〈十一〉
スーパーで買い物をしている時、真由は富美恵とバッタリ遭遇した。
正確に言うと、富美恵は商品を見回していて、真由が一方的に気付いただけだ。
(声を掛けづらい気分やな)
それは今までのような、「いけ好かない女だから顔を合わせたくない」という気持ちとは、ちょっと違う。この前の出来事があったので、気まずさを感じたのだ。
(というか、わざわざアタシが声を掛ける必要は無いんや。特に喋るようなことも無いしな)
その時、富美恵が真由に気付いた。
「あれっ、久しぶりやね」
(げっ、見つかった)
真由は軽く舌打ちをした。
向こうが声を掛けてきた以上、無視するわけにもいかない。
仕方が無いので、真由は富美恵の方を向いた。
「今日は、お買い物?」
富美恵は明るい調子で質問してきた。
(相変わらず、アホな女やで。スーパーに来て、買い物以外に何をするねん)
「そうや」
「私も買い物やねん」
(それも分かってるっちゅうねん)
ここはスーパーで、持っている買い物かごには商品が入っているのだから、他に目的は考えられない。
(これで買い物じゃなかったら、完全に万引きやがな。それも、かなりオープンな)
「平日は、なかなか買い物に行かれへんから、週末にこうやって買い貯めするねん」
「へえ」
真由は短く相槌を打つ。
他に言うことなど無い。富美恵の私生活に、関心は持っていない。
(しかし、全く変わった様子が無いな、この女)
ものすごく普通に、何事も無かったかのように、富美恵は明るく振舞っている。取り繕っているような素振りも感じられない。
この前、あれだけ厳しい言葉を浴びせられたのだから、気まずそうな態度を見せても良さそうなものだが、それが全く無い。
(ちょっとぐらい暗い雰囲気でも出してくれんと、こっちが困るがな)
めげている様子が見られないことに、真由は戸惑いを覚えた。
もしかして忘れているのではないかとさえ考えたが、そんなことは無いだろう。
(ということは、よっぽどタフなんか、何も考えてないか、どっちかやな)
「あのな、真由ちゃん」
また富美恵が口を開いた。
ただし今度は、少しためらいを見せてから、次の言葉に移った。
「この前、真由ちゃんに会った時のことなんやけど、謝らなアカンなあと思って」
「なんでや?」
思わず真由は、そう尋ねた。
どう考えても、こっちが悪かったと、彼女も自覚している。謝罪を受ける意味が分からない。
「あの時は、私の配慮が足りへんかったから」
富美恵は本当に申し訳無さそうな表情を浮かべた。
真由は一瞬、冗談なのかもしれないと思った。だが、相手の真剣な眼差しを見れば、心底から悪いと思っていることは伝わってくる。
(まあ、こんな場面で冗談を言う奴はおらんわな)
「あの時の真由ちゃんの様子を見たら、私はすぐに帰るべきやったと思う。そんなつもりは無かったけど、後から冷静になって考えたら、真由ちゃんを傷付けるような態度になってたと思う。ホンマにごめんね」
そう言って、富美恵は頭を下げた。
(おいおい、こっちの方が悪いのに、アンタがキッチリと謝るんかい)
真由は恥ずかしくなった。
彼女の中には、前回の対応は少しキツすぎたという思いがあった。だから、富美恵に謝ろうとする気持ちが、無かったわけではない。
一応、その場合のセリフは考えてあった。
「あの時は、ちょっと言いすぎたわ。なんかイライラしてたんや。それで、つい八つ当たりしてしもた。アンタは、なんにも関係無かったのに。ホンマ、悪かったと思ってる」
大体、そんな感じのセリフだ。
実際に口に出すかどうかは別にして、そういう気持ちを少しは持っていた。
ところが、先に向こうが謝ってきたので、どうにも調子が狂ってしまった。
こうなったら、もう自分から謝ることは出来ない。
(だって、なんかカッコ悪いやんか)
「もう、エエやろ」
真由はそっぽを向いたまま、静かに告げた。富美恵の方を見ることが出来なかったのだ。どこかに後ろめたさがあったのかもしれない。
「もう水に流してオシマイっちゅうことで。それでエエんとちゃうか」
(ごっつい偉そうな言い方やなあ)
自分で口にしておきながら、真由はそんな感想を抱いた。
(でも、向こうが下手に出たんやから、そんな態度になっても仕方が無いやん)
「真由ちゃん、もう私のこと、怒ってないの?」
「別に、怒ったりしてないよ」
真由は淡々と返答する。言葉だけでなく、実際に怒りは無い。
