終節 ― 十一年前の白紙
フェル=シェリカの風が、いつものばらばらな音を取り戻したのは夕刻になってからだった。
白い風柱の周囲では、風祈り庁と中央記録院の者たちがまだ忙しく行き交っている。取り外された標準地名札は一か所へ集められ、代わりに古い風鈴や骨笛の位置が一つずつ確認されていた。完全に元へ戻すのではなく、どの呼び名がどの到達関係を持っていたのかを確かめ直す作業らしい。
エリスも報告書の整理を手伝っていたが、筆は何度か止まった。
気になるものが、すぐ近くにあったからだ。
セヴランとユリウス。
二人は白い風柱から少し離れた石壁のそばに立っていた。
十一年ぶり。
その一言だけで、エリスには知らない時間が二人の間にあると分かった。
けれど、再会を懐かしむ様子はない。敵意もない。ただ、互いに相手が何者なのかを昔から知りすぎているような、妙に遠い距離だけがあった。
「北方調査団が来るとは聞いていました」
ユリウスが言う。
「お前が標準化計画を担当していることも聞いていた」
セヴランの返事は短い。
「なら、避けていたわけではない?」
「仕事で昔の知人を避けるほど暇じゃない」
「相変わらずですね」
「お前もな」
そこで会話が切れた。
十一年ぶりの会話としては、あまりにも短い。
エリスは書類へ目を落とすふりをしながら、二人を見ていた。
セヴランが報告確認のため、腰の鞄から黒革の野帳を取り出した。
使い込まれた帳面だった。
何度も雪や雨に晒されたのだろう。表紙には細かな傷があり、角も擦れている。
ユリウスの視線が、その帳面へ止まる。
「まだそれを使っているんですね」
「物持ちがいいだけだ」
「そうでしょうか」
セヴランは返事をせず、必要な頁を開いた。
その拍子に、後ろの頁が風で数枚めくれる。
エリスは目を留めた。
白紙だった。
一枚ではない。
最後の数頁が、何も書かれないまま残されている。
帳面そのものは使い込まれ、前の頁には細かな文字がびっしり並んでいる。それなのに最後だけ、意図的に避けられたように白い。
ユリウスも見ていた。
「まだ残しているんですね」
今度の声は、少し違った。
セヴランが頁を押さえる。
「お前はまだ、全部埋めるつもりか」
ユリウスは少しも迷わなかった。
「ええ」
それだけだった。
エリスには、その一語がひどく重く聞こえた。
セヴランは白紙を残す。
ユリウスは埋める。
たったそれだけの違いなのに、二人の間にある十一年間が、そのままそこへ挟まっているように思えた。
風が吹いた。
ユリウスが野帳の頁を押さえようと、左手を伸ばす。
その時。
セヴランの視線が、彼の手へ落ちた。
薬指。
何の飾りもない、細い銀の指輪。
エリスも何度か見ているものだった。
記録官が身につける銀製品は珍しくない。だから今まで特に気にしたこともなかった。
けれど。
セヴランは確かに、その指輪を見た。
一瞬だけ。
目が止まった。
何かを言いかけたようにも見えた。
結局、何も言わない。
ユリウスも指輪を隠さなかった。
二人の間を、また沈黙が通り過ぎる。
「報告書は後で送ります」
ユリウスが言った。
「ああ」
「オルステッド」
「何だ」
少しの間。
けれどユリウスは、結局別の言葉を選んだ。
「部下を借りました」
セヴランの目がエリスへ向く。
「無事に返ってきたならいい」
「かなり優秀ですね」
「知ってる」
今度はエリスが居心地悪くなる番だった。
「本人のいるところで評価を始めないでください」
二人が同時にこちらを見る。
エリスはしまったと思った。
聞いていないふりをしていたことまで自分で認めてしまった。
ユリウスが小さく笑う。
「失礼しました」
セヴランは何も言わず、わずかに眉を上げただけだった。
ユリウスは中央記録院の者に呼ばれ、その場を離れた。
