第二十九夜 囁く悪魔
「お前を狙って、扉に張り付いていやがるんだよ」
その言葉を聞いた途端、幸也は玄関に向かって走り出した。そしてその玄関先に躍り出ると、何の躊躇いもなく扉を開けた。
しかしそんな幸也の視界に飛び込んできたのは、微かに降り続ける雪と、点々と見える心もとない光を宿すだけの暗闇だけだった。
「――誰も、いない……?」
内心ほっとしながら――しかし警戒心は依然として残っているまま、幸也は小さく呟いた。その後ろには、穏やかでない表情を浮かべたままの紅蓮がいた。
「幸也、危ないし、寒いだろうから早く扉を閉めるんだ」
セーター一枚という薄着の幸也に、紅蓮は優しく諭すように言った。しかしながら、幸也にはその言葉に引っ掛かりを覚えた。
「……"寒い"って言うのは分かるけど、"危ない"って言うのはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ」
開け放たれたままの扉は、冷たい風に煽られて、小さくカタカタと音をたてた。その風はようやく幸也に寒さを思い出させた。
「……寒い」
「だから言っただろう。ほら、早く扉を――」
言いかけた途端、紅蓮はドアノブを掴んだまま硬直した。そんな紅蓮を不審に思い、幸也は軽く背伸びして見たが、それは紅蓮の腕で制された。
「おい、あんた、どうしたんだよ」
「……いや、何でもない。気にするな」
紅蓮は硬い表情のまま言った。そしてすぐに扉を閉めると、未だに扉を見つめ続ける幸也の背中を軽く押した。
「話を続けるぞ」
「……分かった」
この時の紅蓮は、誰の目から見ても奇妙に見えた。そしてつい先程、ほんの少しだが解れた警戒心は、幸也の心の内に再び芽生えつつあった。
「――幸也、お前の母さんが殺された時のことを、分かる範囲でいいから話してくれないか?」
「……」
再びちゃぶ台の前に腰を下ろした紅蓮は、訝んでいる幸也に、穏やかな声で言った。しかし幸也は、そんな紅蓮に何も答えなかった。ただ紅蓮を立ったまま見下ろし、改めて品定めするかのように観察するだけだった。
そんな幸也に痺れを切らしたのか、一転して、紅蓮は苛立った表情を見せた。
「――幸也、何で何も言わないんだ?」
「……」
幸也はやはり、無言のままだ。
「……いい加減に何か言ったらどうなんだ?」
「……」
紅蓮は最早、あからさまに苛立った様子を隠そうともしなかった。そんな紅蓮を幸也は、冷ややかな目で見つめ続ける。
しかしとうとう、幸也は静かに口を開いた。
「――母さんはな、ストーカーに殺されたんだ」
「……」
今度は紅蓮が黙る番だった。ただ黙ったまま、幸也の静かな語りに聞き入った。
「二週間ぐらい前のことだったよ。母さんはホステスだったから、帰りはもの凄く遅くてさ、ほとんど朝帰りって言ってもいい時間だった。だから俺はあの日、母さんを迎えに行こうとしたんだ」
幸也の目は沈みきっていた。どんよりとした深い"青色"の瞳に、紅蓮は魅せられたかのようでもあった。
「……でも、実際はその必要は無かったんだ。母さんは、とっくに家の前まで帰って来ていたんだから。でも――」
幸也はようやく、事件の核心へと迫った。
「母さんは、とっくに殺されてた。真っ黒なダッフルコートを着て、真っ黒なニット帽とサングラス、マスクまでした怪しい男に。そいつは右手に包丁を持ってて、血まみれだった」
紅蓮は息を呑んだ。それは幸也が語ることに驚いているのか、それとも"怯えている"のか、幸也判断がつかなかった。
「そいつ、驚いて声も出せない俺に気づいて……近付いてきた。そして――」
俯きがちだった幸也は、ここでようやく顔を上げ、紅蓮を睨み付けた。そして、こう言い放った。
「俺は、"あんたに"殺されたんだよ」




