EP1 引退の香り
真っ黒な雲が空を覆った三日月の夜、薄暗い街頭はすべてを照らさない。
時折雲の隙間から三日月が顔を出し、王都の一部を照らしていた。
王国中の人々が寝静まった深夜、人気の無い倉庫街を走る男がいる。
「はぁ、はぁ、はぁ。。。 誰か! 誰でもいい。 誰かいないのか!?」
男の声が虚しく倉庫の壁に反響するが、動く人影は無い。
彼は逃げ場を探してただ走る。右肩は刃物の傷が深く、右腕の感覚はとうに無くなっていた。
滴る血を止める術もなく、左手で抑えるしかなかった。
コツ、コツ、コツ、と誰かが近づいて来る音が、彼を恐怖のどん底に突き落とした。
「あいつはヤバい。 逃げなきゃ間違いなく殺される。」
生きようとする本能からか、独りでに出た言葉が体を動かした。
通りから逸れて路地裏の方へと逃げ込む。
迫りくる脅威に対して振り返ったが、そこには薄暗く照らされた石畳しかない。
助かった。そう思い、安堵の息を漏らした。
このまま暗闇でやり過ごせれば生き残る道が見える。
「困ったもんだ。手間掛けさせやがって。」
路地の方から優雅に1人の男が近づいて来る。コツ、コツ、と革靴の音を響かせながら。
「す、少し待て。 話し合えば分かる! あんたは{仕立屋}だろ? こ、今回の事は見なかった事にする! だから命だけは助けてくれ! この通りだ!!。」
彼は血に染まった腕を庇いながらも額を地面に擦り付けた。
「チッ。 見られたことが問題なんだ。」
革靴の男は歩みを止めない。2人の距離は次第に近づいて行く。
その刹那、雲間から差した淡い月光が男の顔を照らした。
「まさかっ! あんたがクリーナーだったのガっ!、ボォ。。。」
彼は言葉を言い終わらない内に、喉を掻き切られた。
苦悶の表情を浮かべ、左手で喉からあふれ出る血を止めようとする。バサリと力なく倒れた後に、動かなくなった瞳からは、一筋の涙が頬を伝っていた。
「噂が立ってるとはな。 俺も、もう引退か。」
革靴の男は道具をしまった後、動かなくなった男を見下ろしていた。
ーー
ーーイリシア王国ーー
長い騒乱期を終えた王国は名君と評された国王の元に、栄華を築こうと国中が活気に満ちている。
頻繁に行き来する馬車。街行く人々からは盛況なる音が響いていた。
1人の男が小さな酒場のカウンターで葡萄酒用のグラスを磨いている。
店内に客はおらず、グラスを磨く音だけが響いていた。
この男の名はアルベート。32歳の独身でこの酒場の店主をやっている。
40歳以上に見える老け顔にもかかわらず、グラスを磨く動作には一切の無駄が無い。
見た目からは想像もできないほど引き締まった体は、華麗な所作を可能にしていた。
グラスに汚れが残っていないかを念入りに確認した後に、決まった棚にグラスをしまう。異様なまでの完璧主義者だ。
カランカラン。キリン。と2種類の音色の違う鐘が音を立てて、酒場の扉が開いた。
「おお、やっとるか? アル。いつものやつを頼む。」
「やあグレボ爺さん。せっかくのいい酒を、一気に飲み過ぎるなよ。」
一言挨拶を掛けてアルベートはビールを作る。優雅な動きだが隙は無い。
このビールはただのビールではなく、かつて王国内を渡り歩いて探し、さらに厳選した麦しか使わない特製のブレンドビールだ。
グレボ爺さんにジョッキを渡すと、奪い取るかのように口いっぱいにビールを飲んだ。
「ブヘェ~。 やっぱりアルのビールが一番じゃな。長い事ここらに通っとるが、ここより美味いビールをワシは知らん。ガハハハハ!」
泡の口髭をつけた爺さんが豪快に笑っている。
「そう言ってくれて何より。それならもうちょっと金を置いて行ってくれてもいいんじゃないか?。」
「そう焦るでないわ。この酒の価値も分からんやつから取ればええじゃろうて。」
爺さんはあっという間にビール1杯を呑み切ってしまった。
彼は流れるような動作で2杯目のビールと、それに合うつまみを作った。
「アル! おかわりじゃ、急がんでもええぞ。」
その一声で手際よく動く。その動作をグレボ爺さんはにこやかに見守っていた。
「出来たよ。今日のつまみは特製なんだ、ゆっくり味わってくれ。」
彼はジョッキと皿を差し出した。
グレボ爺さんは、出されたつまみを持つと、香りを楽しんでから口へ放り込む。
「っ!! これは…… 流石じゃの~。 お前さんの腕なら大通りでも店を構えられるだろうに。」
「なぜこんなしけた裏路地に店を構えておるのか、見当もつかんわい。」