銀の指輪が、夕方の霧灯を一度だけ反射する。
エリスは、その背中が人混みへ消えるまで見ていた。
「団長」
「何だ」
「十一年前、何があったんですか」
セヴランの手が止まった。
予想していたのかもしれない。
驚いた顔はしなかった。
「レグナートさんが、十一年ぶりって言いました」
「ああ」
「団長の野帳の白紙も知っていた。あの指輪も……」
そこまで言って、エリスは言葉を止めた。
指輪について、何を見たのかは分からない。
セヴランが見た。
それだけだ。
「何があったんです?」
もう一度訊く。
セヴランはすぐには答えなかった。
黒革の野帳を閉じる。
親指が、白紙の頁を残した最後の部分へ触れている。
「今のお前が聞けば」
低い声だった。
「たぶん、レグナートを間違って嫌う」
エリスは眉を寄せる。
「間違って?」
「ああ」
「でも、何かしたんですよね」
「した」
「それが十一年前?」
「そうだ」
質問には答える。
けれど、その先へ進ませない。
エリスには分かった。
セヴランが話したくないのではなく、今は話すべきではないと判断している。
「悪いことだったんですか」
セヴランは霧の向こうを見る。
答えるまで、少し時間があった。
「あいつがしたことは、間違いだったとは言い切れない」
エリスは息を止めた。
「じゃあ、正しかった?」
「それも俺には言えない」
「団長」
「今はそれで持っておけ」
会話は終わりらしい。
セヴランは野帳を鞄へ戻した。
エリスは納得できなかった。
十一年前。
白紙。
ユリウス。
銀の指輪。
間違いだったとは言い切れない何か。
気になるものばかり増えて、答えだけがない。
「気になります」
横から声がした。
「知ってる」
ルオだった。
いつの間にか近くの柱へ寄りかかっている。
「どうして?」
「顔に書いてある」
「書いてません」
「じゃあ記録しとけ」
「何をですか」
「気になるって」
「そんな記録、何の役に立つんです?」
「今の顔を忘れない」
「忘れてください」
「無理だな」
「どうして」
「面白いから」
エリスは睨んだ。
ルオはわずかに口元を上げる。
それを見て、エリスの肩から少し力が抜けた。
「……元気ですね」
「誰が」
「ルオです。あんな目に遭ったのに」
「お前もだろ」
「私は救助側です」
「途中から遭難者だった」
「遭難してません。救助経路を確認していたんです」
「迷ってただろ」
「意図的な探索です」
「便利だな、記録官の言い方」
言い返そうとして、エリスはやめた。
今はこれくらいでいい。
聞けないことがある。
分からないことがある。
でも、だからといって今すぐ全部を埋めなくてもいい。
そう思えるようになった自分が、少しだけ不思議だった。
*
翌朝。
フェル=シェリカは昨日の騒ぎが嘘のように霧の中で鳴っていた。
宿を出ると、軒先の風鈴があちこちで違う高さの音を返す。まだ閉鎖されている街路もあり、風祈り庁の者が目印を付け直していたが、少なくとも都市全体を覆っていた不自然な一音は消えていた。
エリスは中央記録院側の臨時執務場所へ向かった。
昨日の記録を受け取るためだ。
入口近くで、ユリウスと出会った。
「おはようございます」
「おはようございます、ヴェルナ候補生」
昨日、大規模な《記定》を使った人物とは思えないほど、いつも通りの声だった。
ただ、よく見れば顔色は少し悪い。
右のこめかみ近くにある白い一房が、霧の中では妙に目立った。
「もう仕事してるんですか」
「あなたもでしょう?」
「私は候補生ですから」
「候補生には休息が必要で、特任記定官には不要だと?」
「そういう意味じゃありません」
「では同じですね」
反論しにくい。
ユリウスが少し笑う。
それから、ふと表情を改めた。
「昨日の問いですが」
