第36話 夫婦の寝室 (最終話)
澄みきった高い青空とうろこ雲。
九月に入り、少し気候が涼しくなってきた。
レイクフォード・ハウスの屋敷周りでは、みずみずしい白い秋バラが、香り高く咲き始めている。
屋敷と往復しながら、次々と馬車に荷物を積み込む従僕。
レナードが馬車の前で振り返り、皆に向き合った。
今日はレナードがクライン・カレッジに行く日だった。
「何かあったら連絡してね」
モニカはうつろな声で言った。
レナードがあきれ顔で笑った。
「心配しないでママ。もう十六だよ?」
サミュエルの目つきが急に冷ややかになった。
「冗談通じないなー」
「全く面白みを感じないよ」
顔をしかめながら、サミュエルはレナードに言った。
レナードは口をへの字に曲げると、軽快に足音を鳴らして馬車に乗り込んだ。
「じゃあね」
従僕がドアを閉め、御者が馬に合図を送った。
そっけなく、レナードは行ってしまった。
モニカは、馬車のあとを数歩追いかけた。
まっすぐに前を向いていたレナード。今はもう、クライン・カレッジのことしか考えていないのだろう。
ゆっくりと近づいてきたサミュエルに体をあずけて、モニカは肩を落とした。
「寂しくなるわね」
メリッサが、彼女らしくない気の抜けた声でポツリと言った。
サラも結婚の準備で、一旦ボートンに帰ることになっている。
サラは今夜、ベネット卿とオペラの観劇に出かけた。
なので、夜の晩餐はサミュエルとメリッサ、モニカの三人だけだった。
レナードとサラの声がしない。
ダイニングルームがやけに広く、そして彩りなく感じられた。
静かな晩餐が終わり、寝室に向かった。ドアを開けると、あらゆる家具にホコリよけの白いカバーがかけられていて、部屋が閑散としていた。
「……そうだったわ」
モニカはぼんやりと独りごとを言った。
当主夫妻用の大きな主寝室。今晩からそこに、部屋を移ることになっていた。
新婚当初に少しだけ使っていたこの部屋。
少し前からサミュエル主導で大改修が進められていた。
壁と天井、絨毯が張り替えられ、家具も一新されている。
以前の面影は根こそぎ無くなっていた。
モニカはゆっくりと歩きながら部屋を見てまわった。
彼女の希望のピアノと、子供部屋のものとは別に用意したベビーベッド。新しい鏡台に、ナイトドレスを着た自分が映っている。二つあるドアの向こうは、浴室と、小さめの書斎。
モニカは天蓋つきのベッドに座り、どこか女性的な色合いの部屋を見ながら、かつてのこの部屋に思いを馳せた。
深い青と金色を基調にした、男らしくて気品のある、公爵家当主そのものの様な部屋だった。
あの部屋で、一晩中起きてサミュエルが戻ってくるのを待っていた。
一瞬、あの頃の自分に戻ったような気がして、喉のつかえと胸の痛みが、同時に押し寄せた。
サミュエルが部屋に入ってきて、隣に座った。
「気に入ったかい?」
モニカは口を引き結びながら、うなずいた。
「すごく。暖かみのある素敵な部屋ね」
サミュエルは彼女の手を優しく握った。
「君をイメージして作ったんだ」
モニカはつま先をもじもじと動かしながら、部屋に視線を巡らせた。
「以前とは、まるで別の部屋だわ」
少しの間、沈黙が流れた。
「……そうだね」
サミュエルは握った手を少しずつ離して、髪に指を通した。
彼が部屋を大きく変えた理由は、やはり、あれだろう。
あの時、彼を受け入れられなかった理由──母のことを、今まで何度か説明しようとしたが、うまく出来なかった。
「ええと……、そういえばさっきサラが帰ってきてたよ。国立歌劇場のロイヤルボックスでオペラを見てきたらしい」
サミュエルが話題を変えたので、少し気分がほっとした。
「興奮してたでしょう?」
サミュエルは苦笑しながら、何度もうなずいた。
「ほぼ踊りながら説明してくれたよ」
モニカは、はしゃぐサラを思い浮かべながら笑った。
国立歌劇場のロイヤルボックス席。出会った日、彼もあの場所にいた。
モニカは膝に両手をついて、視線を上げた。
「初めて会った日のことを覚えてる?」
サミュエルは真顔でじっと彼女を見つめた。
「おいで」
モニカはいざなわれるままに、サミュエルの膝に座った。
「忘れるわけがない。僕はあの日、雷に打たれたんだから」
モニカは頬を染めながら、ほんの少し疑わしげな視線を彼に向けた。
「とっても、詩的ね」
彼はかすかな微笑みを浮かべた。
「君は僕の思いのほどが、まるで分かっていない」
サミュエルは彼女を抱き寄せ、わずかに眉をひそめて遠い目になった。
「君は一階席に座っていたね。薄紫色のイブニングドレスを着て。手に白と金色のオペラグラスを持っていた」
「え、ええ」
モニカは彼を見ながら、パチパチとまばたきをした。
サミュエルが、彼女の頬に手を伸ばした。