「それやったら、また真由ちゃんの家に遊びに行ってもいいかな?」
富美恵が聞いてきた。
(態度と裏腹に、そこは全く遠慮してないな。この女、また家に来る気かい)
その申し入れに関しては、真由は簡単に承知する気になれなかった。
どう返答しようか考えていると、急に母の顔が脳裏に浮かんだ。
なぜなのかは分からない。
しかし、母が登場したことで、真由の考えは固まった。
「……別に、来てもエエけどな」
真由は、ぶっきらぼうに告げた。
積極的に歓迎するわけではないが、「別に来ても構わない」という程度の気持ちにはなったのだ。
それを聞いた途端、富美恵はパッと晴れやかな表情になった。
「ありがとう、真由ちゃん」
富美恵は嬉しそうに言う。
その言葉や表情には、何の裏も無いように思えた。
そんな様子を目にしたことで、真由の中に一つの質問が浮かんだ。
なぜか分からないが、ポッと浮かんだのだ。
そして、そんなつもりは無かったのに、その質問を口に出した。
「アンタ、お父ちゃんのこと、好きか?」
真由は富美恵に質問した。
(何をアホなことを口走ってんねん。こんな場所や状況で尋ねることと違うやろ)
真由は自分の発した言葉に慌てた。しかも冗談めかした言い方ではなく、完全に真面目な口調である。
(なんかアタシ、テンションがおかしくなってる)
ただし真由の中では、たぶん富美恵は明確に返答せず、はぐらかすだろうという気持ちがあった。そして、それでも構わないと思った。
何しろ、即座に質問を撤回したいような気分だったのだし。
富美恵は最初、戸惑いを示した。
だが、真由を見て、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。
「うん、好き。私は、真由ちゃんのお父さんのことが好きよ」
彼女は言った。
真由は、富美恵をじっと見据えた。そして、その言葉の本気を感じ取った。
「お父ちゃんはアンタのこと、どう思ってるんや?」
以前、真由は父から、富美恵のことは何とも思っていないと聞かされている。だが、富美恵の中ではどのように感じているのか、そのことを知っておきたかった。
すると富美恵は、しばらく間を置いてから答えた。
「分からへん。でも、好きになってくれたら嬉しいと思ってる」
その言葉は、真由の心にズバッと飛び込んだ。
(なんかバチコーンと来たなあ)
ちょっとドラマのワンシーンみたいだと、真由は感じた。
舞台がスーパーマーケットというのは、どうかと思うが。
(ちょっと待てよ、これがドラマやったら、アタシは富美恵の邪魔をする役回りになってるんか)
そんな悪者になるのは嫌だった。
だから真由は言った。
「もしも本気でお父ちゃんのことが好きやったら、別に応援したってもエエで」
それが本心かどうかは、自分でも判断が付きかねた。
この場面で、そういうセリフを吐いたらカッコいいんじゃないかという気持ちがあったことは否めない。
(ドラマのワンシーンっぽいねんから、おいしいトコを持って行きたいやんか)
それが完全に虚飾だけの芝居だったのか、本心を隠す照れ隠しだったのかは、微妙なところだ。
ともかく真由の中では、そのセリフで、この場面における自分の役目を終えたつもりだった。
富美恵は、真由の言葉を聞いてポカンと口を開けた。想定していなかったことを言われて、驚きと戸惑いに包まれた様子だった。
だが、すぐに自分の中で噛み砕いたらしく、笑顔と泣き顔が混ざったような、複雑な表情を浮かべた。
「真由ちゃん、ありがとう」
そう言った富美恵の目は、心なしか潤んでいるように見えた。
(へえ、そう来るか)
真由は、スッと視線を外した。
(この女、意外とエエ奴かもしれへんな)
*****
「いよいよか」
真由はベッドに寝転びながら、独り言を口にした。
明日、母が家に来る。
父も含めた三人で、話し合うことになったのだ。
話し合いは、真由が今後、両親のどちらと一緒に暮らすのかという内容が中心になるだろう。それに関連して、色々と細かいことを決める流れになるかもしれない。
ただし実際のところ、真由には話し合うことなど何も無かった。
彼女の中では、もう答えは決まっているからだ。
父と母が自分達の考えをどれだけ吐き出したところで、最終的に決めるのは真由のはずだ。
(だからホンマは、話し合いもへったくれも無いんや)
とは言っても、一度は両親が面と向かって話をする機会も作っておいた方がいいだろうし、お互いに気の済むまで喋ってくれればいいと、真由は思っていた。
