エピローグ
「お疲れ様でした、名幸さん。試験の出来はどうでしたか?」
保健室で湊を見守っていた雅ちゃんが、湊を起こさないように、小声で話しかけてきた。
「うん……やれることはやったけど、あとは運任せかな? 本試験があんなに難しいとは思わなかった」
「そう……ですか。でも、本当にお疲れ様でした」
「笑ってそう言えればいいんだけどね」
雅ちゃんは、かぶりを振ると、柔らかで包み込むかのような笑顔を見せた。
「結果がどうあれ、今までの名幸さんの努力は、決して無駄ではなかったと思います。精一杯頑張ってくれたみたいで、私も嬉しいです」
「ありがとう。雅ちゃんは優しいな。どっかの湊さんに見習って欲しいよ」
「また、そんなこと言って。湊さんの体調に気づいて、一番心配してたのは名幸さんじゃないですか」
少し寂しげに、ただ、温かいぬくもりの感じる声で、雅ちゃんは言った。
それから俺たちは、ベッドに横たわっている湊が自然と目が開くまでしばし待ち続けた。
しばらくして、ふと覚醒した湊に、俺は弱々しい笑顔を見せ、
「おはよう」
と声をかけた。
「ん……」
まどろみの中で返事をする、湊に、俺は憔悴した顔を見せないように努めながら、
「終わったよ……」
とだけ呟いた。
湊は二三度目を瞬いてから、
「そう……手応えはあった?」
「あとは運だけだな」
俺は、苦い表情で答えた。
実際、試験の出来はお世辞にも良いとは言えない……というより、ほとんど絶望的だった。今までやってきた模擬試験が、いかに簡単に作られているのかを思い知らされた感じだ。
「そう……」
湊はベッドから起き上がると、
「もう大丈夫。帰ったらまた寝るから、とにかく帰りましょう」
試験が終わったばかりの俺に労りの言葉もかけずにベッドから降りた。
「大丈夫ですか、湊さん」
雅ちゃんが、少しふらついているのを支えようとするが、湊は軽く手で押さえて、自分の足でしっかりと立った。
「今日の夜には、資格学校のインターネットの解答速報があるはずだから、出来の云々は、それを見てから心配すればいいわ。とにもかくにも、ひと段落着いたわね」
「ああ……というか、全然自信がないんだがな」
「私の教え方は完璧だから、安心していいわよ。どれほどの時間を勉強に費やしてきたと思ってるの? 少しは自信を持ちなさい」
ややフラフラながら、びしぃっと指を俺の眼前に突き立ててみせる。
「そうですよ、名幸さんなら、絶対受かってます! 自信を持ってください!」
俺は、「どうだかな……」とひとつ呟きそうになった言葉を飲み込んで、
「おう、ありがとう」
と、わざとらしい笑顔を作ってみせた。
***
行政書士試験は、11月2週の日曜日に行われ、次年度の1月5週まで、結果を待たされる。
余裕で合格な人は安泰だが、それ以外、例えば俺のように、5肢択1式で160点しかとっていない場合、あとは採点がブラックボックスの『記述式』の点数が良いことを祈るしかない。
あと20点、あと20点あれば合格。
しかし、その点数の基準も、当然何点になるかもわからない。
大問3問で60点だから、部分点だけでも着実にとっていけば、合格ラインには乗れる。
しかし、その記述式に不安要素がある。今回は法律の意義問題を聞いてきたので、1問はボロボロ。残りそれぞれ20点満点中の2問、つまり40点の部分点で、20点以上取らなければならない。
資格学校によって、採点の違いはあれど、俺は合格ために必要な180点のボーダーラインに立っていることだけはわかった。
とにかく発表日が遅いので落ち着かない。いつまで待たせるんだ?
そんな気持ちで、ゴロゴロとベッドの上でのたうち回る始末。
そういえば、最近3人で集まること、少なくなったな。
名目はあくまで「俺の受験」のためだったから、もう集まる必要はないのだ。
湊は湊で、雅ちゃんの家に呼ばれることが多くなったみたいだし。もう友達のフェイクは必要ないのかもしれない。
「あああ、落ちたかな、受かったかな?」
そう何百回になるかわからない呟きを口にする。
精神病ニート引き籠もりの立場に逆戻りしてしまった。
いや、今までが、充実しすぎていたのだ。
何のかんの言って、二人の美少女に囲まれ、目標もある充実した日々。
それが、一気に取り払われた。
――外界からの遮断。世界には、俺一人しかいないのではないだろうかという妄想に入らないように支えているのは、合否のわからない受験票だけ。
とにかく、今の俺の仕事は、待つことだけだった。
***
そして、待ちに待ったインターネットを使った合格発表の日。
合格者の受験番号が、午前9時に配信される。
ええと、25025……25025……
必死になって自分の受験番号を探す。
――そうして。
「は……はは……」
俺は力ない声で、乾いた笑い声を漏らした。
***
湊がやって来る。
インターホンもノックもせずに、ずかずかと入ってきた。
湊も、俺の合否を気にしていたのだろう。
顔を見合わせるなり、湊はズバリと聞いてきた。
「どうだった?」
期待と不安が入り混じり、なにか切迫したような、息を飲むような疑問だった。
俺は、弱々しい笑みを再び顔に貼り付かせることしかできなかった。
湊は目を閉じると、
「そう……」
と、顔を伏せた。
