↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/10

第9話 若鶏のカラアゲの日と、常連のお婆さんの占い

土曜の昼下がり。「ミチクサ」の厨房には、若鶏の唐揚げの香味ソースの匂いが立ち込めていた。


「鍵城、揚げるの代わるぞ。お前、油はねで絆創膏増やす気か」

「大丈夫です、もう傷なんてないですよ」

「そういう油断が一番危ない」


そんな軽口の最中、カランとドアベルが鳴った。午後三時過ぎ。杖をつく音。


「フルーツソーダを、一つ」


常連お婆さんだった。窓際の一番奥の席に座り、いつものようににっこり微笑む。空がソーダを運ぶと、お婆さんは満足げにストローをくわえ、それから店内をゆっくり見回した。


その視線が、カウンター奥の片桐で止まった。


「……あら」


「はい、なんでしょう」


片桐が布巾で手を拭いて近づくと、お婆さんはじっと片桐の顔を見つめた。そして、いつもの調子でぽつりと言った。


「あんた、死相が出てるよ」


「またですか、お婆さん」

片桐は苦笑した。ジョウたちから話は聞いている。誰にでも言う、口癖のようなものだ。


しかし、お婆さんは続けた。


「違うのよ。あんたはね、ずっと『待ってる』顔をしてる」


片桐の手が止まった。


「三人分の席をね、ずっと空けて待ってる。カウンターの、一番奥の三つ。……あの子たち、いつかちゃんと帰ってくるよ」


「…………は?」


店内の空気が、一瞬だけ静止した。


ジョウが、ちょうど運んでいた皿を落としかけて、慌てて持ち直す。空はきょとんと首を傾げていた。


「お婆さん、何の話を――」

「あら、私、何か言ったかしら」


お婆さんはもうストローを咥えて、窓の外を眺めていた。きょとんとした顔で。いつもの、何も分かっていない笑顔で。


「……認知症だからね」空が小声でジョウに耳打ちした。「適当だよ、適当。片桐さん、気にしないで」


「ああ、分かってる」


片桐はそう答えたが、その声は少し掠れていた。


(三人分の席を、空けて待ってる)


確かに、そうだった。カウンターの一番奥の三席だけは、混んでいても最後まで客を通さない癖が、片桐にはあった。何十年も、無意識に。誰にも話したことはない。空も、ジョウも、気づいていないはずだった。


*


閉店間際、お婆さんの娘が迎えに来た。


「すみません、また母が勝手に……ご迷惑をおかけしました」

「いえ、大丈夫ですよ。いつもご贔屓に」


片桐が会計を済ませていると、お婆さんがふと、レジ横に置いてあった古い写真立てに目を留めた。


「あら、綺麗な人」


髪の長い女性が笑っている、あの写真だった。


「莢ちゃん、元気だった?」


片桐の手から、釣り銭が落ちた。小銭が床に散らばる音が、静かな店内に響く。


「……お婆さん、今、なんて」


「なあに? 私、何か言った?」


お婆さんはもう、娘の腕にすがって、ぼんやりと外を見ていた。


娘が慌てて頭を下げる。


「すみません、母、時々変なことを言うんです。若い頃の知り合いの名前を、急に呼んだりして……。昔はね、この辺りで、ちょっと変わったお仕事をしていたらしくて」


「変わった、仕事……?」


「私も詳しくは知らないんです。母は、若い頃のことをあまり話さなくて。ただ、古いアルバムに、母が三人の若者と写っている写真があるんですよ。ここの店の前で」


片桐は、息を止めた。


「その写真、髪の長い女性と、飄々とした男と、生真面目そうな男が……」

「あら、ご存じなんですか?」


「いや……」


片桐は言葉を探して、結局、小さく笑った。


「……常連さんに、似た人たちがいましてね」


車のドアが閉まり、お婆さんが窓越しにこちらへ手を振った。にっこりと、全てを見透かしているようにも、何も分かっていないようにも見える笑顔で。


その唇が、声もなく、動いた気がした。


『――よかったね、マスター』


車が夜の街へ走り去っていく。


「……片桐さん?」


ジョウが心配そうに覗き込んできた。


「どうしたんですか。今日、ちょっと変ですよ」

「……なんでもない。ジョウ、今日の賄い、クリームコロッケだ。多めに揚げとく」

「え、マジですか! やった!」


はしゃぐジョウの横顔を見つめながら、片桐は思った。


あのお婆さんが何者だったのか、本当に何かを知っていたのか。真実は、おそらく永遠に分からない。ただの認知症の戯言かもしれない。それでも。


(待っててよかった、って言われた気がしたな)


片桐は火のついていない煙草を、灰皿の縁にそっと置いた。


カウンターの一番奥、三つの空席。その一つに、今夜は――ジョウが、賄いの皿を持って座っていた。


「片桐さん、これ本当に美味いです!」

「当たり前だ。伊達に何十年も、待ってたわけじゃない」


「え? 何を?」

「なんでもない。冷める前に食え」


窓の外では、夜の街の灯りが、優しく瞬いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。