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第8節 ― 道標守の帰還

霧の奥へ進むにつれ、白霧陸峡は音を取り戻し始めた。


ただし、それは風の音ではなかった。


氷の下で水が動く音。

遠くで湿った雪が崩れる音。

誰かが浅く息を吸い、吐ききれずに喉の奥で止めるような音。


そのすべてが、霧の向こうから聞こえてくる。


エリスは鞄の上から白紙台帳を押さえていた。


そこには、先ほどダリオ=ヘルムの訴えを受理した記録がある。

ただし、道標守の名は書いていない。


対象者名の欄は空白のままだ。


その空白を思うたび、胸の奥がきしんだ。


記録としては不完全。

手続きとしては危うい。

報告としては、きっと問い詰められる。


それでも、あの空白を埋めてはいけないと感じた。


書けば、何かが閉じる。


閉じれば、戻るべきものが戻れなくなる。


その直感は、まだ理屈になっていない。

けれど今、エリスはその理屈にならないものを無視できなくなっていた。


前を歩くルオが、突然足を止めた。


「近い」


「道標守が?」


「いや」


ルオは霧の向こうを見た。


「戻ろうとしているものが」


エリスは息を呑んだ。


霧が動いた。


白い壁の奥から、黒い影が滲み出すように近づいてくる。

最初、それは人影に見えなかった。倒れた道標か、風に流された外套か、雪をかぶった枯れ木かと思った。


だが、違う。


それは歩いていた。


一歩。

また一歩。


足元は雪に触れているはずなのに、足跡が残らない。

輪郭は霧に溶け、肩も腕も、外套の裾も、白い空気の中へほどけている。


顔は見える。

けれど、はっきりとはしない。


老人にも見えた。

中年にも見えた。

あるいは、長く風に晒された木片が人の姿を取ったようにも見えた。


その人物は、胸元を押さえていた。


苦しそうに。


まるで、そこにあるはずの息を誰かに奪われたかのように。


「道標守……」


エリスが呟くと、ルオが低く言った。


「名で呼ぶな」


エリスは唇を閉じた。


霧の中の人物は、二人の数歩前で立ち止まった。


その目が、エリスを見た。


いや、見たというより、彼女の鞄を見た。

その中にある白紙台帳を。

さらにその奥に、預かっている契約書を。


「……紙が」


かすれた声が聞こえた。


それは、声というより、凍った葦が折れる音に近かった。


「紙が、まだ、呼んでいる」


エリスは息を詰めた。


ルオが前へ出る。


「戻れたのか」


道標守は、首を横に振ったように見えた。

だが、その輪郭が霧にほどけているせいで、動きははっきりしない。


「戻っていない。戻されている」


「紙にか」


「紙に。名に。南の黒い線に」


その言葉と同時に、エリスの鞄がかすかに震えた。


中に収めた契約書。


道標守の名として記された《オルグ=フェン》。


エリスは咄嗟に鞄を押さえた。


「契約書が反応しています」


ルオの顔が険しくなる。


「出すな」


「でも、確認しなければ」


「今ここで出せば、あの人は紙へ寄る」


