、蒸気にその面を曇らせているものの、本館からもれる部屋の明かりをまるで星のように映し出していた。
白い床、白い壁、白い監視台。
カフェテリアとジムがガラス越しに見渡せる。
そんな豪華なプールに、いまは4人しかいなかった。
スポーツ万能の萌荵が、その細い体をゆったりと曲げ、ぴったりとスタート台に手をつける。
足はピンっとのばし、顔だけじっと正面を見据える。
髪からは、水滴がしたたり落ちていた。
「よぉーいっ……どんっ!」
更紗のかけ声を合図に、萌荵がきれいな弧を描いて、水面に没する。
水しぶきや音がほとんどしない。
すいっと15メートルほどを魚のように水中を進むと、水面に上がりクロールで泳ぎはじめた。
さして急いでいる様子もないのに、かなり早い。
「おかしいわね。こぐための表面積は小さいはずなんだけどなぁ」
「その分、水のあたる面積も小さいからね。更紗とは違って」
「本当に、きれいな泳ぎですね」
三人三様の言葉を呟きながら、萌荵を見守る。
萌荵はさっさとターンをすまし、やおら潜水した。
すぃ、とこちらに向かってくる。
「やばいっ」と言うが早いか、今までプールサイドで落ちついていた更紗と舞姫が、床に上がった。
「えっ?」
対応の遅れた芳春は、またしても、萌荵に抱きかかえあげられた。
「わぁ!」
と言う間もなく、萌荵が全力で泳ぎだし、芳春の体は反対サイドまで持っていかれた。
「あはは、大丈夫? 芳春君」
「だっ、大丈夫です。泳げますから」
「よし。じゃあ、肩をつかんで。しっかりと」
「えっ?」
萌荵が背中を向く。わけも解らず、肩をつかんだ。
萌荵は、水中に入った。
肩をつかんでいるだけで必死だったけが、凄い光景だった。
ぐんぐんと壁が近づいてくる。まるで、本当に魚になったような気がした。
「ぷはぁ!」
「おかえりぃ」
芳春の目はまん丸に見開かれていた。
「えらい、えらい。よく手をはなさなかったね」
きれいだった。
溺れている状態に近かったかも知れないけど、でもプールの反対側まできれいに見渡せた。
お魚さんは、あんな光景なんだうか。
更紗の手をかりて、床に上がると、しばらくぼぉっとしてしまった。
かわって、更紗もざぶんと入り、萌荵はどんどん泳いでいってしまった。
少し落ちつくと、横に舞姫が座っていることに気がついた。
黒地のワンピース。胸元にちょっとだけ花のようなアクセントのある、すっきりとした水着につつまれ、舞姫がすぐ横に座っていた。
「まっ、舞姫さんは泳がないのですか?」
初めて名を呼ぶことにちょっと緊張してしまった。
「えっ、いや……その……こうしている方がいいの」
舞姫の方の反応はずいぶんと意外だった。焦っていた。
眉目秀麗、成績優秀、沈着冷静の彼女。
「もしかして、舞姫さん」
「そうよぉ、舞姫は泳げないの」
更紗がぱたぱたと、水をたたきながら言った。
「それじゃあ、教えてあげますっ!」
「いいわよ。別に泳げなくたって」
「教えてあげます。舞姫さんには、いろいろ教えてもらったから」
芳春の真面目な言葉に、思わず舞姫は真っ赤になった。
「そっ、それじゃあ。少し」
「ひゅう、ひゅう!」
「うるさいわねっ! 更紗っ!」
「それじゃあ、向こうの浅い方にいきましょう」
「……うん」
プールの奥にある浅い場所へと二人だけで、行ってしまった。
更紗は、くっくっと笑いながらそれを眺めていた。
疲れてきた萌荵と、更紗は一緒に床に上がり、その二人の様子を眺めた。
「不思議な光景ね。芳春君、引き取って良かったわね」
萌荵がそう言うと、更紗がぷぅっと吹きだした。
「あの、あの堅物の舞姫が、顔を赤くしてっ!」
「いい傾向じゃない。私の初恋も、あの頃だったなぁ」
ひとしきり笑うと、静かにその二人の様子を眺めはじめた。
いい子じゃないか。
それにだんだんと馴染んで来ているし。
「お父様も誠実そうな方だったし」
