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夕の回想


 




 私がヨシくんと最後にえっちなことをしたのは、ミツが私の体に宿ったのを知る一日前だった。


 段々と変わっていく自分の体、恐怖と変化する体調、気分不安定な状態で仕事を継続できず、休暇を早めにとらせてもらった。


 ヨシくんは、それは尽くしてくれていたと思う。彼の当時の仕事、その激務さを思えば、出来てもせいぜいあのくらいだろう。あの仕事の上で、なお自らの時間を、命を削ってくれていた。


 だけど、私はその視点が消え失せていた。


 私だって命を削っているのだと、対等、いや、見下しているような感覚さえあったかもしれない。


 言い訳にしかならないけど、子供を産むために変貌した母っていうのは、それくらい自分のお腹の生命が大事になるのだ。


 だからこそ、それをしてなお彼に感謝するべきだったのに。


 だったのに……。




 ミツが生まれても、私のえっちなことをしたい欲求は一向に回復しなかった。


 もともと私が淡泊でヨシくんはちょっと旺盛だったこともあり、我慢させ気味だった。


 それが拍車をかけて、一度だけそれをヨシくんから相談された。ちょうど、ミツが一歳の誕生日を迎えた頃だったかしら。


 私は、はっきり言って気持ち悪いと思った。汚いっていうか、触りたくも触られたくもないと。


 育児に全力投球だったからこそ、全く彼にかける余裕がない。それは当たり前のことだと――――全く顧みることさえしていなかった。


 それこそ存在を根っこから拒否するほどに、ミツに触らせようとしないくらいにガードするようになっていた。


 ヨシくんにとって幸運だったのは、小さなミツが女の子向けのおもちゃと同様に、男の子向けのおもちゃにも興味を示すようになったことか。


 私にはちょっと理解できない話や世界を、ヨシくんはしっかり調べて、出来る限り分かりやすく話していた。


 そのあたりは「今の」ヨシくんもそう変わらないけど、やっぱり当時のヨシくんは大人で、素敵な人だった。


 ミツがヨシくんに懐き始めて、ヨシくんがそれこそ私の言う通り徹底して動くようになりはじめ、わたしのヨシくんに対する嫌悪感もいくらか引いていった。


 仕事に復帰し、少しは育児ノイローゼが緩和されたからかもしれない。


 それでも今思い返しても、あまりにも遅い。


 人間として大切だと、性的に大切だと、両方の意味で当時の私は彼に示すことが出来ないでいた。


 そんなこと、頭に全くなかったのだから。




 ミツが言葉を話すようになって、たまに言われるようになった。


 お父さんが時々なんか泣いていると。なんで泣いているかわからないと。


 無遠慮にも私は、ヨシくんにそれを直接問いただして。なんでもないとはぐらかす彼を前に、浮気さえ疑った。


 結婚前の私の貯金からお金を出して、知り合いの紹介で探偵を雇った。


 調査結果は…………、真っ白だった。


 むしろ、ヨシくんの勤務状況の過酷さを図で示されるくらいだった。




『はっきり言って均衡状態だと思いますよ? うん。


 ぎりぎり、分水嶺。僕の目から見て、今の旦那様は吹けば飛んでしまう風船のようなものかと。ちゃんと固定する必要があると思います。何より心を休める必要が』




 その探偵さんの言葉の意味も、私は理解できていなかった。


 単純に、休むと聞いて、仕事を辞めるのかと思っていた。


 冗談じゃないと、彼に怒鳴ってしまったくらいだ。ただ、彼は涼し気に微笑んで流した。慣れていたのかもしれない。私の稼ぎだけで家族三人、将来にわたって暮らせるかなどと考えることもできないでいた。




『「人間として大事」「性的に大事」「貴方以外はいない」と、示すことができていますか?』




 探偵さんのその言葉が、今でも私の胸には刺さっている。


 当時、頭の片隅にさえ引っかからなかったその言葉が。




 ミツが四歳になって、もう一度、ヨシくんから相談があった。いい加減限界だと、えっちなことをしたいと。


 それに、私はやはり全く取り合わなかった。「もう一生しなくていい」とか「貴方としても気持ちよくない」とか、それはもう、さんざんなことを言ってたと思う。


 細かく思い出せない、当時の気分のままに、彼に言った言葉。


 思い返せば、それは何よりひどい罵りであり、彼の背中を撃つ行為だった。




『ナオ……、じゃあ俺は、どこにいったらいいんだ? 俺は、逃げ場所もないのに』




 その言葉の意味が解らなかった。家はここでしょうと、逃げ場所なんていらないでしょうと。


 ヨシくんが会社で倒れたのは、その日の夜だった。


 私はその日、友人と久々に旅行に出かけていた。帰ってきたのは深夜を回っていた。


 携帯電話なんて去年はまだ買ってなかったし、すべてに気づいたのは家についてから。


 急いで病院に行くと、彼と私の両親がいた。


 私の母は、私の頬をぐーで殴った。


 一度だけ叩かれたことがあった。周りに合わせて髪を染めた時。あのときとは、全く重さが違った。


 夫を対等な立場で見ていない。下に見て、いいように考えて、軽んじて、夫の体調も心も全くみていなかった。そう言われても、全く言い返すことが出来なかった。




 病院を紹介したのは、以前私が依頼した探偵さんだったらしい。


 パワハラ、とか、そういう言葉を見舞いに来た彼と話して、私ははじめて知った。




『あまりにひどすぎて裁判できるレベルですからと、一応、資料を当時のものもまとめてありますからね。現在のものについても勤怠表の打刻と会社を出る時間のずれを写真でたまに収めてましたし、裁判はいつでもできるって状態ではあったんですけどね? うん』




