其之拾壱 「白い花」
11月も終わり、寒さがだいぶ身にしみいるようになってきた夜道を、塾からの帰途にある慎也は早足で駆け抜けていた。
放課後にクラブに精を出し、そのまま塾に直行している慎也の帰りは、だいたいいつも8時をまわる頃になる。クラブと塾の間に買い食いしておいたお腹ももう我慢の限界に達し、先ほどからやかましいほどの音をたてていた。
角を曲がり、ようやく見えたわが家に慎也は一目散にかけ込み、そのまま一気に台所まで上がり込んだ。
「ただいまぁ。かあちゃん、めしっ!」
慎也の叫びに反して、使い古された台所に母の姿はなく、代わりに姉の香緒が食卓についていた。
「慎也、もう少し静かに入ってきな」
怒るでもなく、ただ煩わしげに香緒が呟いた。
OLをしている香緒の帰りは、だいたい遅い。いつもは慎也の方が早く家につき夕食に手をつけていたのに、すでに香緒の前に置かれた皿は半分ほど片づいていた。
「姉貴、早いじゃん」
「まあ、たまにはね」
慎也は唐揚げをつまみ食った。口一杯に広がる温かな感触を楽しみながら、さっさとご飯をよそい、味噌汁を用意して、香緒の前の席に着いた。
そしてふと、不自然に机に置かれた鉢を見つけた。両手ほど大きさに敷き詰められた土には、丈の低い白い花がいっぱいに咲いていた。
「どうしたの、その花。男からの貢ぎ物?」
「その通り。ねえ、あんたの部屋に置いてくれない?」
「やだよ、姉貴がもらったもんなんだろう? 姉貴が管理しろよ」
「別に水をやってくれってるわけじゃないのよ。ほら私の部屋、余地がないじゃない」
洋服と化粧品と本が散乱した部屋の様子を思い出し、慎也は深くうなずいた。あんな部屋にこんな鉢をおいたら、次の日にでも蹴倒しているに違いない。
「だから、ベランダに置いて欲しいのよ」
「え゛ーー?」
「何か困るの?」
「いやっ、まぁ、それゃあ困るわけじゃないけどさ」
「ならいいじゃない。水はいいから。外の木だって水をやらなくても無事にそだってんだから」
そうはいっても、男からの貢ぎ物をベランダに置くのは何となく気がひける。
「捨てればいいじゃないか」
慎也などはそう思うのだが、香緒は困ったように箸をくわえたまま眉をよせた。
「そこまで、相手の気持ちを足蹴にできないのよ」
「……難しい関係だね」
首を傾げながら、慎也は温かいご飯を口に放り込んだ。
ベランダへ続くガラス戸を開け、慎也は片隅に鉢を置いた。コトリ、と静かな音をたて、鉢はまるで初めからそこにあったかのように落ちついた。
花は月に照らし出され、その小さな体を寄せ合わせるように揺れていた。
その花を見て、慎也はふとある女の人を思いだした。
今日の帰り道のことである。
灰色のスウェットを着た同い年ぐらいの彼女は、静かな夜道をむこうの方から軽やかに走ってきた。
手足をきれいに運ぶ姿にしばらく見とれていると、にわかに彼女は立ち止まり、道ばたの花をじっと見つめ始めた。黄色な小さな花を咲かした丈の長い草を、珍しそうに見つめたかと思うとまた走り出し、また止まって槐の樹を見上げる。
横顔が、遠目から見ても整っていた。月と外灯の光でまっしろになった顔立ちを見て、慎也の足が知らず止まったほどだった。
彼女が目を閉じ、くんくん、とわずかに香る樹の匂いをかいでいる。その度に、短く切った柔らかな髪がゆれる。
彼女はふたたび走り出し、目を離せずにいる慎也の横を、何事もなく通り過ぎていった。
ただそれだけ。
それだけだと言うのに、慎也の心の中に深い印象を残した。
というのも、
「あんな美人、見たことない」
ためだった。
学校ではそれなりにもてる慎也でさえ、彼女の姿は忘れがたかった。
いうなれば、飾りたてたアイドルの髪をばっさり切ってしまい、親しみやすさをつけ加えると、あんな感じになるのだろうか。
