第三十一夜 青の言伝て
「あんたが、俺と母さんを殺したんだ」
"紅蓮"は驚き、そして恐怖を感じた。今まで一度も経験したこともないような、漠然とした恐怖を、目の前にいる"青の少年"に対して感じていたのだ。
幸也は、中性的な顔立ちの少年だった。柔らかそうな茶色の短髪に、同じく茶色の澄んだ瞳。肌は世の女性たちが羨むような白さで、しかし病的な白さではなく、仄かに頬には朱がさしていた。
そんな幸也を見て、"紅蓮"はいつもこう思っていた。"あいつに似ている"と。幸也の容姿は、かつての憎たらしい同級生を思い出させるには充分な要素だったのだ。
しかしそんな幸也は、今ではほぼ別人と化していた。あの茶色だった髪と瞳は、深い海の底を思わせるような青色になっていたからだ。その青い瞳は、真っ直ぐに"紅蓮"を睨みつけ、逸らすことはなかった。
「――幸也……何馬鹿なことを言ってるんだ? いくらなんでも怒るぞ?」
「怒りたければ怒ればいい。どうせお前は今度こそ俺を殺すつもりなんだろ? あの時みたいに」
「……」
いつの間にか、"あんた"から"お前"になっている。失礼な奴だ、と"紅蓮"は思った。
だが、まだここで怒るわけにはいかなかった。なんとかこの少年を宥めて信頼を得なければならない――"紅蓮"の考えはまとまった。
「……幸也、何でお前は俺が瑞季を殺した犯人だと思うんだ? その理由を聞かせてくれよ」
"紅蓮"は努めて冷静に、穏やかな声色で聞いた。相手は高校生とは言えまだ子供。熱くならなければ言いくるめることは出来る――そう思いながら、"紅蓮"は薄い笑みを浮かべながら、幸也の返答を待った。
すると、思ってもみなかった答えが返ってきた。
「わらび餅」
「……はあ?」
「わらび餅、持って来ただろ」
――だから何だって言うんだ? "紅蓮"は幸也の考えが全く読めずに顔をしかめた。それに対し、幸也の表情は全く変わらない。
「本当は、お前がわらび餅を土産に持って来た時から疑ってた。でも、確証が得られなかった。だからしばらくは様子を見ていた」
「……どういう意味だ?」
幸也は深い溜め息をついて、突然立ち上がった。何をするのかと思えば、驚く"紅蓮"を無視して台所に向かった。幸也の目的は、ガスコンロの脇にぞんざいに置かれたわらび餅のパックだった。それは先程、"紅蓮"がお土産と言って持参したものであったが、そのまま放置されていたのであった。
幸也はそれを手に取り、居間に戻ると、"紅蓮"の眼前に突き出した。
「これはいらない。返す」
「何言って……お前が食べなくても、瑞季の好物だったんだから、お供え物として……」
そう言いながら、"紅蓮"はチラリと横目で瑞季の遺影を見た。しかし、幸也の表情は冷えきっていた。パックを突き出したままの状態で、幸也は冷たくこう言い捨てた。
「母さんは、わらび餅なんて好きじゃねえんだよ」
「……っ!? そんなはずない! 確かに昔、本人から聞いたはずだ……!」
明らかに狼狽した様子の"紅蓮"に、幸也は一気に畳み掛けた。
「わらび餅が好きだったのは母さんじゃない。本当の俺の父親――"紅蓮"だ。お前だって、それぐらいのことなら知ってるだろ? "紅蓮の親友"だったお前なら、知ってたはずだ」
「……っ!!」
それを聞いた"紅蓮"の顔は真っ青になってしまっていた。
「もちろん、たったのそれだけで疑ったわけじゃない。俺はお前と、本物の"紅蓮"の顔を知っているし、母さん本人からお前の話も聞いてた――どんな話か聞きたいか?」
「……」
"紅蓮"は答えなかった。幸也は構わず続けた。
「母さんが"お前ら"のことを話してくれたのは、お前に殺される二日前のことだ――」
***
「――私が"彼"と付き合う少し前まで、あたし、ある男に惚れられてたの」
「……」
幸也は黙ったまま、視線は手元の写真に、耳は瑞季の話に集中させていた。
「その男はね、"彼″の親友だったんだけど、どうしてもあたしは好きにはなれなかった。だから、どれだけ言い寄られてもあたしは応えなかったの。
――ああ、そういえば、こういうこともあったわ。何か好きなものはないかってしつこく聞いてくるものだから、あたしね、"わらび餅を持ってきて"って言ったのよ。そしたらあいつ、本当に持って来たの。わらび餅が本当に好きなのは、"彼"の方なのにね!」
