第13話 ダミアンからの脅迫
窓の開けられた温室。
熱帯植物の葉が静かに音を立てて、そよいでいる。
記憶にあるよりも、内部は明るい。
モニカは手を固く握りしめて、一歩一歩、慎重に温室の中を進んだ。
中程まで進むと、ダミアンが日の当たるガーデンテーブルの椅子に座り、目を閉じていた。
「ダミアン」
深呼吸をしながら、彼を見つめた。
ダミアンは横目で彼女を見ると、懐中時計を確認して鷹揚にうなずいた。
「時間通りだね」
テーブルの上には、花の装飾が描かれたエナメル細工の箱が艶々と光っている。
モニカは下唇を強く噛み締めながら、ひたすらその箱を見つめた。
ダミアンが耳をくすぐるような声で囁いた。
「開けてごらん」
飛びつくように蓋を開けると、中には予想どおり、彼女の婚約指輪が入っていた。
「ああ!ありがとうダミアン……!」
モニカは素早く指輪をはめて、サファイアに強く唇をおしあてた。
「……さあ、座って話をしようか」
ダミアンは立ち上がり、彼女の背中に手を添えて、椅子にエスコートした。
「アビゲイルを泣かせてしまったよ」
ダミアンは笑いながらぼやくと、テーブルをはさんで向かいに座った。
「私がちゃんと管理をすればよかったのよ。アビゲイルはまだ、子供だから……」
モニカは苦々しく口を結んで、目を伏せた。
「大切な指輪を取られたのに、アビゲイルをかばうのかい?」
「え?」
ダミアンは頬杖をついた。
「君は相変わらず、聖女様のようだね」
モニカは髪をいじりながら、腕で顔を隠した。
「からかわないで」
「本気だよ。君のそういう慈愛に満ちた所を、僕は尊敬しているんだ。ウェルズ男爵だって、君がいなければとても暮らしていけなかった」
モニカは、首を何度も横に振った。
「……あなたのおかげよ。仕事も家も与えてくれたんですもの……」
ダミアンは眉間に手をやりながらほほ笑んだ。
「君の、家族への思いに心打たれたんだよ」
モニカは少しこそばゆくなった。
弱った私を精神的に支えてくれたのは、むしろ家族のほうだ。
「君は、何があっても、家族を見捨てたりはしないんだろうね」
しみじみと話すダミアンに、モニカは口元を緩めてうなずいた。
「ええ」
いつものダミアンだわ……
ダミアンはテーブルに肘をつき、口の前で両手をゆるく組んだ。
「それで、返済のことだけど、僕も昨日一晩、よく考えたよ」
「ええ⋯…」
モニカは咳払いをして、足首を椅子の脚にからめた。
「結論としては……僕は全額、帳消しにしても良いと思っている」
そう言うと、ダミアンは彼女の目をじっと見つめた。
モニカは言葉に詰まった。口をあけたまま、ただダミアンを見つめ返した。
「どう?」
「ダっ、ダミアン、あと八千ポンドもあるのよ?」
声が、甲高く裏返った。
「ああ、分かっているよ」
ダミアンがくすりと笑った。
目がヒリヒリとした。
まさかダミアンが、借金を無かったことにしてくれるなんて。
モニカは頭をのけぞらせて、目を強く閉じた。
「ありがとう! 本当にありがとうダミアン! あなたの情けにどれほど救われたことか……。このことは、一生忘れないわ!」
勢いよく身を乗り出して、ダミアンに両手を伸ばした。
ダミアンは差し出された白い手を見ながら、一瞬口元を引きつらせた。
モニカは手を下ろして、うろたえながら座り直した。
何か、ダミアンの気に障ることをしてしまっただろうか。
ダミアンは大きく息を吸い込むと、腕をテーブルにのせて肘を張った。
「ただし、条件がある」
厚みのある声をいつもより低くして、ダミアンは言った。
「じょっ、条件……?」
ダミアンは口の端を片方だけ上げると、浅黒い額に人差し指を押しつけた。
「君も、三年以上結婚しているんだ。男女の機微ぐらい、そろそろわかるだろう?」
モニカは肩を小さく丸めて、視線を落とした。
コツコツと、ダミアンが一定のリズムでテーブルを叩いた。
「……始まりは、もちろん今晩から。その後は時折、君に会いにリーデンに行く」
お願い、それ以上は言わないで……
モニカは汗がにじむ手を握りしめた。
「快適なタウンハウスを借りよう。そこで僕達は過ごす。君はたまに羽目を外すだけでいいんだ。公爵夫人のままで……」
ダミアンは腕を伸ばして、彼女の左手の指輪をからかうように軽くはじいた。
「大丈夫。言わなきゃ誰にも分からない」
ふいに肌寒さを感じた。
スマートで、楽しくて、腹の内を見せないダミアン。