 どうやら私とは別に、夫自身が自らの勤務状況のひどさを記録して、裁判の準備をしていたらしい。


 そんなこと、全く気づきもしなかった――――お金の管理もほぼすべて私だったから、そのお金は、結婚前の彼個人の財布から出していたのだろう。夢をかなえるためにと貯めて、でも私と結婚するからと諦めた、そのお金を使って。




『へんしん!』


『あなたまだちっちゃくて可愛いんだから、そんなこの兄? みたいなことしない方がいいわよ……』


「ん?」


「まあ、好きなら好きでしかたないんだけどさ……、なんか納得いかない……」




 ミツは、彼の妹さんらしい赤毛っぽい眼鏡の女の子と遊んでいたから、この話は知らないだろう。


 私はそれでも、倒れたヨシくんに最後のダメ押しをしたのが何なのか、気づいていなかった。




 夫のそれを引き継ぎ裁判のまえに直談判し、会社とは和解となった。


 金額もそれなりにもらい、でもヨシくんが働かない分の補填として完璧とは言い難い状況だった。


 ヨシくんは休職という扱。彼に仕事を過積載させ嫌がらせしていた上司については、私は知らされていない。


 ヨシくんが目を覚ましたのは、一か月後だった。




『あれ、三塚さん? どうしたの、僕の家で……、あれ?』




 自分のおかれてる状況を見て、ヨシくんは嘘みたいな反応をしていた。


 ヨシくんが私を苗字で呼んでいたのは、高校にあがるまでで。僕というのは子供っぽいからと、一人称とかを含めて色々と大人っぽく変えたのも覚えている。


 なのに、まるで昔みたいなしゃべり方をするヨシくん。


 医者の若そうな先生は、私に「落ち着いて聞いてください」と、寂しそうな顔をしていった。


 解離性健忘症。


 無意識のうちに、大きなショックや心の傷、ストレスから身を守るため、該当する記憶を意識から切り離してしまう症状。


 仕事のせい? よくわかっていないらしいミツを抱えながら、私は茫然と話を聞いていた。




『色々話を聞いて分析してみた範囲では…………、んー、なんといいますか。奥様に関係する記憶が起点になっているように思われますね。娘さんのことも認識できていらっしゃらないように見えます』




 倒れてしまった原因は仕事だが、忘れてしまった原因は私だと。


 私が起点だと――――私がショックのもとだと、ストレスのもとだと。


 私の何が悪かったのだと、当時は被害者のような意識が大半を占めた。




 中学生のようなヨシくんは、勉強とか、仕事とか、そういうのは中学生じゃなくて今までの夫のそれだった。


 でも、私との関係については、完全に中学生の当時のヨシくんだった。




『いや、記憶がおかしいのは自覚があるけどね。まさか僕がナオちゃんと結婚するとは……』


『な、んで?』


『だって、ナオちゃん僕のことそんなに好きじゃないでしょ? 昔っから、友達同士のべたべたするのも嫌がるし、一緒に登下校するのも嫌がるし。当然そりゃ、女子中学生だし、女の子友達の方が大事みたいだし。そんな状態だったら、僕、ナオちゃんと一緒にいたいと思わないと思ってさ』


『でも、パパは、私とつきあったのよ?』


『あー、んー……、その、パパっての止めてくれない? そのミツちゃんだっけ、可愛いとは思うんだけど、僕の娘だって気がしないっていうか。だって、ねぇ?』




 その一言で、私は泣き崩れてしまった。


 ミツもびっくしりして泣いてしまって、でもそれをあやすヨシくんに笑顔を見せて。


 それがきっかけで、覚えはなくても娘なのだという理解にはなったらしいのだけど、それでも彼はときどき、微妙に気まずそうな、気持ち悪そうな顔をする時がある。


 そういうとき、ヨシくんは何を思っているのだろうか――――。


 当然、私は浮気などしていない。ヨシくんの赤ちゃんが欲しかったから、ヨシくんと一緒になりたかったから結婚して、ミツを産んだ。


 だからヨシくんの言葉は、それまでの私のすべてを否定されたように感じてしまった。


 彼からすれば当たり前のことでも、私からすればまた違って。


 でも、それを私が攻めることはできなくて――――それが、かつてヨシくんが味わっていた感情だと気づくのに、そう時間はかからなかった。




 私の両親も、彼の両親も、ヨシくんが生きていたことに心から泣いていたと思う。


 一時は命の危険にあっていて――――病院にたどり着き、ヨシくんが坊主頭になっていたのを聞いて初めてそれを知った――――それでも復帰したヨシくんを、双方の両親は感謝すらしていた。


