昼の後悔
「これで終わり、かな……」
一通り先方の会社に提出する書類の添削を終えて、私は伸びをした。ちょうどお昼を知らせるチャイムが鳴り、私はヨシくんからもらったお弁当箱を取り出す。
袋を開けると小さいお弁当箱の隣に、メモ書きが挟まっていた。
『ミツちゃんが3人で今度遊びに行きたいっていってたから、週末とかどうかな?』
「口で言ってくれればいいのに……」
いや、ヨシくんも私との距離感がわからないのだろう。そうなってしまっている自覚はある。
私は愚痴をそれ以上言わずに、メモ書きの裏面に「いいよ、詳しくはミツ寝てから」と書いた。
「――――うへぇぇぇ、ちかれたッス先輩ぃ」
そんな女子力の欠片も感じないうめき声(断末魔?)みたいなのを出すのは、後輩の飯田橋。グラビアモデルっぽい可愛らしさとスタイルの良さが同居した、正直女の私も嫉妬しそうなくらい可愛らしい女性。
ただ、どっちかといえば性格は下っ端っぽいっていうか、運動部の後輩とかを連想する感じなせいか、女子同士のいがみ合いの対象にされることは少ない。
私は「リスペクトっす! 先輩、結婚して子育てもして旦那さんいい人だし、なんてすばらしいキャリアウーマンっす!」と何故か慕われている。
慕われるような人間じゃないと言ってはいるのだけど、勝手にリスペクトすると言い続けるのでもはや諦めた。
どうやら今日は、営業回りが終わって力尽きて帰ってきてるらしい。
隣の座席に座り、ぐでーっと力を抜いていた。
「どうしたの? はっしー」
「うえぇ、それが先輩ぃ、聞いてくださいよー」
「お昼を食べながらでいい?」
「あ、いいっすよー! 私は、じゃんじゃじゃーん! コンビニおにぎり~、あとチキン」
「不健康よ、野菜ジュースくらい飲みなさいな」
「えー、だって、あのつぶつぶが嫌だし……」
気持ちはわかるけど、このあたりは社会人先輩として少しだけ世話をやく。ちょっとだけ口酸っぱく、まぁ言いすぎにならない程度に言い含める。
夫の作った弁当のふたを開け、食べながら話した。
「お腹の調子も悪くなるわよ? デート中に下ったり、鳴ったりしたら悲しいじゃない」
「う゛、それは、否定できないッスけど……。まぁ、気を付けるっす」
「で、何があったの?」
「何がって訳じゃないですけど……、相手先の、あの、部長さんでしたっけ? なんか色目使ってくる感じがして、気持ち悪かったんスよ」
そりゃそんな無駄に育った胸してたらなぁ、と私は内心に悪口をしまい込む。
「それだけ貴女が美人ってことなんだから、しゃんとしなさいな。ただ、貞操観念はしっかり」
「家庭不和の原因、ですね。そこは、了解してるっすけど……」
「何よ、煮え切らないじゃない」
「いえ、なんっていうか……。あー、食べ終わってから続けます。口に含んでする話じゃないと思うんで」
言いながら、彼女は猛烈な速度で骨なしチキンとおにぎりを平らげる。
そんなに早く食べるのは体に悪いと、これも口酸っぱく言ってはいるのだけど、今日に限ってはたぶん「早く話したい」のだろうと思う。
私も少しだけ、早くお弁当を租借した。
食後十分くらい経って、雑談も多少のってきたあたりで、飯田橋は小声で聞いてきた。
「その…………、先輩って、えっちしてますか? 最近」
むせた。
なるほど、確かに口に物を含んでるときにする話ではない。
「まず一体何があって、その話になるのか、聞いて良い?」
「いや、その……。今日の部長さんのアレを見てて、なんとなく彼氏を思い出したっていうか。最近、アレですよ。忙しくって、あんまり彼氏のメールとか、コメントに返信できてないっていうか」
「それがどう繋がるのよ」
「その、部長さんしきりに『奥さんに相手されてなくて寂しい』とか言って、なんか私に近寄ってきていたんで」
「どう考えても不倫迫る常套句じゃない。ちょっと、こっちの男の営業回すよう言っとくわ。場合によっては抗議しとく」
「あ、どうもッス。そっか、アレがそうなるのか……」