近所では見かけたことのない顔なのに、慎也は不思議な親近感を憶えていた。
小さな唇と、小さな鼻。
優しげな瞳。
「すっげぇ、かわいいよなぁ」
彼女の姿を思い出し、慎也は思わず鉢を抱きしめた。
隣部屋の窓はいつのまにか開かれ、首を出していた香緒は静かな声で呟いた。
「……慎也、何やってんの」
次の日。
慎也の帰りはいつものように遅かった。
そして密かに、ふたたび彼女に会えないだろうかと心悩ませていた。なにしろ、今までも同じ道を同じ時間に歩いていたのに、会ったのは昨日がはじめてのことなのだから。
昨日出会った場所でわざわざゆっくりと歩き、あきらめて角を曲がると、そこはもう家へと続く道となる。
牛の歩みほどの速度でねばってはみたものの、家の前についてもなお彼女の姿は見えなかった。
「やっぱり、昨日みたのは偶然か」
慎也は深くため息をついた。
そうそう上手くいくわけないよなぁ、と心の中で呟いて門の格子を開けるたとき、視界の隅で誰かが走っている姿を見つけた。
「!」
彼女だった。
まだ遠いくて小さく見えるが、軽やかな走り方、そしてときおり立ち止まる様子は、間違えようのないものだった。
だんだんと姿がはっきりし、家の前にある空き地で彼女は足を止めた。
そして、そこに生えていた草木を眺めわたす。
思っていたほど、背は高くない。
最初は自分よりも高いと思っていたが、それは顔が小さく、等身が違って見えることからくる錯覚だった。
ぼんやりと見つめていると、とつぜん彼女が振り返った。
目があい、彼女はにっこりと微笑んでくれた。
「こんばんわっ!」
「えっ、あっ、こっ……こんばんわ」
彼女はかるく会釈して、そのまま走り出した。
憶えていた。
一度しかすれ違ったことのない自分のことを、彼女は憶えていた。
ただそれだけで、慎也の頭は真っ白になった。
「どうしたの、慎也」
食事の用意をする母親は、さきほどから放心状態にある息子に声をかけたが、箸を持ったまま返事をかえす様子もなかった。
自分の夕食にせっせと箸を運ぶ香緒は、心配する母親に的確な表現で説明した。
「ほっといてやって。青春してんのよ、きっと」
次の日、いつもより帰りが遅くなり、足早にいつもの道を過ぎると、家の前の空き地に彼女が座っていた。
いつものように花でも見ているのかと思ったが、いっこうに立ち上がる気配がない。
どうしたのだろうか。しばらく悩み、慎也は意を決して近寄ってみることにした。
空き地の草はらを分け入る。その音に反応して彼女が振り返り、ふたたび目が合うと、昨日と同様に微笑んでくれた。ほっとした慎也は、どうにか軽い気持ちで声をかけることができた。
「どうしたの?」
「この子が……」
彼女の指さす方を見ると、そこには子犬の姿があった。
「持ち帰った方がいいか、悩んじゃって」
彼女はそういって、黒と白のブチ犬をなでた。まだ生まれて間もないような子犬は、くぅんと寂しげに泣いた。
「ちょっ、ちょっと待ってろ」
慎也は家へ飛び込み、台所に入ると冷蔵庫からミルクを取り出し、温めはじめた。
香緒に不審がられながら、急いで底の浅い皿にホットミルクを移しかえると、もう一度空き地へと飛び出した。
しっかり待っていてくれた彼女と子犬へ近寄り、ミルクの入った皿をそっと子犬の前におく。子犬は彼女の手を放れ、静かにミルクをなめはじめた。
「良かった」
彼女は心からほっとしたようにそう呟き、子犬を見つめた。
「本当はね、僕も犬が欲しいの」
彼女は自分のことを「僕」というらしい。一瞬、「男の子」なのかとも思ったが、すぐに否定した。近くに寄って改めて、女の子らしい体つき、顔つき、雰囲気があることを確認した。
