第十夜 絶望と希望
「……えっ」
穂香は声にならない悲鳴をあげ、足をもつれさせながらも這うようにして雪夜の元に逃げ込んだ。
雪夜は穂香を庇うように背に隠しながら、目の前で這いつくばっている血まみれの少女を睨んだ。
その少女の顔は見えない。真っ黒の長い髪で顔を覆い隠しており、まるで髪だけが動いているかのように不気味だった。髪の分け目から微かに見えた口元は、ニヤリと効果音がつきそうなぐらいに笑っていた。
よく見ると、右手には真っ赤に塗れた庖丁を持っていた。
「……どういうことだ、こいつは……」
雪夜は苦々しげにそう呟くと、立ち上がって自分たちに向かって来る少女に右手をかざした。
すると、辺りの温度が一気に低下した。
「っ!? 雪夜くん……!?」
「心配するな」
恐怖と驚きで震えている穂香に向かって、雪夜はぶっきらぼうに、しかし自信に満ちた声色でそう言った。
雪夜と穂香の周りには、まるで守ろうとしているかのように冷気が漂っていた。穂香は寒さのあまり、ぎゅっと目を閉じて自身を抱き締めた。
「……っやべえな……、とりあえず……」
「?」
「逃げるぞ!!」
突然雪夜はそう言うと、穂香の左腕を乱暴に掴み、走って階段を上りだした。
その時には、いつの間にか冷気は消えていた。
「ゆ、雪夜くんっ」
「"アレ"は俺の専門外だ!!」
雪夜はそれだけ言ってひたすら廊下を疾走した。穂香はそれについて行くだけで精一杯だった。
この時、二人はまだ気づいていなかった。この校舎にもう"二つ"の不穏な影が潜んでいることに――
***
「――ふぅ……。追ってきてはいないみたいだな」
「はぁ、はぁ……、どう、いうこと……?」
穂香は荒い息をなんとか整えながらそう聞いた。雪夜は壁に背を預けて溜め息をついた。
「何がだ?」
「あの……女の子……」
穂香は雪夜の隣に座り込みながら、震える声でそう言った。すると雪夜は辺りを注意深く警戒しながらも答えた。
「"アレ"があんたの親友を殺した犯人だと見て間違いないだろうな。俺の首を賭けてもいい」
「そんな……。あんなの、どうやって捕まえればいいの……?」
穂香は絶望に満ちた表情でそう呟いた。
「まあ落ち着け。残念だが、俺じゃ"アレ"はどうにもできない。……だが、"アレ"をどうにかできる奴を俺は知ってる」
「……それってもしかして、さっき言ってた悪友?」
「よくわかったな。いい勘してるじゃねえか」
雪夜はそう言って笑った。
「とりあえず、ここから脱出するぞ。ここは妙に電波が悪い。外に出なければ連絡もとれやしない」
雪夜の言う通りであった。
実はあの"少女"から逃げてきた後、穂香は外部と連絡をとろうと携帯電話を使おうとしていた。が、なぜか電波が異常に悪く、電話どころかメールすらもできない状況だった。
当然、雪夜の携帯も同じだった。
「どうして繋がらないんだろ……」
「さあな。何か強い力で電波が阻害されてるって感じだが……。とにかく、一階に下りるぞ。"アレ"に見つからないうちに……ぐっ!!」
「えっ?」
立ち上がり、歩きだそうとした雪夜が突然、苦しげな声を発した。穂香はわけが分からず、雪夜の前方をよく見ようと目を凝らした。
「……え、あ、あああ……っ!」
穂香は、雪夜の体にもたれかかるようにしている"何か"の黒い影に気づくと、悲鳴にならない声をあげて床に尻餅をついた。
雪夜の表情は見えなかった。ただ、脱力したように腕をぶら下げ、その黒い影に垂れかかった。
よく見ると、雪夜の腹から赤くどろりとした液体がボタボタと落ちていた。
――血だ……!
穂香はそう察すると、恐怖のあまり瞳に涙をため、震えながら懸命に後ずさった。なんとか距離をおこうとしての行動だった。
しかし、その黒い影は穂香に見向きもしなかった。力を失った雪夜をその場に押し倒し、馬乗りになって右手を振り上げた。
その手には、雪夜の血で塗れた庖丁が握られていた。
「や、やめてえええ!!」
穂香はとっさに悲痛な叫びをあげた。が、その叫びはその黒い影には届かなかった。
その黒い影は、迷わず庖丁を雪夜の腹に振り下ろし、滅多刺しにした。
何度も何度も、それが繰り返された。雪夜の周りには、血の海が広がった。
『ひゃひゃひゃひゃひゃ』
その黒い影は、不気味な笑い声をあげていた。
「……っ!!」
穂香は声を出すことができなかった。ただただ、雪夜が無惨な姿にされるのを、唇を噛み締めながら見ていた。
――やがて、穂香にとっては永遠とも感じられる時間は終わりを告げた。
その黒い影はやっと満足したのか、動きを止めた。そして、深々と刺していた庖丁をゆっくりと抜き――
穂香をじっと見つめた。
「……ひっ!! い、いや、来ないで!!」
穂香はいやいやと首を振りながら後ずさったが、すぐに壁にぶつかり、逃げ場を失ってしまった。
そうこうしている間にも、その黒い影はゆっくりと、じわじわと距離を縮めてくる。それは真っ黒なコートで全身を包み、フードを被っていて顔は見えなかった。しかし、そのフードの下には、不気味な微笑みが浮かんでいるようだった。
その影は穂香の目の前に立つと、再び庖丁を振り上げた。
――もうだめだ……!
穂香は覚悟を決め、固く目を閉じた。
が、いつまで経っても、想像していたような痛みはやってこなかった。
「……?」
不思議に思った穂香は、恐る恐る目を開け、顔を上げた。そこにいたのは――
「――何やってんだてめえ」
燃えるような赤を宿した青年だった――