「うん、でも」
「でも?」
「何というのかな、誠実だし真面目だと思うけど、あのお父さんここのプールみたいな気がする」
「プール?」
萌荵は、いちどこのプールを眺めまわした。
でも、何の違和感も感じない。
「プールって、どういう意味?」
「萌荵がこのホテルのオーナーとする。あなただった、どうやっておもてなしする?」
「プール、食事、ジムでみんなでワイワイ」
「そうそう。でも、あの人は一人が好きみたいね」
「ふぅん」
「正しくは、一人が寂しくはない。一人でいることの方が普通なんじゃないかな。こうやって貸し切る方がもてなしだし、自分は顔も出さない方がもてなしみたいね」
舞姫は絶対に信じないが、この更紗も良く考えているし感じていることを、萌荵は知ってた。
それに比べて、自分は何も考えていないし、感じていないことを嫌に思うこともあるのだが、
「いいの。だから萌荵はいつも幸せだし、周りも思わず幸せになっちゃえるから」
と言う更紗の言葉で、安心している。
「このプールは豪華だし、綺麗だし、隅から隅まで注意が行き届いているけど、私からみると寂しいような気がする」
「でも、プールなんて、そんなものじゃないの?」
「うっ、そうかも」
前言撤回。やっぱり、大して考えていない。
「でも、何となく、解る気がする」
芳春君を見ていると、そう思う。みんなが当然持っているものを、彼は持っていないような気がする。
彼はここにきてから、初めて外にでた小鳥のように、目を白黒させてばかりいる。世界はこんなに広いんだよ、楽しいんだよと、思わず連れ回したくなってしまう。
まぁ、更紗の言葉に変えれば、からかいたくなる、だろうけど……。
視線の向こうで、真面目な二人が真面目に泳ぎの練習をしていた。
ほほえましいほど、真面目に。
「この部屋ね」
渡された鍵で、部屋の扉を開ける。
「スゥイートと言っていたけど、本当に豪華かな?」
ゆっくりと中の様子が見えはじめる。
「これは凄いっ!」
「わぁ」
更紗達の泊まることになった部屋は、想像以上に凄かった。
部屋は6室を数え、寝室、居間は当然のこと、ビリヤード台、それに高級酒の並んだカウンター付きのカジノ部屋まであった。
最初入ったところが居間でいちばん広く、グランドピアノが無造作に置かれていた。
「これ、みんな無料なのっ?!」
「更紗……はしたない」
「いっ、いいじゃない。こんな時くらい」
外の好きな萌荵が一番にベランダまで出ると、そこにはちょっとしたプールまであった。
夜空にライトアップされた淡い水色に照り光るプールの横を通り過ぎ、手すりまで走っていく。
萌荵の想像通り、海からの風が吹きかけてきた。
「気持ちいい!」
他のみんなもぞろぞろと外に出てきた。
「凄い豪華さね」
「僕も来たのは初めてです」
舞姫と更紗のスカートが風に大きくはためく。
風に揺れる髪を後ろに流し、更紗は大きく伸びをした。
「うーん、いい気持ちっ!」
遠くで、海を眺めてはしゃぐ萌荵。
すぐ前で、大きく伸びをする更紗。
後ろで、なびく髪をおさえる舞姫。
そのまま写真にして、残しておきたいような光景だと、芳春は強く思った。
プールがさざめき、キラキラと光っていた。
「芳春君、わたし、お礼がしたい」
「えっ? でも、僕は何も」
「おじいちゃんの代わり。お礼したい気持ちなの」
舞姫が、頭をかかえていた。
「また、お金がからまない仕事ばっかり」
「仕事じゃないと思うと、いくらでもしたくなるのっ!」
「えっ、えっ?」
「お母さんに会わせてあげる」
「えっっっ!!」
舞姫が、部屋の中からなにやらとってのついた花瓶を持ってきた。
「こんな感じでいい?」
「ちょっと重そうだけど、いいか」
「あの、母に会うって」
「会いたくない?」
芳春はぶんぶんと横に首を振った。
写真でしか会ったことがない、僕を生んで死んでしまった母に、何度も何度も会ってみたいと思っていた。