「でも、『子供を産むのと同じぐらいの決心がついたら、引き取りなさい』って言われてるからなかなか決心がつかなくて」
子供を産むのと同じぐらい。
「それじゃあ、なかなか飼えないな」
「うん、でもその子の命を預かるんだから、やっぱりそれだけの覚悟がなくちゃね」
彼女はそういって、ミルクをなめ続ける子犬の頭を優しくなでた。子犬は少し首をすくめ、彼女の手に頬をあてるようにすり寄った。
「そうだな。前に飼っていた犬が死んだときは、さすがにもう飼いたくない、と思ったなあ」
「何犬?」
「柴犬、ごくよくいる感じで、凄く賢かった」
「うんうん」
「戦艦ヤマトが好きだったから、『ヤマト』ってつけたんだ。十二才で死んだ」
犬をなでる細い指先が止まった。
ゆっくりと顔があがり、慎也の表情をうかがうように見つめてきた。
「辛かった?」
「辛いというより、寂しかったな。あれからもう、何か飼う気にはなれなくなった」
彼女は深くうなずいて、なぐさめるように少し微笑んでくれた。
「僕の最初はね、金魚。露店ですくい上げた、大きくて真っ赤な金魚だったけど、餌のやり過ぎですぐに死んじゃった。それからしばらく、お魚が食べられなくなった」
ミルクを飲み終わり、じゃれてきた子犬を抱き上げながら、彼女は言葉を続けた。
「次はノラ犬。成犬だったけど痩せてて、食事をあげたらなついちゃったの。ほとんど居候状態になって、マラソンに一緒に連れていったりして……縁の下で冷たくなっているのを見つけたときは、ショックだった」
慎也は彼女の顔色をうかがってみた。
笑いもしない、悲しみもしない。死を耐えるような表情のない顔で、近くに生える草を見つめていた。
「今はなかなか一緒になる勇気が無くて、物を大事にしているんだ」
「たとえば?」
「うーんと……竹刀、長刀、胴着、パジャマ、スヌーピーのついたシャープ、雲の模様の入ったグラス。それにこのシューズとか」
彼女はそういって、誇らしげに使い込まれた白いマラソンシューズを見せてくれた。
物は使い込めば愛着がわき、使いきれば自然と離れる決意がつく。
沢山の「好き」な物たちに囲まれた生活をしている彼女の姿を思い、慎也はふと羨ましく思った。
「俺にはないなぁ。考えてみると」
「何も?」
「うーん。昔は、自転車がそうだったけど、今は廃車寸前で新しいのが欲しいしな」
「部屋を見渡してみると、意外にあると思うよ。大事なものが」
彼女は犬を土の上にそっと起き、立ち上がった。
姿勢がいい。
心地よい緊張感のあるたち振る舞いなのに、なぜか包んでいる雰囲気は温かかった。
「ちょっと心配だけど。大丈夫だよね、この子」
「あっ、ああ……俺も家では飼えそうにないけど、ときどきはミルクを持ってくるよ」
そんなまめな男ではないことは自他共に認めるところであるのに、彼女の前では自然にそんな言葉が口から出てきた。
口に出したあとやっぱり面倒かなと後悔したが、彼女はちょっと飛び上がって喜んで、慎也は手を握られてしまった。
「有り難うっ! 僕、いつも違うコースを走ってるから、もうここを通ることなかったんだ。この先の千石寺へ行くための通り道だったんだけど、明日から西新井の方を走る予定だったから」
「もう、ここを通らないの?」
「街全部走り終わったら、また来るつもり。ちょっと時間かかりそうだけど」
彼女はそういって笑った。
慎也は明らかに残念そうな顔をしてしまったらしい。
「あっ、でも僕、白石に住んでるし、学校も隣じゃない? 見かけたら声かけてね! 自己紹介遅れたけど、僕、神無月萌荵っていいます」
「神無月?」
「うん」
「……もしかして、あの美人三姉妹と噂の」
彼女はくすりっと笑い、
「美人かどうかは解らないけど、その三姉妹の次女。よく男の子に間違えられるけど」