「……私なら、まだ付き合ってあげるから。来年こそ受かるように、きちんと指導するから。待つから。……いつまでだって……だって、私はあなたのことが……」
そう、意を決したような表情で顔を上げる。
「……ったよ」
「え?」
「だから、あったって。受験番号。合格してた」
混乱を収めるかのように湊は目を瞬いた。
「いや、受かってたのがわかったら、力が抜けちゃって……」
「バ……バッカじゃない!? 受かってたなら、もう少し嬉しそうに、受かったって言いなさいよ!」
「あ、あはは……悪い……」
俺は反論もできず、その場にへたりこんだ。
「本当に馬鹿なんだから」
そう言って、呆れたように俺を見下す湊の瞳は、僅かに涙で潤んでいた。
***
「おめでとうございます! 名幸さんなら、きっと受かってると思ってました!」
雅ちゃんもわざわざうちに足を運んできて、お祝いの言葉を言ってくれた。
「これで、名幸さんと湊さんは、プロの法律家になったんですね。私も負けてられません。大学は、きっと法学部に入ってみせます!」
そう言うって華奢な腕に力こぶを作ると、しかし、次の瞬間には堰を切ったかのように、嗚咽し始めた。
「よかった……本当に良かった……」
涙を拭き、えずきながら、繰り返す。
「ありがとう、雅ちゃん……」
胸に暖かいものを感じていると、
「杉崎さん、喜ぶのはまだ早いわ」
と、手放しに喜んでいる雅ちゃんに冷水を浴びせかけるように、湊が言った。
「……え?」
「な、何が早いんだ、湊?」
俺も動転して湊に向き直る。
「合格はした。でも、それはスタートラインに立てたということに過ぎないってことよ」
湊は、長い髪をかきあげると、
「行政書士試験に合格しても、『行政書士』と名乗るためには、30万円からの登録料が必要なの。それに、事務所を申請しないと、独立して行政書士としてやっていけない。加えて、行政書士の勉強のために求人をあたっても、コンビニのバイトの方が時給が高いという事実まで付け加わってくるわ。そもそもが、行政書士の試験は、実務と乖離しすぎて、受かっただけでは、書類作成の仕方なんて、資格学校に行くか、独学して身につけなくちゃいけないのよ」
「そ、そんな……試験に受かったら万々歳じゃなかったのか?」
俺は背筋に氷塊が滑り落ちるのを感じながら、苦悶の息を吐いた。
「そんなわけないじゃない。あなた、そんなことも知らずにこの試験を受けてたの?」
「い、いや……それは……」
「そ、そうなんですか、湊さん?」
固まってしまった俺があわあわと口を開きっぱなしにし、雅ちゃんはびっくりした様子で、湊に尋ねかける。
湊は気の毒そうに、何故か雅ちゃんのほうを向くと、
「残念だけど、それが『行政書士』というものなの」
そう断言した。
そうだったのか。
まずは30万の登録料。事務所はこの部屋を使うとしても、遠い話だ。
まして、実務では受験で得た知識がほとんど使えないという。
挙句の果てには、コンビニより時給が悪いって……
「で、でも、今は喜びましょう。名幸さん、本当に頑張ったじゃないですか?」
「努力するのは当たり前よ。私の指導に加えて、杉崎さん、あなたの応援があったからだものね」
ぴしゃりという感じに、湊は言う。
俺は苦笑いするしかなかった。
「確かにその通りだな、二人とも、本当にありがとう」
乾いた笑い声を上げて、二人に頭を下げた。
「しかし、30万か。どこから工面したものかな……」
「うーん、アルバイトしたらどうですか? 社会復帰のリハビリにもなりますし」
とりなすように雅ちゃん。でも、それができたらもうやってます。
だから、俺はこんな苦言を発するしかなかった。
「ところで……あー、湊……」
「なによ?」
「なんというかだなあ……俺は……」
湊は小首をかしげる。その仕草が可愛らしくて……今は憎たらしい。
俺はひと呼吸して、一言。
「俺は、俺の人生に不服申し立てしたいんだが、どうすればいい?」
***
湊、雅ちゃん、そして俺。
俺たちの人生は、各々の目標に向かって動き出す。
3人の道が刹那の間だけでも交わったのは、神様がシャツのボタンをひとつかけ間違えただけのこと。
しかし、俺たちが出会う、その偶然のどんなに幸せだったことか。
俺たちは出会った。
そして、俺たちが重ねてきた時間は誰にも「無駄だった」なんて否定できるものではない。
だからこそ、また一歩を踏み出すことができる。
この先に待ち構えている人生は、誰にもわからない。
もしかしたら、また神様がボタンをかけ違えることもあるかもしれない。
しかし、そのこと――新たな出逢いが待っていることの、どんなに素晴らしいことだろう。
俺たちは、歩いていく。
それが、どんな未来に続いているのかも分からずに。
何故なら今この時、そして、これからもずっと――
「まあ、何はともあれおめでとう。心配させた分、私も指導料を貰わなきゃね。何を奢ってもらおうかしら」
「一人だけずるいですよ、湊さん! 今回ばかりは、私も名幸さんに奢ってもらいます! 名目は……えーと、お、応援料!」
俺は苦笑いを作った。
「おいおい、あんま高いのは無理だぞ。俺はなんせ、精神病のニートの引き籠もりなんだからな」
『俺たちが居る人生』は最高なのだから。
<了>