エリスも笑みを消した。
「はい」
選ばなかったものを消すことが、責任なのか。
自分が彼へ投げた問い。
「答えはまだありません」
エリスは少しだけ意外に思った。
けれど、すぐ頷く。
「私もです」
自分だって答えを持っていない。
可能性を全部残せばいいとも思わない。
決めなければ人が死ぬことがあると、昨日見た。
一つを決めることが人を救うことも。
同時に、一つを決めたことで別の道が失われることも。
「それでいい」
ユリウスが言った。
エリスは瞬きをした。
どこかで似た言葉を聞いた気がした。
分からないなら、今は分からないままでいい。
そんなふうに、隣を歩く誰かが言いそうな。
しかしユリウスは続けた。
「今は、ですが」
「……今は?」
「問いを持ったまま考え続けることと、答えを必要としないことは別です」
穏やかな声だった。
「いつか答えが必要になる時もある」
エリスは昨日の二本の避難路を思い出した。
東鈴路。
冬灯路。
その瞬間、選ばなければならなかった人。
「ユリウスさんは、必ず答えを出すんですね」
「必要なら」
その一言が、なぜか残った。
ルオの「それでいい」と。
ユリウスの「今は、ですが」。
似ているようで、違う。
どちらが正しいかは、まだ分からない。
執務室の奥から、慌ただしい足音がした。
「レグナート卿!」
若い中央記録院員が、封を切っていない書簡を手に走ってくる。
息が上がっていた。
「霧氷街道方面から緊急報告です」
ユリウスが受け取る。
「発信は?」
「現地記録所です。至急、北方調査担当および記定官へ回付との指定が」
ユリウスは封印を確認し、その場で開いた。
エリスは横にいたため、紙面が一部見えた。
整った書式。
短い報告。
ユリウスの目が一行目で止まる。
エリスも読む。
> 《身元照会不能児童一名を保護。》
その時点では、珍しいがあり得ない話ではないと思った。
旅の途中で家族とはぐれた子。
辺境集落から来た子。
正式記録を持たない者だって、北方にはいる。
次の行。
> 《近隣住民への照会に該当なし。》
さらに。
> 《正式名称の記録時、対象身体輪郭に異常。》
エリスの眉が寄る。
最後。
> 《記録具への強い反応を確認。》
「……身体輪郭?」
思わず呟いた。
意味が分からない。
記録しようとしたら、文字が崩れたのではない。
記録具が壊れたとも書かれていない。
対象。
子供の身体側に異常が出た。
白霧陸峡の道標守を思い出す。
あの人には、書かない理由があった。
名を風へ返す文化があり、エリス自身が最後に記さないことを選んだ。
今回とは違う。
この報告の子供は。
照会できない。
近隣に知る者もいない。
正式名称を書こうとすれば、本人の輪郭に異常が起きる。
少なくとも、照会可能な記録のどこにもその子へ繋がるものが見つからない。
「人なのに……」
エリスの声が小さくなる。
「記録がない?」
ユリウスは答えなかった。
書簡を読む。
一度。
最後まで。
そして。
もう一度、最初から読んだ。
昨日、五十四人が取り残された時でさえ、彼は報告を一度聞けば次の確認へ進んだ。
今は違う。
同じ四行を二度読んでいる。
エリスはそのことに気づいた。
さらに。
ユリウスの左手が動く。
薬指の銀環へ触れた。
指先で確かめるように。
強く握るわけではない。
ただ、そこにあることを確認するように。
「ユリウスさん?」
返事が遅れた。
「はい」
「その子を知っているんですか?」
「いいえ」
即答だった。
けれど、そのあとに沈黙があった。
知らない。
なら、なぜ。
どうして、そんな顔をする。
どうして指輪へ触れる。
エリスが問う前に、ユリウスは書簡を折り直した。
灰金の瞳が、霧氷街道のある北を向く。
「だから、会わなければならない」