それほど大きくはないこの街において、神無月三姉妹の噂は一度は聞いたことがあるものである。その中でも歳の近い次女の噂は、隣の学校といえども伝わっている。
ようやく落ちついてきた慎也の頭は、彼女のひとことで再び真っ白になりはてた。
「あなたの名前は?」
「あっ、まっ、牧野慎也」
「牧野さん、じゃあまたねっ! ちびちゃんのこと、宜しくっ!」
呆然と立ち尽くす慎也と、それにまとわりつく子犬をあとに、彼女はあの軽やかなステップで走り去ってしまった。
「……どうしたの」
台所に帰ってきた慎也だが、心はそこに存在していなかった。香緒の言葉でようやく我を取り戻し、今度はいそいで今までの事情を説明しだした。
「ふうん。つまり、『神無月三姉妹』の一人に声をかけられたわけね」
あまり感心のない香緒は、温かなコーヒーをゆっくりとすする。それでも、あまりにも慎也が興奮しているので、儀礼的な気持ちとわずかながらの興味を持って、香緒は質問してあげることにした。
「それで、噂どおり美人だった?」
「そりゃあもぉ。姉貴などとはちょっと……」
香緒の手が一閃し、机にあったハンドバックは容赦なく慎也の顔に炸裂した。
次の日の夜。同じ時間に、慎也はミルクを持って外に出た。
外は少し冷え、人肌の温かさのミルクはほんのり湯気を立てていた。
野原に足を踏み入れ、「おーい。ちび」と少し探すと、木の下の茂みに小さくくるまっているを見つけた。
ミルクの入った皿をおく。
子犬は頼りない足どりで皿まで近づくと、嬉しそうにミルクをなめ始め、安心した慎也はほっとため息をついた。
「たくさん飲めよ」
慎也は一人そう呟いた。
その時、ふと背後で足音がした。振り返ってみると、萌荵が塀の横から顔をちょこっと出していた。
「心配できちゃった」
萌荵の笑顔に、慎也の心臓は急に高鳴り始めた。
「横、行っていい?」
「そんなこと気にするなよ」
手招きをすると、萌荵は体を丸めてそそくさと、慎也の横へと入り込んできた。
子犬は一度を皿から顔を上げたが、近寄ってきたものが萌荵だと解るとまたすぐにミルクを飲み始める。子犬にとって二人は、もうすでに安心できる存在になっているらしい。
二人と子犬のあいだには、白い息のようなあたたかな空気が流れゆき、足下からくる冷気さえも今は心地よく感じた。
言葉を交わすことなく、二人はいつまでも座り込んでいた。
次の日。
慎也は寒い台所で、みるくを温めていた。
「人肌、人肌」とミルクに指をつっこみながら、子犬の様子と萌荵を思いだす。
外に出ると、寒さはいっそうこたえる。
慎也は寒さを吹き飛ばすように、野原へ駆け出した。
草葉をかき分け、木の下にたどり着くが、そこに子犬はいなかった。
「あれ?」
吐く息が白い。ミルクからの柔らかな湯気が、顔に当たる。
ミルクの皿を下におき、慎也はあたりを探し回った。
「ちびっ」
草をかき分け、そんなに広くない野原を隅から隅まで探し回る。
でもいない。
慎也は、道路に出て近くを探してまわった。
家の中を覗き、近くの他の野原を探し、公園を過ぎる。
再び戻ってきて、ミルクをなめる子犬がいないかと、かすかな期待を込めて木に近寄るが、そこには冷めてしまったミルクがあるだけだった。
慎也は、木の下に座り込んだ。
いつか、帰ってくるかも知れない。
寒かった。
静かだった。
時折、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。
星が瞬いていた。
会社帰りの香緒が、野原にうずくまる慎也の姿を見つけ、その足を止めた。
「あんた、何してんのよ」
「俺のかってだろ」
「……風邪、うつさないでよ」
香緒はそういって、さっさと家に入っていった。
知らず、慎也の顔はぶすくれた。
萌荵が来たら、何て言い訳しよう。
