辛未の章 二人は道連れ 世は情け
数日後、医者がベアトリスの診察にやって来た。
見舞いの時、レオポルドが「早く学院に戻るように」とベアトリスに言ったことを受けて、ヴォルフガングが当面療養から早期復学に方針を転換したためである。
復学できるかどうかは医者の判断次第とはいえ、王太子と公爵の意向が揃っている以上、これはもう結論ありきのようなものだ。
医者はごく簡単な診察を行ったのみで、あっさりベアトリスの精神状態に太鼓判を押した。
ベアトリスがホッと息をつき、見守っていた使用人たちもお祝いムードに包まれる中、ヴェラボーメ夫人だけが何か言いたげにしていたが、ヴォルフガングは意に介さなかった。
そこへ、フェルディナンドが入ってきて、ひどく照れながら全快祝いだと言ってベアトリスに小さな花束を手渡したので、その場にいた者たちはびっくり仰天したのであった。
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貴族学院への復学を明日に控えた夜、準備に余念がないベアトリスに、源太が話しかけてきた。
(姫さん。普通の暮らしに戻る前に、ひとつ聞いておきてえことがあるんだけどよ)
「なあに?ゲンチャン」
ベアトリスは手を止める。
(あの、姫さんが露台から落っこちたときのことなんだが……)
珍しく言い淀む源太に、ベアトリスは通学鞄を置き、手鏡を取り出してベッドに腰掛けた。
「どうしたの?」
(あの時手摺を超えちまったのは、ひょっとしてひょっとすると、その、なんだ………姫さん自身の考えだったってェことは………ねェよな?)
「あ………」
(いやさ、おいらが初めて姫さんを見たときには、姫さんはもう手摺を越えちまってたからよ………
あの手摺はそこまで高かァねェが、それでもうっかり越えちまうような代物でもねェ。
それで、あの時姫さんに何があったのか、ずっと気になっててな………)
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ベアトリスは源太を安心させるように手鏡の中の自分に微笑んでみせた。
「心配してくれてありがとう、ゲンチャン。
でも大丈夫、ゲンチャンが心配しているようなことじゃないわ。
確かにあの時は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったけど……
それでも、あそこで少し休んで、ホールに戻ろうとしてたところだったの」
(………それを聞いて安心したぜ。勘繰っちまって悪かったな。そんじゃ一体、何だって手摺の外に落っこちたりなんかしたんだい)
「それはね……あの時、夜空を横切る不思議な光の玉を見つけたの。それで、つい手摺から身を乗り出しちゃって……」
(…………おおっとォ、全然大丈夫じゃねェぞ!?「夜空を横切る光の玉」って、そりゃどう考えてもおいらの人魂だァ。つうことは、姫さんが落っこちたのはおいらのせいじゃねェか!)
「違うの違うの!身を乗り出したところへ、背中を何かに押されたの。それで手摺を越えちゃったのよ」
(なんでェ、そうだったのかい…………っておい!安心できるかい!
それッて言い換えりゃ、「背中を"誰か"に押された」ってことだろ?姫さん、露台から突き落とされたんじゃねェか!
畜生め、話がどんどんキナ臭くなってきやがらァ……
姫さん、何でそのことをお父っつぁんに言わないんだい?)
「あの時ゲンチャンが助けてくれたから、周りの人は私が2階のバルコニーから落ちたと思っているでしょう?
落ちてすぐは私もパニックになっていたし。
だから、今になって『本当は3階のバルコニーから突き落とされた』って言っても信じてもらえないと思ったの」
(成る程なァ、そういうことかィ………つかぬことをおうかがいするが、姫さん、そんな真似をする奴に心当たりはあるのかい?)
「分からないわ……皆が私のことを『気弱令嬢』って言って軽く見ているのは知っているけど、命を狙われるようなことまでは……
筆頭公爵家と仲が良くなかったり、利害関係にある家門は勿論いくつもあるし、私は王太子殿下の婚約者だから、何か私の知らない理由があるかもしれないけれど。
でも、今となっては、『背中を押された』っていうのも何だか私の勘違いだったような気もしてしまって、ハッキリしないの」
(ウーン、そうかァ……あのとき姫さんを害そうってェ試みがあったとしたら、それを知るのは姫さんとおいらとその不埒者だけってわけだ。
そいつは今頃さぞかし不思議がってるだろうなァ。3階から落としたはずの姫さんがピンピンしてて、しかも2階から落ちたことになってるんだからよ。
とにかく今更他の連中に話しても信じちゃ貰えなさそうなのは姫さんの言う通りだな。
まァ、あんまり案ずるこたァねェよ。姫さんにはおいらが憑いてらァ。
万一姫さんがどこかの馬の骨に狙われてたとしても、むざむざやられちまうなんてことはこの源太様が決してさせやしねェさ。
……もしかしたら、おいらが姫さんにくっついてるのは、神さんだか仏さんだかが姫さんを守るように差配したせいかも知れねェぜ?)
「ありがとうゲンチャン……何だかゲンチャンって、エドでもここでも人助けばっかりしてるのね。ちょっと申し訳ないわ」
(姫さんが謝るこっちゃねェや。
とは言ってもこれだけ善行を積んでるんだ、いよいよあの世へ行くってェ時は、立派な輿でも用意して鐘と太鼓で賑やかに迎えに来てもらわなきゃァ割に合わねェぜ。エエ神さん仏さんよゥ)
「ふふふ。私からも毎晩お祈りの時に頼んでおくわね」
僅かに不安の種を抱えながらも、公爵邸の夜は静かに更けていった。