道標守の輪郭が、また揺らいだ。


霧にほどけるだけではない。

反対側から、何かに引かれている。


紙の方へ。


エリスには、そんなはずはないと叫びたい気持ちがあった。


羊皮紙はただの羊皮紙だ。

インクはただのインクだ。

そこに書かれた名前は、契約の証明でしかない。


だが今、目の前で道標守は、その紙に引かれている。


白霧陸峡の風からも拒まれ、契約書の名からも逃れられない。

どちらにも完全には属せず、どちらからも引かれている。


記録と記憶の間で裂かれている。


その姿を見て、エリスは初めて、契約書に書かれた名がただの文字ではなかったことを、はっきりと認めざるをえなかった。


「どうすれば」


彼女はルオに訊いた。


「契約書から名前を消せばいいのですか」


ルオは即答しなかった。


道標守が、苦しそうに息を吸う。


けれど吸い込んだ息は胸に入らず、喉の手前で白い霧になって漏れていく。


「消せば、戻れるのではないのですか」


エリスは続けた。


「書かれた名が彼を縛っているのなら、その名を消せば――」


「足りない」


ルオが言った。


声は低かった。


「消すだけでは足りない」


「なぜですか」


「一度書かれた名は、消しても“書かれたこと”が残る」


エリスは言葉に詰まった。


書かれたことが残る。


それは、記録官としては当然のことだった。

抹消線を引いても、削除印を押しても、修正履歴は残る。むしろ、残すために手続きを整える。


記録とは、改竄を防ぐために、書かれた過程すら保存するものだ。


だが、ここではそれが傷になる。


「では、どうすればいいのですか」


「その名を、書かれなかったものとして扱う」


エリスはルオを見た。


「……意味がわかりません」


「だろうな」


「書かれたものを、書かれなかったことにはできません」


「南の紙ではな」


「事実をなかったことにするのは、記録ではありません。改竄です」


「そうだ」


「なら――」


「でも、あの人を戻すには、それがいる」


エリスは黙った。


霧が、二人の間を流れる。


道標守は、かすかに笑ったように見えた。

苦しげで、声にもならない笑みだった。


「南の子」


彼が言った。


エリスは自分が呼ばれていると気づくのに、一拍遅れた。


「あなたは……私に?」


「書く者」


彼は、霧のほどける指でエリスを示した。


「お前の紙は、まだ白いところがある」


エリスは鞄を押さえた。


白紙台帳。

余白。

書かなかった名。

書けなかった言葉。


「私は、どうすればよいのですか」


道標守の目が、少しだけ柔らかくなった。


「わからぬまま、書くな」


それは、セヴランと同じことを言っているように聞こえた。


理解したつもりで、間違えるな。

わからないものを、わかったことにするな。


エリスは喉の奥が詰まるのを感じた。


「でも、書かなければ、あなたを守る証拠がありません。商隊長はあなたを契約違反者として訴えています。契約書には、あなたの名とされるものが残っています。私が何も書かなければ、彼の主張だけが残ります」