いや、きてくれればちょっとは気が紛れるかも知れない。
でも、子犬はどうしたのだろう。
だれかが持っていったのだろうか。
それとも、どこかに行ってしまったのだろうか。
寒さのあまり死んでしまったのだろうか。犬は死体を見られないようにすると言うし。
慎也は、取り留めもなくそんなことを考えていた。
ドアが開き、香緒が再び現れた。
いったい何をしにきたんだと思っていた慎也に、香緒は何もいわずスキーウェアーを手渡し、家に戻っていった。
「……」
慎也はありがたくウェアーに袖を通した。
三時間待って、子犬も萌荵も来なかった。
体の底から冷え切り、慎也は家に戻った。
台所では香緒がテレビを見ていた。
慎也が席に着くと、香緒は立ち上がりコンロに火をかけた。カップを出し、少し砂糖を投げ込こんで、温まったミルクを注ぐと、そのまま慎也の前においた。
びっくりして香緒を見るが、いつものように表情もなく向かいの席に着いた。
慎也はでき立てのホットミルクをひとくち飲み込み、大きなため息をついた。
「ありがとう、美味しい」
「うん」
慎也はしばらく大事そうにホットミルクをいただき、香緒はさして興味もないようにテレビを見つめ続けていた。
冬の夜は本来、こんなに静かなものなのだったのだ。慎也は辺りを見渡し、聞き耳を立てて、そう実感した。
虫の音が聞こえない。
車の音もしない。
ただ、テレビの音が静かに広がっている。
ようやく落ちついてきた慎也は、その静寂を壊さぬように呟いた。
「子犬を見つけたんだ」
香緒はゆっくりと振り向く。
「あぁ、ホットミルクを持っていた相手ね」
慎也はこくりとうなずいた。
「育てたいと思ったのに、そう思ったときには、もういなかった」
「……」
「きっともう会えない」
萌荵のことを言っているのか、子犬のことを言っているのか、わからなくなって、呟いているうちにただ何となく寂しくなった。
胸が少し痛くなって、慎也は椅子の上でうずくまった。
香緒はかすかに微笑んで、弟の頭を軽くなでると、そのまま自分の部屋へ帰っていった。
テレビは天気予報に代わり、明日は今年一番の冷え込みになるだろうと、告げていた。
やっと落ちついた慎也は部屋に戻った。
外と同じ気温の部屋を暖めるために、ストーブに火をつける。
小さな火はやがて全体にまわって、ようやく熱気と、かすかな石油の匂いを漂わせ始めた。
立ち上がり、ふと窓の外を見つめると、そこには植木があった。
香緒がくれた植木は、こんな寒い冬に、しかも水もあげずにいたというのに、しっかりと白い花を咲かしたままだった。
慎也はベランダの戸を開け、外に出た。
ようやく温まってきた体は、ふたたび冷気に触れてぶるっと震えた。
腰を下ろし植木を手に取り、顔の近くまで持ってきた。
小さな白い命はふるふると震えながら、しっかりと天の星や月を眺めていた。
「部屋を見渡してみると、意外にあると思うよ。大事なものが」
萌荵の言葉がよみがえる。
大事なものは、ある、のではなく、作っていくもの、なのかも知れない。
萌荵が誇らしげに見せてくれたシューズも、自分に置き換えてみれば、クラブに使っているバスケットシューズがあるのだから。
明日学校に着いたら、ロッカーに放り込んだシューズをもう一度磨いてみよう。
いつか、萌荵に自慢して見せられるように。
これが僕の大事なシューズなのだと。
慎也は植木を脇に抱え、部屋へ戻った。
窓際の、よく陽のあたりそうな机の上に植木をおく。
「……うん、これでいい」
何もない黒い机の上に、たたずむ植木。
大事にしてみよう。
ちびに出来なかった分。
そして慎也はドアを開け、静かな部屋をそっとあとにした。
ホットミルクは飲まないけど、きっと水が欲しいだろうから。
月夜の晩の、そんなお話。