チャプター3 修行の日々
昨日は結局座学だけだった。
「今日から実践的なことを教える。」と祖母は言っていた。
そして今、時刻は午前9時。
京子は、庭に面した池の前の縁側で、座布団に座って待っている。
まわりをぐるりと塀に囲まれた武家屋敷は、プライバシーが守られるから、こういう時に便利である。
池には鯉が10匹ほど泳いでいた。
小春日和の晴天のもと、ぼんやりしていると、つい目的を忘れそうになる。
と、そこへ勝手口の方から祖母がやって来た。
今日は白い留め袖を着て、黒い帯を締めている。
手にはバケツと柄杓。彼女は、そのまま池と京子の間で立ち止まった。
何が始まるのか、なんとなく検討はついた。
「お待たせしたわね、京子さん。」
「いえいえ、お願いいたします。」
「では、早速、実践にうつります。」
「昨日教えたように、大切なのは感情のコントロールです。」
「そのためには、普段から、何事にも動じない強い精神力、集中力が必要です。」
「それを身につけるには、座禅を組んだりして瞑想するのが一番ですが、
もっと簡単な方法があります。」
「それは何ですか?」
「目を閉じて、心の中で、静かな水面の様子を思い浮かべなさい。」
京子は、その場で素直にやってみる。意外と簡単そうだ。
「それが、明鏡止水と言うものです。」
不思議な響きの祖母の声がする。
「では、亡くなった愛犬のことを思い出してみなさい。」
とたんに悲しくて心がザワザワし始めた。
「目を開けなさい!」
そう言うと同時に、祖母がいきなり柄杓で京子に向かって水をかけてきた。
はたして京子の目の前で、円状に散らばる水滴が、一瞬で氷の粒になり、その場にボタボタと落ちて行った。
「できましたね。」と祖母。
「今の経験をもとに、後はひたすら基礎練習です。」
「私たちは、主に怒りや悲しみなどの、負の感情の時にチカラを発揮しやすいのです。でも慣れてくれば、目を閉じなくても心は整えられるし、悲しい気持ちを思い出さなくてもチカラを発現できるようになります。」
「なにより大事なのは、日常生活でいかにフラットな精神状態を保ち続けていられるか…もちろん、寝ている時もです。そうしないと、うっかり変な夢を見たら、部屋中凍らせかねません。」
おばあ様ったら、何気に恐ろしいことをサラっと言うんだから。
でも、それに関しては、京子自身薄々気にしていたことだったのも事実である。
京子はその後、昼食を挟んでほぼ丸一日、水を凍らせる反復練習を繰り返したのだった。
コレが1974年1月2日のことである。