「まあそう言うなよ。俺は好きでここで店をやってるんだ。酒の味が分かる人が来てくれれば、俺はそれでいいのさ。」
「そうか、そうか。そういう人生もいいもんじゃの。」
「ワシは最初の2杯だけは、ここで飲むと決めておる。 酔った後じゃと酒の味なんてみんな同じじゃ。ガハハハハ。」
爺さんは全て平らげた後、銅貨6枚を置いて席を立った。
「ありがとう。明日も待ってるよ。」
アルベートはグレボ爺さんを見送った。
あの爺さんは10年ほど前に、この店を構えてすぐ位からの常連だ。
毎日決まった時間に2杯だけ飲みに来て、日が傾いた王都に消えていく。
彼は慣れた手つきで使い終わった食器を片付けていく。
ジョッキと皿を洗い、綺麗に拭き取ってから棚に戻す。
出入り口の異なる鐘が鳴った。
「いらっしゃい。」
アルベートは一言声を掛けてから客の身なりを一瞬で確認した。
靴は高級な革靴で豪華に作られており、汚れ一つ無くピカピカと輝いている。
着ている服は派手さを強調しており、上質な生地を惜しげもなく使い、ほつれは無い。
鋭い眼光に整った頭髪、少し疲れの見える風貌をしている顔。特徴的な目は真っすぐこちらを見ていた。
明らかに上級貴族の出で立ちをしている。
男は物珍しそうに店内を見まわした。
「ここが{黄昏の分銅}という店で間違いないか?。」
「はい。そうですが。」
男は安堵した息を漏らすと、カウンター席に腰掛けた。
「ビールを1杯。よく振ってくれ。」
アルベートは表情を変えずに言う。
「重さはいかがしますか?」
一瞬、息の詰まるような空気が場を包む。
「一番重いので頼むよ。」
男は小袋から金貨3枚を取り出して、カウンターテーブルに置いた。
彼は金貨3枚を確かめると、音が鳴らないようにポケットにしまった。
「黄昏時にもう一度ここへお越しください。」
男は小さく頷くと店を後にした。
ーー
イリシア王国の一般騎士の月給が金貨2枚と銀貨3枚という決まりである。
銅貨100枚で銀貨1枚。 銀貨が10枚で金貨1枚が相場だった。
ーー
黄昏時の少し前。店の扉には{本日貸切}の文字を書いた看板が吊るされている。
貴族の男は送迎された馬車から少し歩いて、辺りに人影がないかを確認していた。
指定された時間に再びこの店に来た。尾行の気配は無い。
さも当然かのように振舞って店に足を踏み入れた。
異なる鐘の音色を響かせて店の扉が開く。
「いらっしゃい。」
アルベートの表情は変わらない。
男は昼過ぎに来た時と同じ席に腰を掛けた。
アルベートは1杯の葡萄酒を用意していた。モルレールの13年物。
ただし、注ぎ方が普通と違った。度数の高いリキュールに火をつけて葡萄酒を炙る。
冷めきらない内に磨き上げられたグラスへと注ぎ、一度振ってから香りを立たせて差し出した。
男は驚きを隠せない表情をしている。
「信じられない。どうしてそれを……。」
アルベートは意に介さない。
「今日はどういったご用件ですか?。」
男は出された葡萄酒を嗜みながら静かに話し始めた。
「私の名前はロズワール・ピエル侯爵。 兄はアルシュタイン・ピエル公爵だ。 この国の誰もが知る4大貴族の内の1人。 この名を聞いたことくらいはあるだろ? 」
彼は静かに静かにうなずいた。
何か言い出すのを躊躇っている様子を呈しながら、ロズワールは口を開いた。
「あ、兄を……除いてはくれまいか?」
一時の静寂が場を包む。
「除く、か。」
「では本質を話しましょう。 あなたは領主になりたい。 違いますか?」
ロズワールは目を見開いた。会って間もないこの男に本意を見抜かれたからだ。
驚きの表情を隠すことは出来なかった。
「そ、その通りだ。 私はピエル領の領主になりたい。」
額から一筋の汗が滴る。
「あなたを領主にする。手段は問わない。これでいかがでしょう?。」
アルベートの表情は変わらない。
「兄を殺すのか?。」
「殺しは好きではありません。出来る方法を模索する。ですが、必要とあらば障害は除きます。」「期間は2か月以内、報酬は金貨100枚。前金で50枚、完了後に50枚。これでいかがでしょう?。」
ロズワールはゆっくり頷いた。
そして震える手で葡萄酒を飲み干す。
彼は酒場を後にした。得体の知れない不気味さを背中に感じながら。
ーー
アルベート・レムゼルム。
王都の端にある人気のない裏路地で小さな酒場を営んでいる店主。店の名は{黄昏の分銅}。
彼には裏の顔があった。
闇を生業とする者達から{仕立屋}または{クリーナー}とも呼ばれていた。