心底疲れたようにため息をつく彼女は「でも」と断りを入れた上で。
「彼氏もなんか、私が相手しないからってそういうことやってるんじゃないかなーって思うと、ちょっと、気持ち悪くて」
「いえ、彼氏さん無実じゃないの。別にやってるわけじゃないでしょ」
「私の完全な妄想っす」
「それ、有りもしない罪をでっちあげてる痴漢冤罪とかと一緒じゃない。彼氏さん可哀そうよ、止めなさいな」
「いやー、それの自覚もあるんスけど、どーにもそういう偏見っていうか。……こう、別に体の関係がなくっても、一緒にいればそれでいいんじゃないっスかねって。そんな訳で、先輩のところはどうしてるかなって思って」
私は一年前のことを思い出しつつ。そしてそれ以前の私たちの付き合いを思い出しつつ。この、なんだか少し落ち込んでいるらしい後輩にアドバイスした。
「そう、ね。まぁ…………、子供が生まれる前と後とで、違うって言ったら違うかしら。ただ共通してるのは、相手を思いやらなきゃダメってことかしらね」
「思いやる? って、当たり前じゃないっすか」
「そう? でも、さっきの言い方って結構思いやりがなく感じたけど」
え゛、とだみ声みたいなのを出すはっしー。
漫画みたいねと思いながら、私は苦笑い。
「一緒にいれればいいって、彼は別なこと思ってるかもしれないでしょ? だったらそれを一方的に迫るのは、卑怯じゃないかしら」
「一方的って言ったって、こっちが言ったら『そうだね』って返してくれるっすよ」
「面と向かって?」
「いや、メールで」
ダメじゃないの、と、私はヨシくんの泣きそうな顔を思い出しながら続ける。
「言葉だけで相手の思ってることって、全部わかるわけないじゃない? もちろん、ボディランゲージを含めたって全部はわからない。でも、ヒントにはなるかもしれないし、なにより一緒にいれば、それだけ相手と自分との時間を共有できる。触れ合ってるだけで、それだけでも幸せなものじゃない?」
「いや、真の愛って、そういうんじゃないっすよね、たぶん」
「真の愛って何かしら。相当難しい問題だと思うけど」
「う゛…………。たまーにメールじゃ、だめっすかね」
「その調子だと貴女、フられるわよ」
「ええ!? なんでですか!」
「別に、えっちなことが必要かどうかは関係によるとは思うけど……。うちの旦那はハグくらいで多少は落ち着いてた人だし。でも、じゃあ貴女、彼に女として何か求められてるって言える? 求められて、答えてるっていえる?」
「別に最近、そんなこと言われないですし…………」
「最近ってことは、昔は言ってたんじゃない?」
「まぁ、デートを最初の頃に色々言ってきたんで、適当に断ってたら滅多に誘われなくなりましたけど……」
今じゃこっちが誘う側っすよ、と嘆くように言う。その反応だと、まだ勘所が分かってないようだ。
「それって、もう貴女に何か求めること放棄してるわよ。えっと……、下手すると、精神の病気になっちゃってるかも。軽い鬱とか」
「病気?」
「そっくりそのままさっきの言葉返すけど、最近、彼氏とえっちなことしてる?」
「あ、その………」
「下手すると勃たなくなっちゃってるかも」
「………………………………………………………………」
「え? そんなことで!? デリケートすぎません!!?」
その言葉が返ってくる時点で、最近彼とえっちなことしてないんだろうなとは思った。まぁ、さっきのやりとりからしてもそれは伺えたけど。
「そういうものよ。というか、えっと、彼氏さんってそもそも真面目な人よね? たぶん」
「私は初彼氏っす。あんまり浮ついた感じの人じゃないっす」
「はっしー、別に彼のこと嫌いなわけじゃないのよね」
「あー、まぁ…………」
「結婚はしたい?」
「向こうからは言われてるけど、私はそんな感じはまだ……。でも、先輩見てるとまぁ、彼と結婚するのかなーって感じには思ってます」
「えっと……」
結構ストレートに酷なことを言いたくなるのを抑えながら、私は言葉を選ぶ。