でも、会わせるって。
「なにしろ、この道のプロだから」
そう言って、更紗はにっこりと笑った。
水のいっぱい入った花瓶を両手で持ち、プールサイドまで歩いていく。
まるで、彼女にスポットライトがあたっているように、花瓶をゆっくりと頭上にあげた。
「……」
何かを呟いているらしい。
まるで、神に祈りを捧げる巫女のように。
花瓶をぷぁっと回し、プールに何か文字を書いた。
円、三角、線、文字、絵。
何やら、文様をプールの上に描いたらしい。
空になった花瓶をおき、くるりと振り返る。
風に全身の服をなびかせながら、こちらに来るように手招きしていた。
「はい!」
自分達が向かって行くにつれ、更紗が近づいてくる。
すぐ目の前に来ると彼女はひざまずいて、視線の位置を合わせる。
「来たわよ」
「えっ?」
更紗に後ろがまばゆく光った。
まるで、ライトの光を一カ所に集めたような光。
その光が次第におさまると、そこには一人の女性が浮いていた。
髪をきっちりと結い、和服を着たまだ20代の若い女性。
更紗がびっくりした。顔立ちが、自分とかなり似ている。芳春の父が戸惑ったりしていたのは、きっとこのせいだったのだ。
「お母さんっ!」
「芳春。あぁ、初めて名前を呼べたわ」
プールの上に浮く、幻像のような芳春の母の頬には涙が伝っていた。
「あとは抱くことができたら本望なんだけどねぇ」
「お母さん……」
「芳春、元気そうで何よりね。ちゃんと守ってやるからね、これからも」
芳春は、何を言ったらいいのか解らなかった。たくさん言いたいことがあったような気がするのだが、何も思い出せはしなかった。
ただ何となく、嬉しくて、寂しかった。
「更紗さん、うちの子をどうぞ宜しくお願いしますね。何やら、義父から夫まで迷惑をかけているようですが」
「いえ、こちらこそ、お礼を言いたいくらいです」
後ろの方で、花火が上がった。
お祭の終わりに合図代わりに打ち上げる花火が、赤い火の弧を作って夜空に消えた。
「懐かしいわ。あの人にプロポーズされたのもこのお祭の時なのよね。あなたが生まれたのも、この頃だし」
からからと、笑った。かなり明るい性格らしい。
「芳春、言いたいことはあまりないわ。とにかく遊びなさい、恋をしなさい」
知ってか知らなくてか、舞姫のことをちらっと見つめ、そして向きなおり、芳春の瞳を真剣にじっと見据える。
「そして、幸せになりなさい」
命令口調だが、その中にこらえきれないほどの優しさが含まれていた。
幸せになりなさい……。
芳春の胸が、ぐっときた。
いいたい言葉も、何も言えなくなってしまうほどに。
「芳春君のお母さん、良かったら私の体をつかいませんか?」
「ああ、乗り移るのね? でも、いいわ。そんなに多くをのぞんじゃ、他の人に悪いわ」
「それじゃあ、明日。あの人をお祭に誘いますから。いかがですか? 親子水入らずなんていうのは」
「夫をですか? それなら、お言葉に甘えようかしら。なにやらあの人、今回のことでぐじぐじ悩んでいるみたいだから」
芳春の母は、ちょっと蹴るようなまねをした。
「そのなまっちょろい根性に、ちょっといっぱつ蹴りを……あら、はしたない」
やっぱり、面白い人だ。
あの人に、実に合いそうな明るい女性だった。
「また明日ね。芳春」
そう言うと、出てきたときのようにまばゆい光をはなち、消えてしまった。
あとはただ風と、花火の音だけが残った。
そして、次の日の夕方。
祭の最終日。
外は、雲一つない晴天。
そして街は、夕暮れを迎えようとしていた。
芳春の父は、いつもと変わらぬスーツ姿で、ロビーに立っていた。
時計をチラッとながめたちょうどその時、更紗達がタクシーから降りた。
「……」
更紗の姿を見て、父は声も出なかった。
真っ白に、うっすらと浮かび上がる花びらの描かれた浴衣。