 私の両親は、ヨシくんに離婚を進めた。こんなになるまで気づかなかった私がすべて悪いのだ。理由は半分も理解できていなかった当時の私でも、夫が壊れる前に気づくことが出来なかった、妻というか、配偶者として失格な行為であることに自覚はあった。


 だけど、これはヨシくんが止めた。




『今離婚したってミツちゃんがいるのはかわりありませんし、僕だって記憶がおかしくなってるし、再就職とか厳しいでしょ? あ、復職? でもいいか。それにナオちゃんだけに子育て任せられないし。ご両親に任せるってのも、なんか悪いですし』




 子は鎹、とは言うけど。


 それは、子だけ鎹、ではないのだ。


 最初ヨシくんは私と、夫婦として再生するつもりはさほどなかったらしい。彼の認識では、中学時代三年間同じクラスだった友だちの女の子、というだけだ。それは、当然の距離感かもしれない。


 彼はただ、ミツが可哀そうだからと。自分の理由を言いはしたけど、その目はずっと、お祭りのお面をつけたミツのことをじっとみつめていたからわかる。




 休職してる間、回復が見込めないかもしれない中。結果として私が働き、ヨシくんが家事をすることになった。


 慣れないうちは双方両親のサポートもあったけど、今ではちゃんとできるようになってきている。


 彼ほど激務という訳ではないけど、状況が依然とは大きく変わったことで、私はそれを正しく理解していった。


 ミツのことも大切だけど、今の私は、ヨシくんとの繋がりが欲しい。


 まったく自分勝手だ。自分の気分が向いたときだけ、ヨシくんといちゃいちゃしたいなんて。




 人間として大事にされてはいた。


 でも、性的に大事にはされていなかった。


 彼は「私と結婚していないのだ」、それは当たり前のことだった。


 それは、かつてヨシくんにしてきたこと――――貴方以外は誰もいないと全く示さなかったことだ。


 思ってもいなかったことだ。




 ヨシくんは私に「好意を持っていない」。それは友達だからこそ存在する、明確な一線だった。


 ヨシくんは一緒に暮らすうち、私のだめなところもリストアップして、また私とは違う意見を出したり指摘したりするようになった――――当然私は反発したけど、そこでようやく、話し合いというか、妥協点の探り合いというのが、私たち夫婦の間でできるようになった。


 本当、それは今更過ぎることだった。


 それは、ヨシくんが私を好きじゃないから…………、友達だからこそ、下せる冷徹なジャッジが存在するからこその、私の悪いところを全く気遣わないからこその、初めて成立した話し合い。


 かつての私だったら無理に遮って一方的に意見を押し付けてヨシくんが折れるだけだったそれが、ヨシくんが冷徹に私の意見を切って捨てて、私がぐうの音も出ないことが続くようになったからこその、状況だった。


 逆に言うと、ここまで私に非がある状況にならないと自覚することさえできなかった、自分があまりに、バカだった。




 表向き、私は夫と娘を養っているキャリアウーマンという形式になっている。


 だけど一皮むけば、実情なんてこんなひどい有様……、三文小説でもなんでも、最後はひどい振られ方をして切られる悪妻みたいな、そんな状況。


 ヨシくんに言わせれば「いや、それでも無理に言わなかった僕も悪かったろうし、それに至るだけの不満点もナオちゃんが持ってただろうから、それはお互い様。どちっが悪いとかないよ、たぶん」とか返されるだろうけど。私はそれくらい思ってないと、自分の非をいつか忘れてしまいそうな気がする。


 えっちなこと、夜の生活は、まだ再開できてない。


 というか、今ではヨシくんに拒否されている。




『いや、だって、好きでもない女子相手には無理じゃない? いや、悪いとは思うけど。その……、んん、いくらナオちゃんって呼んでも、僕の中では三塚さんは三塚さんだし』


『…………嫌いだった?』


『そりゃ、僕がマラソン大会で走りすぎて鼻血噴き出したのを、他の女子とからかっている三塚大明神様ですから』




 からかうように言いつつも、顔が引きつっていた。


 よく覚えてるな、と感心するのと同時に、嫌悪感。彼にとっては、それは一年と前のことではないのだ。言葉には当然含みがある。




『それをしても僕が卒業までに付き合い始めたっていうんなら、僕なりにナオちゃんのことが好きだった理由があるはずだと思うんだ。だから僕は、それを信じたい。それにミツちゃんは可愛いしね。あんまり僕の子供だって自覚はないけど、よく見ると鼻とか顎とか僕そっくりだし。


 だから、僕がいつか君のことをまた好きになることを祈って。とりあえず笑いなさい、ナオちゃん顔は可愛い方なんだから』




 ストレートに可愛いと言わないあたり、嗚呼やっぱり彼も私で妥協していたところがあったんだなーと、自分のことは棚に上げて傷ついて。


 でも、それでも色々頑張って、仲良くやろうとして、ぎくしゃくしながらだけど、私たちは家族をやっている。




 家族を…………、やれているといいな。




 





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