「じゃあ、貴女さ、はっしー? 彼のどこが良いの? どこが良くて、結婚前提につきあってるの?」
「えっと、まぁ、話していた楽しいところとか、趣味が合うところとか」
「それが少しでもずれたら、結婚しないの?」
「あー、それはっすね、えっと…………」
「結婚するって、そういうことよ。ずれても、別れないってこと。良い面も悪い面もみて、一生やっていくってことじゃないの。
はっしーはそれくらい軽い感じで彼と付き合ってるかもしれないけど、結婚前提にみたいな話で、なおかつ心のつながり含めて何も求めさせなかったって…………よっぽど精神力がある人か、浮気してるか、さもなくば病気よ。
というか、病気になっちゃったのよ。貴女とつきあったことで」
ぽくぽくぽく、と、昔のアニメで聞いたような木魚の音が流れた気がする数秒。フリーズするはっしーに、私は打つ手なしとばかりに肩をすくめた。
「あの…………、私、彼にひどいことしてました?」
「彼のさ、その、趣味が合うとか、それ以外について何か知ってることってあるの?」
「…………あんまり、てへっ」
「重症じゃない。いえ、その、もうちょっと自分の言葉に責任もちなさいな」
これまたしばらく、ナウローディング、みたいに硬直して思考するはっしー。
「浮気は……、できるような彼じゃないっす。なんか、こう、昔そういうのでフられたらしくて、するくらいなら死ぬって」
「だったら、なおのこと。彼のその、貴女と触れ合いたかったって衝動はどこに行ったらよかったのよ。悶々として、どうしようもなくて、自分を傷つけて、大好きなはっしーに怒りの感情を向けるかもとか思わない?」
「いえ、でも、先輩? 私も当時、入社したてで忙しかったし、仕事覚えるの大変で疲れたし。大学のときも、論文とか就職活動とか」
「彼だって条件は同じで、それでも会いたいって言ってたのよね」
「大学違うっすから、彼より私の方が大変っすよ」
「それは、個々人の感じ方によるから。でも、それでも会いたいって言われてたのよね」
「言われてたっすね」
「もう、自発的に誘ってこなくなったのよね」
「誘ってこないっすね」
「…………ねえ、普通じゃないって、思わない? というか、普通、彼氏彼女だったらデートくらいするでしょ。どっちも誘うものじゃない?」
私とヨシくんだって、会社も違えば時間もなかなか合わなかったけど、それでも休日とか、あとは夕食の時間とか無理やり都合をつけてデートしてたものだけれど。そういう努力が、はっしーからは全く感じられない。
「その……」
「断ったあと、誘ってこなくなったのはどう思ってたの?」
「その、気分じゃないのかなって。楽だなって」
「それ末期よ末期……。もっと相手のことを理解しなさいな。そういうことして、相手が本当はどう思ってるか洞察しなさいな。そして理解して相手の立場に立って返事してあげなさいな。
別れたくはないのよね?」
「まあ、うん。趣味ちょと変わってるのもあるし、私、性格ヘンなんで、合う人なかなかいないし……」
「愛してるの?」
「好きっすけど……、愛って、何っすか?」
「『愛する』って行動よ。たぶん、私も最近気づいたんだけど」
かかる事柄は、ヨシくんが入院するまで完全に気づいていなかった私の落ち度が大きく。結果として今のヨシくんと私の状況は、最終的に私が悪いのだろうということは自覚があった。だからこそ、同じ間違いをふみそうな、というかもっと酷いことをしそうな後輩に、ダメな先輩から忠告。
「夫婦だったら、それは、『人間的に大事だ』ってことと『性的に大事だ』ってこと、両方を行動で示し続けることだと思うわ。『あなた以外を受け入れたくない』って、特別だって示すことじゃないかしら」
「性的……」
「いえ、まず人間的にじゃないの? なんで大事に思ってる相手の頼み、そうやすやすと断れるの。無理があるなら妥協点を相談して決めさないな。彼は貴女のための全肯定マシーンじゃないのよ? 共感できないこともあるから他人で、だからこそ話し合う必要があるから」