きちんと結われた髪。
ゆったりと、芳春の手をひいて、降りてくる。
玄関をくぐる。
一歩、一歩、近づいてくる。
そして、更紗は目の前にいる。
「ぁっ……」
何かを言おうとしたが、どうしても言葉にならなかった。
きれいだと言うのは、妻に対して気が引けた。
妻に似ていると言うのも、何となく気が引けた。
なにしろ、まるで、妻がそこにいるかのようであるのだから。
「いきませんか?」
花の咲いたような笑顔。
そこからは、まるで夢の世界に入ってしまったようだった。
妻も最初は、こんな感じだった。
美しくて、大輪の咲いた花のようだ、と言うのが初めての印象だった。
けっしてつんでしまってはいけないが、いつまでも側に置いておきたいような一輪の花。
だが、話してみると、そんなことはなかった。
祖父に虐げられてきた半生を正直に話すと、彼女はいきなり背中にまわり、背中を足で蹴って私をよろめかせ、こう言ったのだ。
「これで、あなたの意志でもなく、ましてやお祖父様の意志でもない、初めての一歩がふめたでしょ?」
あまりに驚いて、私は自分の新しい一歩をずっと見てしまったことを憶えている。
あの人は、いろいろなことがあったけれど、強かった。
生きていくための強さではなく、たくさんの愛情を吸収して、ちょっとやそっとではへこたれなくなった強さだった。
ほんの二年だけ。知り合ってから、芳春を産むまでの二年を、忘れることはできない。
外は賑やかだった。
どん、どん、どん、と軽快なはやし太鼓の音。
露店の呼び声。
すれ違う、街の人々の声。
その中を、更紗と二人でねり歩く。
芳春と舞姫と萌荵は、露店をあまねく探索していた。
例えば、綿菓子屋の前で芳春が、
「買いませんか?」
と言うと、
「お金のムダ遣いよ」
と舞姫のすげない答え。
芳春が目に見えてしょぼん……としてしまうと、舞姫はあわてて、
「わっ、解ったわ。買いましょう」
と言う。
本当はけっこう美味しいと思っているくせに、恥ずかしそうに綿菓子をほおばる。
父は、そんな息子達の様子をじっと見つめていた。
こんなありふれた光景を、そういえば味わったことがなかった。
子どもの時からも、そして結婚した後も。
一度だけ、結婚する前に妻とこの祭に来たことがある。
あの時も、ただこうして二人で何も話さずにゆっくりと人混みの中を歩き続けた。
賑やかな雑踏。隣に彼女がいるだけで、寂しくも何もなかった。
二人で何もしないで歩いていることが、ごくごく当然なことのように、言葉もなく二人で歩き続けた。
あの時は、ただ一つ金魚すくいの店にだけ立ち寄った。とにかくお金がなくて、本当に金魚を一回すくうだけのお金しか持っていなかったせいもある。
そして、一匹の赤い金魚をすくい、彼女にあげた。
お金がなかったせいもあって、結婚指輪以外に彼女にあげた最初で最後のプレゼントが、その赤い金魚だった。
小さくて、すぐにでも死んでしまいそうだったけど、それでも三ヶ月生きていたと、彼女は悲しそうに笑った。
私からもらった初めてのプレゼントだったのに、とつけ加えて。
いま、目の前にいる三人は、全ての露店に顔をつっこんでいた。
今度は萌荵が射的露店に入り、二人の首ねっこをひっつかんで引き込み、三人で銃をにぎり、置物やらライターやらを必死にねらっている。
長身の萌荵が手を伸ばすと獲物のすぐ前まで銃身がいくが、舞姫がジト目でみるので素直に元の姿勢で撃つ。
立て続けに2個、3個落とすあたりはほとんど名人芸の域だった。
思わず露店のおじさんが、呻いてしまったほどである。
「萌荵ちゃん、相変わらず上手いねぇ。商売あがったりだよ」
細い腕を曲げ誇らしげにガッツポーズをとると、獲得した人形を舞姫と芳春にわたし、もう一つはおじさんに返した。
萌荵らしい一場面だった。
林檎飴、焼きそば、トウモロコシ、お面、玩具屋、タイ焼き、風船、和投げ、占い、大道芸人……。