「なら、書くなとは言わぬ」


道標守の声は、霧の中で途切れそうだった。


「だが、私の名を、お前の紙に置くな」


エリスは拳を握った。


「では、何を書けば」


道標守は答えようとした。


だが、その瞬間、彼の体が大きく揺らいだ。


エリスの鞄の中で、契約書が音を立てた。


紙が擦れる音。

封筒の中で羊皮紙が勝手に動いたような音。


道標守の胸元から、細い黒い線が伸びた。


いや、実際に線が伸びたわけではない。

けれどエリスには、そう見えた。


契約書の署名欄から伸びる見えない糸が、彼の胸に絡みつき、紙の方へ引き戻している。


道標守が膝をついた。


「お前の鞄を、離せ!」


ルオが叫んだ。


エリスは反射的に鞄を体から外し、雪の上へ置いた。


置いた瞬間、鞄の中から白い霜が広がった。


封筒の内側から染み出すように、霜が布地を白くし、鞄の口元へ上ってくる。


道標守は苦しげに息を吐いた。


その吐息が、雪面に落ちる。


霜紋が現れた。


だが、それはすぐに歪んだ。


線が伸びようとしては、途中で黒く濁る。

雪の上に、文字とも霜ともつかない裂け目が走る。


ルオが骨笛を吹いた。


ほとんど聞こえない音。


しかし、いつもならその音に応じるはずの霧は、動かなかった。

白霧陸峡の風は、迷っているようだった。


道標守を助けるべきか。

それとも、名を固定された彼をもう道標守として認めないべきか。


エリスには、そう見えた。


「風が……拒んでいるのですか」


ルオは笛を下ろさずに答えた。


「名を固定された者は、道を渡せない」


「彼は道標守なのに」


「だから、苦しんでいる」


エリスは雪の上の鞄を見た。


中には契約書がある。

名前がある。

南の制度がある。


そして目の前には、風に拒まれ、紙に引かれ、霧にほどけていく道標守がいる。


「消すだけでは、足りない……」


エリスは呟いた。


ルオがこちらを見る。


「その名を、書かれなかったものとして扱う」


「どうやって?」


「俺にはできない」


ルオは認めた。


「俺は、紙の側を知らない」


エリスは息を呑んだ。


つまり、それは自分の領分だということだ。


紙。

記録。

名前。

契約。

修正。

余白。


彼女が学んできたすべて。


けれど、そのすべてをそのまま使えば、道標守を壊す。


では、どう使えばいい。


エリスは膝をつき、鞄を開いた。


ルオが鋭く言った。


「出すなと言った」


「出します」


「エリス」


「ですが、名を読むためではありません」


彼女は慎重に封筒を取り出した。


契約書は冷たかった。

羊皮紙のはずなのに、氷の板のように硬い。


封を開ける。


中の契約書を、完全には広げなかった。

署名欄を見てはいけない。

名を目で追えば、それだけでまた固定してしまう気がした。


だから、エリスは契約書を裏返したまま、白紙台帳の上に置いた。


「何をする」


ルオの声に緊張が走る。


「まだ、わかりません」


エリスは正直に答えた。


「でも、消してはいけないなら、消さない。名を書き写してはいけないなら、書き写さない。だったら……」


彼女は台帳を開いた。


先ほど、対象者名を空白にした頁。

その余白が、白く冷たく光っている。


「この契約書に書かれた名を、私の記録では採用しない」


「採用しない?」


「契約書そのものは存在する。商隊長の訴えも存在する。ですが、その中の名を、本人を示すものとして扱わない。正式記録上は、対象者名を未確定とする」


「それは、さっきもやった」


「はい。でも、まだ足りない。契約書そのものが彼を引いているなら、私の記録の中で、この契約書を“完全な契約書”として扱ってはいけない」


エリスはペンを取った。


手はまた震えている。


しかし、さっきとは違う。


恐怖ではなく、慎重さの震えだった。


彼女は台帳の余白に、ゆっくりと記した。


《当該契約書、署名欄に名状の記載あり。ただし、現地風契約上の同意確認不能。記載名は対象者識別名として採用せず。》


そこまで書いた瞬間、契約書が微かに震えた。


道標守が呻く。


ルオが叫ぶ。


「まだ強い!」


エリスは歯を食いしばった。


まだ足りない。


名を採用しないだけでは、書かれた事実は消えない。

記載名として記録した時点で、そこに「名がある」と認めている。


では、どうする。


その名を、書かれなかったものとして扱う。


書かれたのに、書かれなかったものとして扱う。


事実を消すのではない。

だが、名として成立させない。


エリスは、目を閉じた。


名前とは何か。


記録院では、個体を識別するための符号。契約当事者を明確化する要素。権利と責任の所在を示す基礎。


だが、シェリグラートでは違う。


名前は、最後に来るもの。

息を覚え、風を覚え、雪に足跡を残し、誰かに見送られて、ようやく近づいてくるもの。


ならば、あの契約書にあるものは、名前ではない。


