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50/50

藤谷直樹は尾行が苦手

 お兄ちゃんは、尾行が苦手だと思う。


 というより。


 向いていない。


「……梢さん」


 遊園地に入って、十五分くらい経ったころだった。


 白石さんが、隣で静かに言った。


「はい」


「後ろ、見ないでください」


「え」


「藤谷さんがいます」


 私は、見そうになった。


 でも、見なかった。


 えらい。


「……お兄ちゃんが?」


「はい」


「なんで?」


「尾行だと思います」


 尾行。


 お兄ちゃんが。


 私を。


「……え」


 私が固まっていると、隣で莉央ちゃんがチュロスの列を眺めながら言った。


「やっぱり?」


「莉央ちゃん、気づいてたの?」


「うん。さっきから、ポップコーン売り場の近くで挙動不審な男がいるなって」


 挙動不審な男。


 お兄ちゃん。


「梢の兄貴?尾行下手すぎだろ」


 奏多さんが言った。


 今日は会社で会う時より、少し言葉が砕けている。


 いつの間にか呼び捨てだし。


 でも、私のほうを見る目は、どこか気にしている感じだった。


「梢」


「はい」


「嫌なら帰るか?」


「え?」


「無理して付き合う必要ねえから」


 意外だった。


 奏多さんは、もっと強引な人だと思っていた。


 LINEは多いし、言葉は強いし、距離感も近い。


 でも今の声は、少し違った。


「……大丈夫です」


「そうか」


 奏多さんは短く言って、前を向いた。


 でも、列が少し進むと、またこちらを見た。


「人、多いから離れんなよ」


「はい」


「奏多さん」


 白石さんが静かに言った。


「何だよ」


「梢さんに圧をかけないでください」


「心配してんだよ」


「言い方です」


「うるせえ」


 莉央ちゃんが、ふっと笑った。


「その言い方、また損してる」


「お前もいちいち刺すな」


「刺さるほうが悪い」


「性格悪いな」


「受付担当なので、観察眼が育ってるの」


「理由になってねえ」


 奏多さんは莉央ちゃんに言い返す。


 でも、視線はまだ時々、私のほうへ戻ってくる。


 そのたびに、私は少しだけ落ち着かなくなった。


 悪い人ではない。


 それはもう分かっている。


 でも、白石さんの静かな距離とは、全然違う。


 奏多さんは、近い。


 まっすぐ来る。


 そして、莉央ちゃんはそのまっすぐを、真正面から押し返している。


 すごい。


「梢」


 莉央ちゃんが小声で言った。


「なに?」


「あの二人、まだいる」


「え」


「見ない見ない」


 私はまた振り返りそうになって止めた。


 莉央ちゃんが、楽しそうに笑う。


「美波さん、普通に楽しそう」


「そうなの?」


「うん。藤谷さん、たぶん気づいてないけど、もうデートっぽい」


「お兄ちゃんが?」


「うん」


 お兄ちゃん。


 尾行とは。


     ◇


 遊園地は、人が多かった。


 私は人混みが得意ではない。


 誰かにぶつかりそうになると、足が止まる。


 どちらへ避ければいいのか分からなくなる。


 でも今日は、白石さんが少しだけ前を歩いてくれていた。