あえて、えっちな行為そのものについて私は触れない。それは二人で一緒に高めあうものだと、以前のヨシくんから言われてたけど、残念ながらそれを私が理解する前にヨシくんは「ああなって」しまった。今の私があれこれと言える立場じゃない。
「下手すると貴女、浮気はなくても、もう愛されてないかもしれないわよ」
「それは――――、なんか嫌っす」
「趣味が変わったら、離別するかもしれないのに?」
「それとこれとは、違うっていうか。プライドの問題?」
「貴女、そんなんだと結婚向かないわよ。その……、なんか、前にネットの掲示板で見たんだけど」
若干眉唾なところもあるけど、私自身、納得したところもある意見を述べる。
「本能で、嫌だとか、そういう感情をもったとしても、それを往なして話せるのが人間だって」
産後、ホルモンバランスが乱れ子供第一になり、旦那を汚いものと拒否していた奥さんが。
後年、子供が学校に入り時間が空き余裕が出来た時、今度は旦那から汚いもののように拒否されるようになった後悔に対する返答だった。
あまりにも身につまされすぎていて、未だに時々、私も泣く。
「反省しても行動に移してないなら、一緒じゃない?」
「でも……、なんか、顔、あんま格好よくないんですよ」
「それは逆よ。全く受け入れられないわけじゃないんでしょ? 告白された当時」
「まぁ、今でもっすけど」
「全く無理だというのなら、流石にちょっとってなるけど。それ、言い訳になってると思うわよ。OKできるくらいに受け入れられる素地があるなら、そこからさらに好きになるかどうかなんて、貴女次第じゃない」
「私次第とか言っても、整形するとかそういう話じゃないっすよね……」
「服装が嫌なら一緒に出掛けて似合う服を示したり、逆に相手の家に行ってコーディネイトしたり。そういうのが彼女の腕の見せ所じゃない」
「あっ」
「それに言いたくないけど、彼だってはっしーの全部が好みって訳でもないと思うわよ。それでも愛せてたってことは、それだけ覚悟があったってことじゃない?
だって、彼にだって選ぶ権利はあるんだし」
「――――――――あ、」
盲点だった、と言わんばかりに茫然としているはっしー。
数秒すると、段々と、目から涙があふれてきていた。
「あ、あ……、ああ…………、」
「なんか……、重症ね」
「先輩…………、どうしよう、私、ふられちゃうっす…………」
「どうして?」
「私……、選んでたの、私だけだって思ってたっす……、彼に選ばれたって感覚、なかったッス…………、彼だって、私以外の相手を探すことが出来るんだって、なんか、わかってなかったッス…………」
「なんで泣いてるの、ちょっと繋がらないんだけど」
「今まで知り合ってきた中で、彼くらい、ちゃんと私に付き合ってくれる人、いなかったッス……、考えたら、無理してたと思い出したッス、予定とかもあったのに…………、私の都合だけで、無理に…………、」
「そう」
「……彼しか、彼しかいなかったッス。ほかにも、いるかもしれないけど……、彼が一番、私を大事にしてくれるんじゃないかって、そう思ってたから……、でも、私、私、全然彼大事にしてなかったッス……」
「じゃあ、別れは貴女からつきつけじゃダメよ。その選択肢は彼にあるべきだから」
「私、私……」
「付き合い方を改めるにしても、まぁ順番はあるだろうし。すぐにとはいかなくても、がんばりなさい?」
大声を上げて泣きわめいたりはしなかったけど、はっしーはその場でしばらく動けず、うずくまって。
頭冷やして彼に謝ってくるっす、と、午後有給を申請し、化粧の崩れたまま勢いよく会社を飛び出していった。
「今日休みなのかしらね、彼」
そんなどうでもいいことを思いながら、私はケータイの待ち受け画面を見る。
生まれたてのミツを抱えた私と、おっかなびっくりなヨシくん。
もう戻ってこないかもしれない「私の夫の」ヨシくんの、不器用で、でも愛しい姿がそこにあった。




