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庚午の章 知るも知らぬも姉上の責


 見舞客が帰ってからしばらくして、気絶していたヴェラボーメ夫人が目を覚ました。


 彼女は公爵の執務室に駆け込み、


「お嬢様が転落のショックで完全におかしくなってしまわれた。公爵家のためにも一刻も早く入院させなくては」


 と騒ぎ立てた。


 あまりの剣幕に、ヴォルフガングは腰を上げて自らベアトリスの様子を見に行ったが、ベアトリスの受け答えは全く落ち着いていたし、あの場に居合わせたメイドたちも全員全力でしらばっくれたため、結局夫人の方が「滅多なことを言うものではない」と叱られて話は終わった。


 メイドたちにしてみれば、確かにあの時のベアトリスは人が違ったようだったが、気の弱いお嬢様が怖い怖いヴェラボーメ夫人に初めて逆らったのが、自分たちメイドを庇ってのことだったのには一同感激したし、あの啖呵には正直皆胸のすく思いだった。


 なので、彼女たちはこれがたとえ転落のショックによるものだとしても、決してお嬢様が「おかしくなった」わけではないと判断した。

 そして、優しいお嬢様を病院に放り込むようなことはさせまいと一致団結し、全力でしらをきることでベアトリスを守ったのだった。



※※※※※※※



 その日の夜、ベアトリスの寝室に別の闖入者が現れた。


 その者は、足音も荒く入ってくると、ベッドの上に紙の束を放り出す。


「姉上!療養はいい加減宜しいでしょう?

 寝てばかりでなんの役にも立たない姉上に、やることを持ってきてあげましたよ」


 顎を上げて、生意気盛りの顔を紅潮させている少年はフェルディナンド・ティヤンディ。

 十四歳になるベアトリスの弟で、貴族学院の中等部に通う、公爵家の跡取り息子である。


「どうしたの?フェルディナンド。これは……?」


 当惑するベアトリスに、フェルディナンドは鼻を鳴らす。


「外国語の課題です。

 姉上が療養している間、私が自分でやらなくてはならなくて大変だったんですよ?

 ベッドで寝ているだけなら、中等部の課題くらいできるでしょう。明日までにやっておいてくださいね」


「フェルディナンド………前にも言ったけれど、課題は自分でやらないと………」


「私は忙しいんです。次期公爵としての付き合いも多い。

 友達のいないヒマな姉上とは違うんです。

 それに、姉上は生徒会でも雑事を全部引き受けておられるというではないですか。

 王太子殿下の頼みは聞けても、血を分けた弟の頼みは聞けないのですか?」


「そんなことはないけど……でも……」


「ハァ……そうやっていつもウジウジしてるから父上に叱られるんですよ。

 つべこべ言わずにサッサと取りかかってください。

 ご自分がヒマだからって、私の時間まで無駄遣いしないでいただきたい」


 こちらの話に耳をかそうともしないフェルディナンドに、ベアトリスが諦めのため息をついたところで、


(姫さん、ちょいと前に出るぜ)


 黙って成り行きを見守っていた源太が動いた。



※※※※※※※



「おうおうおうおうッ!黙って聞いてりゃァ、好き勝手言いやがって。

 そいつが人にモノを頼む態度かい?」


 突然パァッと上掛けを蹴飛ばしてベッドの上で立膝をついたベアトリスに、フェルディナンドは度肝を抜かれた。


「あっああっあっあ、姉上!?」


「おうよ。こちとらおめえの『姉』様で、『上』様でい。

 その姉上様を敬うどころか、くだらねえ言い分でてめえの手習いを押し付ける野郎が次期公爵様たァ、情けねえ話じゃねえか」


 いつもオドオドしていたはずの姉に、額をくっつける勢いで凄まれたフェルディナンドは、二の句も継げず口をパクパクさせる。


「よしねェ、(おか)に上がった金魚じゃあるめえし。

 おい、フェル公。そもそも手習いってのァ、てめえが大人になったときに困らねェためにやるもんじゃねえのかい。

 何、外国語だァ?

 おめえ今手習いをサボって、先々公爵様になってから異国の人間と話すことになったらどうすンだい。

『外国語はずっと姉様にやってもらっていたので生憎存じません』とでも言うつもりかい?」


「そっ、それは………」


「大体なァ。てめえのわからねェ言葉で書かれたもんを丸々信用してセンセーに出しちまおうって料簡が間が抜けてやがらァ。

 おめえ、姉様がこの手習いに外国語で『馬鹿は死ななきゃ治らねえ』って書いて渡したら気付けるのかよ?」


「ハ、ハハ………あ、あ、姉上が、そのようなことするわけが……」


「するかしねえか、試してみるかい?えっ?」


「うっ………」


 赤面して黙り込むフェルディナンドをベアトリスの源太は懇々と諭す。


「こういうことは、隠してたってそのうちどっかから漏れちまうもんだ。

 おめえの仲間に、手習いを姉ちゃんにやってもらってるなんてことがバレてみろい。あの年頃は遠慮ってものがねえから、あっという間に『姉上のフェル公』なんてェあだ名がついて、向こう十年はその名で呼ばれ続けるぜ?」


「!!………もっ、もういいです!姉上には頼みません!」


 フェルディナンドは弾かれたように顔を上げ、乱暴な手つきでベッドの上の課題をかき集めた。

 そのまま逃げるように部屋を出ていこうとする弟に、ベアトリスは声をかける。


「まずは自分でやってみて、わからないところがあったら持ってくるといいわ。教えてあげるから、一緒にやりましょう」


 フェルディナンドはハッと足を止めて振り返り、更に赤くなって何やら口の中でモゴモゴ呟くと、微かに頭を下げて出ていった。


(………やり過ぎたかね?)


 その後ろ姿を見送って、源太が伺うように言う。


「いいのよ。ゲンチャン、ありがとう。

 あれくらい言わないと、わかってもらえないもの。

 最近は私が言っても全然聞いてくれなくて……

 あれでも昔は『姉上、姉上』って私の後をついてくる可愛い弟だったのよ?」


 ベアトリスが微笑むと、源太もしんみりした声になった。


(何だかんだ姉上に甘えてンだよな、ありゃァ。

 おいらの弟も生きてりゃあれくれェの年頃だったと思ったら、ついつい兄貴風を吹かせちまった)


「ゲンチャン………」


(あと、おいら読み書き算盤は「よ組」の兄貴分たちから教わったクチなんだが、そん時散々怒鳴られたり小突かれたりした八つ当たりも少々……)


「ふふふふっ」


 二人が笑っていると、暫くしてドアに遠慮がちなノックの音が響き、先程とは打って変わってしょんぼりした様子のフェルディナンドがやりかけの課題を抱えて顔をのぞかせた。


 ベアトリスは笑顔で彼を手招きし、姉弟は数年ぶりに仲良く額を突き合わせて課題に取り組んだのだった。



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