(表現は悪いかもしれんけど、大人同士で勝手にやってくれっちゅうことや)
母が高木と結婚する意思を打ち明け、夜になって電話を掛けて来た日があった。あの日が、真由の心情を大きく変えた転機になった。その数日後には、ボンヤリとではあるが、真由の腹は決まりつつあった。
そして今では、もう完全に答えは固まっている。
本来ならば、もっと長い時間を掛けて決めるべきなのかもしれない。
だが、こういう問題はスパッと割り切ることも大事だと、真由は考えた。
(親が離婚したことも、どっちと暮らすかってことも、そんなんはアタシの中では、もう終わってる話やねんな)
今になって、「どちらが引き取るか」などと言い出されても困るのだ。
そんなことより、他にも頭を使うべき問題は色々とある。
(じゃあ例えば何かって聞かれたら、ちょっと困るけどな)
しかし例えば、タエボンのこともそうだ。
タエボンが告白して玉砕した日のことを、真由は思い出す。
ヒロヤを殴った後、真由はタエボンを追い掛けた。姿を発見できなかったので、とりあえず教室に戻ってみた。するとタエボンは、自分の席に座っていた。
(そのまま学校から消えへんのは、タエボンらしいというか、なんというか)
タエボンは机に突っ伏して泣きじゃくっていた。その様子に気付いたクラスメイトが近寄り、
「どないしたん?」
「何かあったん?」
などと口々に言っていた。
真由は慌てて駆け寄り、
「なんでも無いから、ほっといたって」
と告げたが、それで追い払える状態ではなかった。野次馬の喧騒は、さらに大きくなる一方だった。
そんな中、タエボンが
「ウウッ……」
と小さく唸った。
それは悲しみの嗚咽ではなく、明らかに苦しそうな様子だった。
「どうした、タエボン?」
「お、お腹が痛い」
タエボンは顔を歪め、か細い声で言った。
(このタイミングで腹痛ってか)
そう思いつつも、真由はタエボンを保健室へ連れて行った。本来は保健委員の仕事だが、今回は特別だ。他の生徒に任せるわけにはいかない。
タエボンは午後の授業を受けずに、そのまま早退した。
真由は当初、タエボンが腹痛を訴えたのは、失恋のショックで肉体に異常が生じたのだろうと思った。フラれたことが精神的に辛くて、そのまま学校を早退したのだろうと思った。
だが、実際には、腹痛の原因は全く違っていた。
軽度の虫垂炎になったのだ。
それを知った真由は、心配しつつも脱力した。
しかし、だからと言って、タエボンに失恋の痛手が無かったわけではない。やはり、心の傷は受けている。
しばらく学校を休んだタエボンだが、三日前から登校するようになった。
表面上は、幾分か立ち直ってきた兆しが見られる。しかし、まだショックを完全に払拭できているわけではなさそうだ。
真由は、自分にも責任があると感じている。それもあって、タエボンには一日も早く元気を取り戻して欲しいと願っている。
だが、言葉で励ましたり慰めたりすることが、その助けになるとは思えなかった。むしろ、逆効果になるのではないかと懸念した。
だから真由は、あえてヒロヤの一件には触れないように努めた。何事も無かったかのように、ごく普通に接することにした。
たぶん、しばらくしたら普段通りのタエボンに戻るだろうと真由は思っている。
(こういうことは、時間が解決してくれるんや)
「大体、たかが男にフラれたぐらいで、いつまでもウジウジしてたって始まらへん」
回想を中断し、真由はベッドから起き上がってつぶやく。
「タエボンは、しょうもないことでショックを受けすぎやねん」
(男が欲しかったら、次を探せっちゅう話やで。あんなボケナスのヒロヤなんか、さっさと忘れてしもた方がタエボンのためにもなるし)
そのヒロヤは、「先生に言う」「後で仕返しする」などと言っていたが、現時点では、何も行動に移していない。真由は先生に呼び出されることも無ければ、ヒロヤに殴り掛かられることも無い。
学校でヒロヤと顔を合わせることもあるが、真由に気付くと、そそくさと立ち去ってしまう。たぶん怖がっているのだろう。
(情けない奴やで。もうちょっと男らしくせんかい)
ヒロヤに比べたら、まだゴイラの方が、少しはマシかもしれない。
(ゴイラはゴイラで、別の意味で情けないけどな。というか、うっとおしいわな)
相変わらずゴイラは、くだらないことでゴチャゴチャと挑発してくる。