「君が振り向いたときに、直感したんだ。……君は……君は僕の運命の片割れに違いないと──心で分かったんだ」
甘くかすれた彼のささやき。モニカは思わず身震いをした。
少し濡れたエメラルドグリーンの瞳が、彼女の瞳の奥深くを、じっと見つめた。
「ずっと君を探していたんだと思う」
モニカは体中の血が熱く沸き立つように感じた。
「私も、私もよ!同じように感じてた。やっと会えたって思ったの……!」
彼の手を両手で持って、まくし立てた。
「ああ、サラと話しているのを聞いて、あの時は死ぬほど嬉しかった」
サミュエルは彼女を更に強く抱き締めた。
「僕はロイヤルボックスで、隣の男……カートライトを消し去る方法まで、その……考えてた。君の夫かもしれないと思って」
モニカはサミュエルの肩に手をついて、体をのけぞらせた。
「怖いかい?」
サミュエルが少し眉を下げた。
「当然よ……」
モニカは声をひそめた。
そんなことが起こらなくて良かった。
何があっても、サミュエルを愛することをやめられないのだから。
サミュエルは従者を呼んで、新しい浴室に入っていった。
モニカはベッドの上に横になり、胸の上に両手を重ねた。
サミュエルが珍しく、心の内を話してくれた。この部屋に戻って、何か感じるものがあったのだろうか。
モニカは浅い眠りから目覚めた。
薄暗い空間。
天蓋のサーモンピンクのカーテンが隙間なく閉められている。
カーテンの向こうに、ゆらぐ ろうそくの灯りが、かすかに透けて見えた。
モニカの頬が赤く染まった。
サミュエルが、隣に横たわりながら、静かに彼女を見ていた。
熱い彼の眼差しに、モニカの呼吸が速まった。
彼女の唇を何度か指先で撫でると、サミュエルはゆっくりと顔を近づけた。
だんだん、燃え上がるキス。モニカは唇を軽く噛まれて、甘えた小さな声をもらした。
「拒まないんだね」
モニカはギクリと身じろぎをした。
サミュエルは彼女の表情を、探るように見ている。少し警戒した顔をして。
「も、もう、あんなことは起こらないわ」
「どうして?…… 何が君を不快にさせたのか……。言ってくれないと、僕には分からない」
いつもより細い、彼の声。モニカは両手をそわそわと、握り合わせた。
「あの時は、か、体の関係を持つことが、少し……汚らわしいと感じていたの。あなたはまるで何も悪くない。私の、私の心の準備がまだ出来ていなかったのよ」
サミュエルは顔をしかめて、長い間黙りこんだ。
「言ってくれたら、僕は待ったのに……」
深く息を吐き出しながら目を覆った。
別に母の浮気を話す必要もなかったのだ。
モニカはほっとしながらも、うまく説明できなかった過去を少し悔やんだ。
「僕は君とひとつになるたびに、崇高な気持ちになるよ」
サミュエルはモニカを横目で見ながら言った。
「い、今は私もそうよ」
モニカは起き上がり、思いを込めてサミュエルにキスをした。
サミュエルがこの部屋に来て、初めて本当の笑顔を見せた。
「僕たちは、ずいぶんこじれていたね」
モニカは唇を濡らして、目をそらした。
「出ていくと言ったとき、本当は、あなたに止めて欲しかったのよ」
視線を戻すと、サミュエルは大きく目を見開いていた。
「僕は、……とうとう君はカートライトのもとに行くんだと……」
モニカはぽかんと口を開けて、がくりとうなだれた。
「離婚したくなるはずね」
サミュエルは急に彼女を抱き寄せた。
「……君を許せなかった。 でも別れるつもりは欠片もなかった」
モニカは顔をしかめた。
「話し合いをしようとしていたじゃない」
『君の不貞行為と離婚について、話し合いの場を設けたい』
丸覚えするほど、繰り返しあの手紙を読んだ。
サミュエルは彼女の髪に顔をうずめた。
「君を連れ戻すための口実だよ」
「サミュエル……私本当に、怖かったのよ」
モニカが声を震わせながらそう言うと、ひどいことに、彼はとても満足そうに笑った。
サミュエルは上になって唇や喉元にキスを始めた。
彼女の名前をうわ言のように繰り返し呼んでいる。
心配だから……子供が生まれるまで愛し合わない。そう約束しなかったかしら。
モニカはぼうっとした頭で考えた。
サミュエルはキスを緩やかに止めると、うなりながら、ベッドに仰向けに体を投げ出した。
「……誓いを破るところだった」
モニカは胸に手をあてて、余裕のない声でつぶやいた。
「私……自信がないわ」
「僕もだ」
愛し合う歓びを知ったあとでは。
子供が生まれるまで、あと七ヶ月もある。
身動きもせずに見つめ合うと、二人は張りつめた表情で、同時にため息をもらした。
三月
レイクフォード公爵家に新たな命が生まれた。
サミュエルにそっくりな男の子、そしてまた彼にそっくりな女の子。
元気な双子の兄妹だった。