「段差あります」


「あ、ありがとうございます」


「右側のほうが空いています」


「はい」


 押しすぎない。


 でも、ちゃんと見てくれる。


 その距離が、少し安心する。


「白石さん」


「はい」


「ありがとうございます」


「いえ」


 白石さんは、少しだけ目を伏せた。


 耳が、少し赤い。


 それを見て、私は少しだけ困った。


 困るけど。


 嫌ではなかった。


 その少し後ろから、奏多さんの声がした。


「梢、ちゃんといるか」


 私は振り返った。


「います」


 答えたのは白石さんだった。


「お前に聞いてねえ」


「見えていますので」


「だからお前に聞いてねえって」


「梢さんは、ちゃんと歩けています」


「……ならいい」


 奏多さんは不満そうに言った。


 でも、少し安心した顔にも見えた。


 莉央ちゃんが隣で小さく笑う。


「奏多さん、心配性だね」


「違う」


「違わないよ」


「うるせえな」


「ほら、また損した」


 奏多さんは、言い返そうとして。


 なぜか、やめた。


 莉央ちゃんの言葉は、奏多さんに効く。


 不思議だ。


 白石さんの静かな言葉とは違う。


 莉央ちゃんの言葉は、軽くて明るいのに、ちゃんと刺さる。


     ◇


 汽車のアトラクションに乗ることになった。


 園内をゆっくり回る、子どもでも乗れる乗り物。


 四人で横並びにはなれなかったので、白石さんと私、奏多さんと莉央ちゃんで分かれることになった。


 奏多さんは、一瞬だけ何か言いたそうにした。


 でも、白石さんが先に私の隣に立っていた。


「梢さん、こちらで大丈夫ですか」


「はい」


「風が当たるかもしれません」


「大丈夫です」


 奏多さんは、少し眉を寄せた。


「……梢、寒かったら言えよ」


「あ、はい」


「白石」


「はい」


「そっち側、風くるなら代われ」


「必要なら梢さんに確認します」


「お前に確認しろって言ってねえ」


「僕は隣なので」


 隣。


 その言葉で、奏多さんの眉がまた少し動いた。


 莉央ちゃんが、奏多さんの袖を軽く引いた。


「はいはい、こっち座るよ」


「引っ張んな」


「乗り遅れるでしょ」


「俺を子ども扱いすんな」


「迷子防止」


「お前な」


 二人は言い合いながら、後ろの席へ行った。


 私は少しだけ、胸のあたりがざわっとした。


 奏多さんは、まだ私を気にしている。


 それは分かる。


 でも。


 白石さんが隣にいると、私は安心する。


 それも分かる。


「梢さん」


「はい」


「大丈夫ですか」


「……はい」


 白石さんは、少しだけ私の顔を見た。


「無理しなくていいです」


「はい」


「奏多さんの言い方が強かったら、僕が止めます」


「ふふ」


 思わず笑ってしまった。


「白石さん、いつも止めてます」


「必要なので」


「必要な位置?」


 言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。


 白石さんが一瞬だけ固まる。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「今日は、少し違うかもしれません」