彼との友情が終わろうとしている。
ダミアンとの今までの思い出が、頭の中に次々とよみがえった。
「……あなただったら女性には困らないでしょう?」
モニカはかすれた小さな声を出した。
「モニカお嬢様が他の女とどう違うのか、興味が湧いたんだよ」
モニカはテーブルの縁に手をついて、椅子ごとダミアンから遠ざかった。
「……モニカ、それはどういう意味だい?」
「見たままよ」
真顔のダミアンから、横に目をそらした。
静かな温室の中、息苦しさが強く増していった。
ダミアンのため息が、少し震えた。
「……後悔するよ」
モニカは両腕をつかんで、首を左右に振った。
ダミアンはテーブルから離れると、ポケットに両手を入れて、枯れかけたヤシの木を見上げた。
「ウェルズ卿は、すっかり弱ってしまったね」
モニカはダミアンの背中に、鋭い視線を向けた。
「よほどボートン・ホールを手放したことが辛かったんだね」
「何が言いたいの」
モニカは太ももに爪を立てた。
ダミアンがゆっくりと振り向いた。
「僕は今回、ここを彼に明け渡すことさえ考えていたのに」
「嘘よ」
ダミアンは眉を下げてほほ笑んだ。
「本当だよ。君さえその気になれば、お父さんと弟妹達は昔のようにここで暮らせたんだ」
モニカは焦点の合わない目で、ダミアンを見つめた。
ボートンホールにいた頃の、誇り高く、快活だった父。先祖の肖像画が飾られたホールで、走り回るレナードとサラ。
以前はそれが、当たり前だった。
手足が麻痺したように感覚がなくなった。
「債権は売り払おうと思う。次の債権者は、僕のように甘くはないだろう」
モニカは息を飲んだ。
以前のように激しい取り立てが、また始まってしまう。
「あの様子じゃ、お父さんは長くないんじゃないかい?夜はまだ寒いけれど、路上生活には耐えられるかな」
鼓動が耳に、大きく響いた。
番小屋も追い出すというの?
「やめて……」
「お父さんを助けられるのに、君は断った。君がとどめを刺すようなもんだ」
「やめて!」
モニカはガラスが揺れるほど大声で叫んで、顔を手で覆った。
「サミュエルに、相談に行かせて……。今日の分なら何とか──」
「今日の列車は終わったよ、モニカ」
急に肩に手を置かれて、モニカはビクンと体が跳ねた。
「最後にもう一度だけ聞く。本当に、断っていいのかい?」
ただ、聞いてみるだけよ。
「そ、それは……ど、どれくらい続くの?」
「そうだな……一年にしようか。僕が君に飽きたらもっと短いかもしれない」
ダミアンがモニカの肩をやんわりと揉みながら言った。
思ったより短い。
モニカは真っ青な顔で、ダミアンをそろそろと振り返った。
どこか空虚な顔で笑うダミアンの背後に、モンステラの茂みが見えた。
その向こうには、母が密会に使っていた、籐のソファー。
モニカは顔をそらしてうめいた。
すぐそばで、母の声が聞こえた気がした。
大したことじゃないわと笑うように。
モニカは突然はっと顔をあげて、辺りを見回した。
サミュエルに呼ばれたような……かすかな幻聴が聞こえた。
モニカは顔をしかめて、すすり泣いた。
心の迷いを、彼に責められている気がした。
ダミアンと関係を持ったら……
何食わぬ顔で、彼のもとに帰ることなど、とてもできない。
「ここで何をしているんだ」
今度ははっきりと、うなるような彼の声が聞こえた。
振り返ると、ダミアンの肩を掴むサミュエルがすぐそばにいた。
モニカは無意識に目をこすった。
どうして?
呆然として、サミュエルを見つめた。
サミュエルは血走った目でダミアンを見ながら、歯を食いしばっている。
今度こそ、彼はダミアンと私の関係を確信しているかもしれない。
知らず知らずに、モニカは笑い声をもらした。
次第に体が緩んで、涙がボロボロとこぼれた。
サミュエルは、彼女に視線を移すと、激しくまばたきをして、たじろいだ。
「モニカ?」
モニカは片手で口を覆って、サミュエルに腕を伸ばした。
彼が、ここにいる。信じられない。
神々しくさえ見えた。
サミュエルは彼女の手を取り立ち上がらせると、後ずさりをしてダミアンから距離を取った。
「カートライト、これはどういうことだ」
サミュエルが凄むと、ダミアンは眉を高く上げて肩をすくめた。
モニカはサミュエルの胸に額を押しつけて、ラウンジジャケットをつかんだ。
彼はモニカの背中に片手をまわして、しっかりと彼女を引き寄せた。