瑞季はさも面白そうに笑った。それを聞いた幸也は、母の言うその男に対して同情した。
「そのうち、あたしは"彼"と付き合い始めたんだけど、あいつ、あたしだけでなく"彼"の方も憎みだしてね……よく言い争いになってたの。俗に言う三角関係ってやつね――でも、"彼"は全然怒ってなんかなかったわ。いつもいつも、あいつを憐れむように見てるだけ。全然相手になんかしてなかった」
幸也はその光景を想像した。若い男二人で一人の女を奪い合う様子――しかし、一方の男は因縁をつけてくる親友のことなど、全く気にも留めていない――いや、そうではないだろう。きっと、自分の父親の方は、悲しんでいたのだ。愛する女性と仲の良かった親友――どちらを優先すべきかを悩んだに違いない。
「それから数年後、"彼"はあたしの前から姿を消した……。なんだか今になって考えてみたら、"彼"はあたしを捨てたって言うより、逃げ出しちゃったみたい。あたしからも、あの男からも……」
「……」
そこまで言い終わると、瑞季は酒をぐいと一気飲みした。目尻には涙が溜まっていた。
「……母さん、その男って、どんな奴だったんだ?」
それまで黙って聞いていた幸也が、ようやく声を発した。酒を煽る母親を諌めるように睨みながら、彼は返事を待った。
「……あんたも知ってる男よ。ほら、最近、うちの周りをうろちょろしてる妙な男、いるでしょ?」
「あいつが?」
幸也は驚きの声をあげた。確かに、ここ最近は妙な男を目にすることが多かった。全身真っ黒にして顔を隠した不審人物である。幸也自身もその男を目にすることが多く、自分を観察するかのようにじろじろと見つめてくるその視線に辟易していたところだった。
「あれって、ストーカーなんじゃないのか? 警察とかに言った方がいいんじゃ……?」
「無駄よ。直接的な被害はないし、ただ見られてるだけじゃ相手にしてもらえないわよ」
「……」
思ってもいなかった正論に、幸也は黙りこんだ。
「あたしよりも、あんたの方が危ないんじゃないかしら。命が惜しかったら、用心しときなさいよ」
「……何でだ? 狙われてるのは母さんの方じゃないのか?」
幸也の疑問に、瑞季の濁った瞳が妖しく光った。
「前にも何度か言ったわよね。"あんたは彼に似てる"って。高校生になって、ますますあんたは"彼"に似てきたわ。だから、あいつの恨みがあんたにいかないとも限らないでしょ?」
「……」
瑞季のもっともな意見に、幸也は頷くことしかできなかった。
「……まあ、"もしも"の時はちゃんと手をうつから、そんなに恐がらなくてもいいわよ?」
からかうような口調でそう言った瑞季には、不思議なほどの自信が窺えた。それに対し幸也は首を傾げながらも、瑞季が散らかした物を片付ける手を止めはしなかった。台拭きでちゃぶ台を拭きながら、幸也は最後にこう尋ねた。
「それで、そのストーカー男の名は何ていうんだ?」
***
「――立石雅人」
「……っ」
「それがお前の本名だ」
"紅蓮"――否、立石雅人は驚きの声をあげることすらしなかった。ただ、無表情のまま淡々と話す幸也を、明らかな殺気を持って睨んでいるだけだった。そんな雅人に、幸也は容赦ない言葉を浴びせる。
「お前は大嘘つきだ。母さんがお前を全く相手にしなかったのも納得できる。おまけに、かつての"親友"のふりをして訪ねて来るなんて、普通じゃないな」
「……」
「――ああ、そうだ。もう一つ、言い忘れてることがあったんだった。"あいつ"から、言伝てを預かってる」
幸也はそう言って、その場に立ち上がった。そして、恐ろしく冷たい笑みを浮かべた。
『"俺はお前の後ろにいる"』
「……っ!!」
幸也と、"誰か"の声が重なった。
雅人は目を見開き、勢いよく後ろを振り返った。そして視界に飛び込んできたのは、"赤と黒"。
「――よお、久しぶりだな、雅人」
燃え盛るような真紅の長髪。同じく赤い瞳。恐ろしく整った顔に笑みを浮かべてはいるが、その瞳は全く笑っていない。
真っ黒なコートを着たその男は、静かに雅人の右肩に手を置いた。そして――
「地獄に行く準備は出来たか?」
炎が、揺らめいた。