「違う?」


「必要な位置というより」


 汽車がゆっくり動き始めた。


 風が頬に当たる。


 白石さんは、少しだけ視線を外してから言った。


「いたい位置、かもしれません」


 私は、何も言えなくなった。


 顔が熱い。


 たぶん、赤くなっている。


 その時、後ろの席から莉央ちゃんの声が飛んできた。


「梢、耳赤いよ」


「莉央ちゃん!」


「白石さん、何言ったの?」


「何も」


 白石さんが即答した。


 奏多さんが、後ろから低く言う。


「何も、の雰囲気じゃねえだろ」


「奏多さん」


「何だよ」


「佐伯さんの風よけに集中してください」


「お前、地味に刺してくるな」


 莉央ちゃんが笑っていた。


 私も笑ってしまった。


     ◇


 射的ゲームの前で、奏多さんが急に立ち止まった。


「梢」


「はい」


「こういうの好きか?」


「えっと……見てるのは好きです」


「じゃあ取る」


「え?」


「何がいい」


 まっすぐだった。


 まっすぐすぎた。


 私は景品の棚を見た。


 小さなぬいぐるみ。

 キーホルダー。

 お菓子。


 答える前に、莉央ちゃんが横からひょいと顔を出した。


「なにそれ、梢に取ってあげるの?」


「悪いかよ」


「悪くないけど、言い方が強い」


「またそれかよ」


「取るなら、ちゃんと聞きなよ。『どれがいい?』って」


「今聞いた」


「怖い聞き方だった」


「怖くねえ」


「怖いよね、梢」


 急に振られて、私は困った。


「えっと……少しだけ」


「梢!」


 奏多さんがちょっと傷ついた顔をした。


 その顔が、思ったより分かりやすくて。


 私は慌てた。


「でも、嬉しいです」


「……そうか」


 奏多さんは、少しだけ表情を戻した。


 白石さんが静かに言う。


「梢さんが困らない聞き方をしてください」


「お前は一言多い」


「必要な指摘です」


「お前の必要、範囲広すぎんだよ」


 莉央ちゃんが、景品棚を見た。


「あ、あの小さい猫かわいい」


「お前のじゃねえ」


「分かってるよ。梢に似合いそうって言ったの」


 奏多さんが、一瞬止まった。


 それから、猫のぬいぐるみを見た。


「……確かに」


「でしょ?」


「だからって、お前に言われると腹立つ」


「はいはい、損してる」


「うるせえ」


 奏多さんは銃を構えた。


 真剣だった。


 すごく真剣だった。


 梢に取る。


 それが分かるくらい。


 でも、一発目は外れた。


「……」


「外したね」


「見りゃ分かる」


 莉央ちゃんが楽しそうに言う。


「力入りすぎ」


「黙れ」


「梢にいいところ見せたいんでしょ」


「うるせえ!」


 奏多さんの耳が少し赤くなった。


 私は、どう反応すればいいのか分からず、白石さんの隣で小さく固まった。


 白石さんは静かに言った。


「奏多さん」


「何だよ」


「梢さんがさらに困っています」


「……悪い」


 奏多さんは、小さく言った。


 すごく小さく。


 でも、ちゃんと言った。


 私は少し驚いた。


「大丈夫です」


「次で取る」


「無理しなくても」


「取る」


 その言い方は強かった。


 でも、今度は少しだけ優しかった。


 二発目。


 当たった。


 猫のぬいぐるみが落ちた。


「あ」


 私が声を出すと、奏多さんは少し得意そうな顔でそれを拾った。


「ほら」


「あ、ありがとうございます」


 受け取ると、思ったよりふわふわしていた。


「かわいいです」


「ならいい」


 奏多さんは、視線を少し外した。


 その横で、莉央ちゃんがにやにやしている。


「奏多さん、やればできるじゃん」


「お前のためじゃねえ」


「分かってるよ。梢のためでしょ」


「……」


「黙った」


「うるせえ」


 白石さんの目が、静かに細くなった。


 でも、何も言わなかった。


 たぶん、私が困っていないから。


 それも、ちゃんと見てくれているのだと思った。


     ◇


 少し休憩することになって、ベンチに座った。


 私は猫のぬいぐるみを膝に置いた。


 奏多さんは少し離れて立っている。


 莉央ちゃんはその隣で、アイスを食べていた。


「奏多さん、食べる?」


「いらねえ」


「甘いもの嫌い?」


「別に」


「じゃあ、ひと口いる?」


「いらねえって」


「梢にはチュロス買おうとしてたのに?」


「お前と梢は違うだろ」


 奏多さんがそう言った瞬間、莉央ちゃんは少しだけ目を細めた。


 怒ったわけではない。


 観察するみたいに。


「ふうん」


「何だよ」