もはや、舞姫と芳春と萌荵の手に余地はなかった。
舞姫も、片意地をはるのをすっかりあきらめて、年相応に無邪気に楽しんでいた。
芳春は、舞姫と遊ぶのが楽しそうで、始終笑っていた。
萌荵は、露店のおじさんとほとんど知り合いらしく、店の先々で声をかけられていた。
そして、風船釣り、その横に金魚すくいがあった。
世話をしなくてはいけない金魚すくいを通りこし、賢明な子供達は風船釣りの方に流れた。
「金魚すくいか」
もはや、懐かしい。
思いにふけるその前を、つぃっと更紗が通った。
「金魚すくい、やりましょ!」
驚く間もなく、腕をつかまれ金魚すくいの前に座っていた。
あの頃は百円だったが、今はひとり二百円もはらうと、あの白い紙の張られたわっかをくれた。
最初はスーツ姿のおじさんがこんな所に座っていることに、何となく違和感を感じて、ただただ手に持つ白い輪をながめた。
横を見ると、真剣な表情で、更紗が金魚をにらみつけている。
やっぱり、その姿は大輪の花だった。
水面近くまで、白い輪を持っていく。
そして、先だけを使ってすいっと水面をくぐらせる。
だが、金魚はぴょんとはねて失敗してしまい、白い輪は上半分をなくした。
「悔しい……」
真剣な表情でそう呟く。
今度は、下半分を使おうと、もう一度水面近くに輪を戻す。
だいぶ、間があく。
もう、更紗しか見えなかった。
全ての音が遠くへ、遠くへ流れていく。
「えいっ!」
飛び跳ねる金魚。
鮮やかなきらめきを宙に残し、そして、碗の中へ入った。
「やったぁ!」
その声とともに、周りの喧噪が戻ってきた。
はしゃぐ更紗。
自分も何気なく挑戦してみたが、わっかはあっけなく破れてしまった。
そうだ、あの時は彼女ぐらい一生懸命やったはずだ。
小さなビニールの袋に、赤い金魚を入れてもらうと、私にも店の親父が一匹わけてくれた。
お互い一匹ずつ。あの時は、私が一匹だけだった。
二人で立ち上がると、自然と目があった。
更紗は笑っている。
大輪の花の、妻の顔で。
「はいっ!」
金魚の泳ぐ透明な袋を差し出し、そして、こう言ったのだった。
「やっと、お返しができたわ」
胸が熱くなった。
何も言わず、ただ袋を受け取る。
「あらっ、芳春」
気づくと横に芳春が立っていた。
かがみ込み、しっかりと芳春を『抱きかかえる』。
花火が打ち上がる。
祭が終わりをつげる。
あの、プロポーズをした瞬間。
花火の音に一度、かき消されてしまったプロポーズの言葉。
あの時の全てが、脳裏によぎる。
夢見た、芳春と妻との幸せな姿が、目の前にあった。
涙が、こぼれ落ちる。
目の前が、かすんできた。
すべてが、ぼやけゆく。
そして、そして、花火が打ち上がる。
「ちょっと、出かけてくる」
「どちらにですか? 珍しいですね」
いつもの部屋から出てきた支配人に、思わず女性秘書が声をかけてしまった。なにしろ私用で出かけてくることなど、今まではまず無かったのだから。
支配人はいたって表情をかえず、すらりとこう言ってのけた。
「うん、月に一度は息子に会っておくにしたんだ。顔を忘れてもらわないためにね」
珍しい光景だった。あの祭から、少しだけ変わったような気が、秘書はした。何と言っても、こんな冗談めいたことを言える人ではなかった。
「……どうぞごゆっくり行ってらして下さい」
心から出た言葉だった。
夏の日差しも強く、昼過ぎは、蝉の声もうるさいほどだった。
更紗も舞姫も萌荵も、そして芳春も、欅の大きな影の下に寝転がっていた。静かな風に身を揺らされながら、心地よい眠りにひたっている。
そして、遠くの、この庭を見渡せる道路から、父が車から降りる。
今日は、何を芳春に話そうかと考えながら。
親父の考えていたのは、こんなことなのかも知れないと思いながら……。
風が、優しく、そんな人達に吹きかけていた。
月夜の晩の、そんなお話。