名前になる前の息を、無理に文字の形へ押し込めたもの。


エリスは目を開けた。


次の行を書いた。


《当該記載は、署名または真名記載にあらず。白霧陸峡における息名拘束痕として仮分類する。》


書いた。


書いてしまった。


その瞬間、霧が大きく揺れた。


道標守の体から、黒い線のようなものが一本、ほどける。


彼は雪の上に手をつき、激しく息を吐いた。


白い息が出た。


初めて、胸から息が出たように見えた。


ルオの骨笛が、それに応える。


今度は、霧が動いた。


白霧陸峡の風が、ほんのわずかに道標守の周りを巡る。


けれど、完全ではない。


彼の輪郭はまだ霧にほどけている。

声も弱い。

風は彼を囲みながらも、まだ迷っている。


「少し戻った」


ルオが言った。


「でも、まだだ」


エリスは台帳を見下ろした。


自分が何を書いたのか、わかっているようでわかっていない。


記録院の様式にはない分類。

息名拘束痕。


そんな項目は、彼女の学んだどの台帳にも存在しない。


だが、それは嘘ではなかった。


契約書の記載を消していない。

存在を否定していない。

けれど、それを「名」としては扱わなかった。


名前ではなく、拘束の痕跡として記録した。


それが、「書かれなかったものとして扱う」ことの一部なのかもしれない。


「これで、よいのですか」


エリスは道標守に尋ねた。


道標守は、苦しげに顔を上げた。


「……まだ、足りぬ」


その答えに、エリスの胸が沈む。


「では、何が」


「その紙は、まだ私を知っている」


「契約書が?」


道標守は頷いたのか、霧が揺れただけなのかわからなかった。


「南の紙は、名を忘れぬ。忘れぬことを、善とする」


エリスは何も言えなかった。


その通りだった。


記録院の紙は、忘れないためにある。

契約書は、忘れさせないためにある。


けれど、忘れないことが、相手を縛るなら。


「忘れさせることは、できますか」


エリスはルオに訊いた。


ルオは首を横に振った。


「紙を燃やせば、商隊長は別の写しを出す。記録院にも報告される。名を消しても、消した跡が残る」


「では、どうすれば」


「だから、言った」


ルオは、道標守を見た。


「消すんじゃない。書かれなかったものとして扱う」


「まだ、わかりません」


エリスは、正直に言った。


「その意味が、まだ全部はわからない」


道標守が、弱く笑った。


「それでよい。わかったつもりで書く者より、よほどよい」


セヴランと同じ言葉。


エリスは唇を噛んだ。


白霧陸峡で出会う者たちは、皆、同じことを言う。

わからないままでいろ。

確定するな。

空白を閉じるな。


だが、わからないままでは、人を救えない時もある。


「私は、どうすればあなたを戻せますか」


エリスは尋ねた。


道標守は、霧の奥へ視線を向けた。


「私を戻すのではない」


「では?」


「道を、戻せ」


その言葉と同時に、遠くで氷が鳴った。


白霧の奥。

風を返す場所があるという方角。


そこから、かすかな霜紋が雪面を伝って伸びてきた。


まだ細い。

今にも途切れそうだ。


けれど、それは確かに道を示していた。


道標守の帰る道ではない。


道標守が、もう一度、誰かを渡すための道。


エリスは台帳を閉じた。


完全な答えは、まだない。


契約書から名を消せば済むと思った。

だが、それでは足りなかった。


書かれた名を、書かれなかったものとして扱う。

名前ではなく、拘束の痕跡として分類する。

しかし、それでもまだ、彼は戻りきれていない。


ならば次に必要なのは、道そのものを戻すこと。


彼が道標守であることを、紙ではなく、風に思い出させること。


エリスは立ち上がった。


「風を返す場所へ行きましょう」


ルオが頷いた。


道標守は立ち上がろうとして、膝を崩した。

ルオが支える。


その腕を取った瞬間、ルオの外套にも霧がまとわりついた。


「長くは持たない」


ルオが言う。


「急ぎます」


エリスは、契約書を封筒に戻した。

ただし、鞄の奥には入れなかった。


白紙台帳とは別に、外側の布袋へ分けた。


同じ場所に置いてはいけない気がした。


名前を閉じ込めた紙と、余白を残すための台帳を。


霧の中、細い霜紋が先へ伸びる。


三人はその線を追った。


道標守の輪郭は、まだ不確かだった。

声も弱い。

彼は自分の名を取り戻していない。


だが、完全に紙の側へ引き戻されてもいない。


その間で、かろうじて立っている。


記録と記憶の間。

紙と風の間。

名を書かれた者と、まだ名にならない息の間。


エリスはその姿を目に焼きつけた。


台帳には書かない。


まだ、書けない。


けれど、忘れない。


白霧陸峡の奥で、彼らを待つ風が、低く鳴っていた。

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