昨日は昨日で、迫って来た卒業式を材料にして、からかってきた。
「高野は卒業式でも絶対に泣かへんやろな。お前は鉄で出来てる女やから、涙なんか体の中に入ってないやろ。それに、泣いたら鉄の体が錆びてしまうか。まあ、お前が泣いても気持ち悪いだけやしな」
そんなことを、嘲るような口調で言ってきた。
(いつも通りの低レベルなセリフや。ちょっと上手いこと言うとるけど)
「はいはい、泣きません、泣きません」
面倒だったので、真由は軽くあしらった。
実際、たかが卒業式ぐらいで、絶対に泣かないという自信があった。
そんなもので泣くほど、学校に思い入れは無い。授業も面白くなかったし、先生への感謝も無い。
(大体、担任の佐々木先生からして、生徒を親身に思ってるっていう勘違いがあるし)
未だに佐々木先生は、妙に優しく真由に接していた。それが真由にとっては、心底から疎ましい。
結局、真由が学校や先生から教えられたことは、何一つとして無かった。
(あえて教わったことを挙げるなら、学校はつまらん場所で、先生はくだらん連中やっていうことかな)
「くだらない」というキーワードで、真由は全く別のことを思い出した。
それは中西さんトコのオバチャンのことだ。あの人が、くだらない噂を流し始めているらしい。それは、真由が家庭内暴力で父を困らせているという噂だ。
その噂を知った時、妙に信憑性があるなあと、真由は他人事のような感想を抱いた。
(アタシやったら、家庭内暴力の可能性もありそうやし)
誰が何を言おうと、真由は別に構わなかった。だから、ムキになって中西さんトコのオバチャンに抗議する気は無い。むしろ、ちょっと面白いので、しばらくは放置して様子を見ようと考えている。
近所で自分がどんな人間だと思われても、どうでもいいことだった。
(いつまでも家におるつもりは無いしさ)
高校進学か、遅くても大学に行く時には、真由は家から遠い学校を選ぶつもりだ。
なるべく早く家を出て、一人暮らしを始めるのだ。
そして将来は、母のようなキッチン・コーディネーターの仕事をする。いずれは母より有名なキッチン・コーディネーターになり、母の仕事を奪ってやろうと真由は密かに思っている。
(どうやったらキッチン・コーディネーターになれるのかは知らんけど、どうにかなるやろ)
だから真由は、自分が家を出るまでに、父と富美恵をくっ付けておきたいと考えている。そうしないと、父の面倒を見る人間がいなくなるからだ。
ただし最近は、泰彦も休日になると料理をするようになり、少しは上達の気配を見せている。
この前はオムレツに挑戦していた。形はかなり崩れていたが、また作ろうという意欲は見せていた。
なので、ひょっとすると真由が出て行く頃には、自分の食事ぐらいは用意できるレベルに達しているかもしれない。
とは言っても、やはり一緒に生活する人間がいた方が、何かと都合がいいだろう。
(たぶん無いとは思うけど、他の知らん女が入って来ることを考えたら、まだ富美恵の方がマシやろ)
父と富美恵の関係について、真由は少し気になったことがある。
それは、母と高木のように、実は内緒で付き合っているのではないかということだ。そして真由の前では、何も無いようなフリをしているのではないかということだ。
しかし真由には、父がそこまで器用な隠し事を出来るような人には思えなかった。それに、スーパーで富美恵が「ありがとう」と告げて目を潤ませたのも、偽りの態度とは思えない。
まあしかし、二人が隠れて付き合っていたとしても、そんなことは正直、もう真由にはどうでも良かった。
(お母ちゃんも他の男とくっ付いてるんやから、お父ちゃんも同じようにしたらエエねん)
だが、もし富美恵が父と結婚したとしても、絶対に「お母ちゃん」と呼ぶ気は無い。
フレンドリーには接してもいいが、母親としては認めない。
それは絶対だ。
(アタシには、もうお母ちゃんは必要無いし)
富美恵だけではない。裕子に対しても同様の気持ちだ。
(昔のお母ちゃんも、新しいお母ちゃんも、どっちも要らん)
だから真由は、明日の時点で、裕子とはケジメを付ける意思を固めていた。
向こうが会いたいと言って来ても、今後は会うつもりなど無い。
明日、母が来たら、真由はハッキリと告げるつもりだ。
付いて行くつもりは無いと。
一緒に暮らす気は無いと。
そして最後はニッコリと笑って、こう言うつもりだ。
「ほな、さいなら」と。
【完】