「分かりやすいなと思って」


「何が」


「奏多さん」


「は?」


「まあ、悪くないけど」


「坂本さんみたいな言い方すんな」


 莉央ちゃんが笑った。


「それ、誰?」


「こっちの話」


「じゃあ今度教えて」


「何でだよ」


「気になるから」


「……変な女」


「イケメン嫌いだから、遠慮なく聞けるの」


「俺は関係ねえ」


「まだそれ言う?」


 二人はまた言い合っていた。


 でも、私は少し分かった。


 奏多さんは、まだ私を見ている。


 猫のぬいぐるみを取ってくれたのも、たぶん私のため。


 でも、莉央ちゃんは、その視線の横から入ってくる。


 強く。


 明るく。


 怖がらずに。


 奏多さんの言葉を、ちゃんと押し返している。


 そのたびに、奏多さんの調子が少し崩れる。


 それが、なんだか不思議だった。


「梢さん」


 白石さんが隣で言った。


「はい」


「疲れていませんか」


「少しだけ。でも、大丈夫です」


「水、飲みますか」


「あ、はい」


 ペットボトルを渡してくれる。


 キャップは開けていない。


 自分で開けられるように。


 そういうところが、白石さんらしい。


「ありがとうございます」


「いえ」


 白石さんは、私の膝の猫を見た。


「よかったですね」


「はい」


「奏多さん、ちゃんと取れていました」


「はい」


「……悔しくはないです」


 私は白石さんを見た。


 白石さんは、少しだけ真面目な顔をしていた。


「悔しくないんですか?」


「少しだけ」


「ふふ」


「でも、梢さんが嬉しそうなので」


 また、顔が熱くなった。


 白石さんは、こういうことを静かに言う。


 大きな声ではなく。


 押しつけずに。


 でも、ちゃんと届く距離で。


 私は猫のぬいぐるみを、ぎゅっと持った。


     ◇


 夕方。


 莉央ちゃんが遠くを見て、あ、と言った。


「尾行組、観覧車に向かってる」


 私は、今度こそ振り返った。


 少し遠く。


 お兄ちゃんと美波さんが、観覧車の列に並んでいた。


「……え」


 お兄ちゃん。


 尾行は?


「完全にデートじゃん」


 莉央ちゃんが言った。


 奏多さんが低く笑った。


「姉貴、やるな」


「藤谷さんは気づいていないと思います」


 白石さんが静かに言った。


「気づかないまま観覧車乗るの?」


 莉央ちゃんが楽しそうに言う。


「すごいね」


 私は観覧車を見上げた。


 ゆっくり回る大きな輪。


 夕方の空。


 その中に、お兄ちゃんと美波さんが乗る。


 なんだか、少しだけ胸がきゅっとした。


 でも、それは嫌な感じではなかった。


「梢」


 奏多さんが言った。


「はい」


「平気か?」


 また。


 気にしてくれている。


「はい」


「そうか」


 短い。


 でも、ちゃんとこちらを見ていた。


 白石さんも、静かに私を見ていた。


「梢さん」


「はい」


「藤谷さん、大丈夫だと思います」


「……はい」


「美波さんも、ちゃんと見ています」


「うん」


 私は小さく笑った。


「美波さんなら、大丈夫だと思う」


 お兄ちゃんは尾行が苦手だ。


 でも、戻ってくるのは得意だと思う。


 困って。

 処理落ちして。

 逃げ道を探して。


 それでも、ちゃんと戻ってくる。


 美波さんは、それを待てる人だ。


 だから、大丈夫。


 たぶん。


「じゃあ、私たちも次行く?」


 莉央ちゃんが立ち上がった。


「次?」


「メリーゴーランド」


「え」


 奏多さんが嫌そうな顔をした。


「俺は乗らねえ」


「乗るよ」


「何でだよ」


「梢に猫取った人が、馬には乗れませんって言うの?」


「関係ねえだろ」


「あるよ。流れ的に」


「流れで俺を馬に乗せるな」


 莉央ちゃんは楽しそうに歩き出す。


 奏多さんは文句を言いながら、ついていく。


 でも一度、私を振り返った。


「梢、来れるか」


「はい」


 白石さんが私の横に立つ。


「ゆっくり行きましょう」


「はい」


 私は、もう一度だけ観覧車を見た。


 ゴンドラは、ゆっくり上がっていく。


 その中に、お兄ちゃんがいる。


 たぶん、まだ尾行のつもりで。


 たぶん、少し楽しくて。


 たぶん、まだ自分で気づいていない。


 私は小さく笑った。


 藤谷直樹は、尾行が苦手。


 でも。


 たぶん、恋に巻き込まれるのも、あまり得意じゃない。


 そしてそれは。


 私も、同じかもしれない。

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