第16話 元獣は哀を理解する
「グルルル!」
脳を揺らされた巨狼は後へ後ずさり、小さな拳の後を残した眉間を器用にも前足で押さえながら頭を左右に振るう。
『うぐぅ、これは驚いた』
「なっ、しゃ、喋ったじゃと!?」
今まで唸るか威嚇するか吼えるかだけしかしなかったはずなのに人語をいきなり話したのにヒデは驚嘆した。
『うぬぅ~、まだうまく聴き取れんが、どうやら驚いているようだな。なんだ、貴様、我が喋ることができないと思っていたのか?』
それは口を少し開いた後まったく口を動かしていない。
モモは人間に埋め込まれた魔道具によって人間の言語を相手に伝えることができている。
元々獣には言葉を発することができない。何故なら、口の構造が喋れるようなものではないからである。
しかし、目の前の狼は言葉を発した。それはつまり口ではなく何か別の物で口の代用をして言葉を発しているということ。
「……獣が人語を話すか……これが魔法かのぉ?」
『魔法……確かにこれは人間の世界で言う魔法だ。しかし、我はそんな風には言わん』
「……なぜ?」
特に興味はなかったが巨狼と話していると何故か周りのマシラ達は動こうとしていない。理由はおそら恐怖しているから。
なら、できるだけ話を伸ばして体力の回復に専念しよう、と考えたが為に、ヒデは続きを促した。
『我々は獣、人ではない。縄張りは作るがそこには人間のようなルールや法などは存在しない。己の力を一々何かに当てはめ名前を付けるなどと、無駄以外の何物でもない』
確かに、とヒデは思った。
何故使えるのか、この力は何なのかなど考える必要性がヒデ自身でも思いつかない。使えるのならば使えばいいし、使えないのならば使えるもので代用すればいい。
それに自分の力が一体何なのかを考える暇があるのならばその日の食料を確保しに行く方が何倍もましだと思える。
「それには同意見じゃ……のぉ、話は変わるが、なぜいきなり儂を攻撃してきた?」
『不気味だからだ』
その答えはたった一言で片づけられたが、まさに獣だからこその答えだと思えた。
『人の形をしているがその在り方は我々と同じ獣。人であり、獣でもある。我は貴様の存在がまったく理解できん』
巨狼は不思議なものを観察するかのようにヒデから視線を逸らそうとしない。
その体格として比例して同じく巨大な瞳に見つめられたヒデは、滂沱のような冷や汗を流し、体の震えが止まらくなってしまった。。
「わ、儂も、儂が何なのか、し、知らん、のだ……」
震えながらも必死に口を開く。
『ふむ……まぁいいだろう。だが、お前、良いのか?』
「な……にが、だ……?」
『あれだけの大きな音をたてたのだ。貴様は、あれほどの大きな音を聞き取ったら、いったいどう行動する?』
上から見下ろされながら告げられた言葉にヒデは目を驚嘆に染め顔色を変える。
もし、大きな音が聞こえたならば、きっと好奇心に負けて見に行ってしまう。そして、そこに小さく弱そうな餌を見つけたら、暇つぶしの玩具を見つけたら。
そこまで考えたヒデは、痛みを忘れ血を流しながら走った。硬い石や枝を踏みつけて傷だらけの足をさらに傷つけながら走った。
獣には命よりも大切なものなんてない。だから、獣は一度家族と認めた者の命をできる限りの全てを用いて助ける。
「キキィ! ッ!」
背中を見せて逃げ出した獲物を追いかけて殺そうとして飛び出したマシラの一匹は派手に弾け飛び赤い染みをあちこちに作り出した。
周囲にいたマシラ達は同時にある一点を見つめ、数歩後ろに下がったが逃走はせずにその場に立ち止まった。
『……』
マシラ達が見つめる巨狼は血が付いた己の前足を地面で拭き取る。まるで汚いものを踏んでしまったかのように拭き取ると、それは徐々に遠ざかっていく小さな青を見た。
巨狼は別にマシラを止めずに行かせてもいいと思っていた。この世界は強い者が生き、弱い者が無様に死ぬ世界。たったそれだけのルールしかない世界。
家族でも番でもない弱者に人間の言う義理立てをする理由はない。
だが、自分の体はマシラを殺すことで止めていた。それだけならまだ単なる気まぐれで終わることができる。だが、心の中で正しいことをしたという思いが浮かんでいるという現実が巨狼をさらに困惑させる。
「グルゥ」
考えても仕方がないと思いたった巨狼はゆっくりと重い腰を上げて歩き出した。
走った。我武者羅に走った。
モモの匂いをたどろうとしても全身を湿らせる血の匂いが強烈で判別ができない。乱雑に生える巨木の間を地面を踏みしめて走る。泥のように纏わりつく倦怠感も、体中を蝕む痛みも無視して走る。
体中から滴る汗が傷口に触れて痛みが増す、休ませろと筋肉が悲鳴を上げる。後先を考える余裕がない。ただ、家族を守る、ただの口約束を守るために前進し続ける。
「!」
何か柔らかく大きなものに足を取られ無様に頭から倒れ込む。
足を取った物に視線を向けるとそれは獣が食い漁った敗者の姿。その姿が今の自分と重なるも、そんな不安は振り払う。
ズキズキと痛む体を無視して立ち上がる。体に纏わりついた砂利が、音をたてて地面に帰る。
震える足で硬い地面を踏みつける。ここにきて体力の低下が顕著に表れてきたことをヒデは実感した。
(足に、力が入らない)
地面を踏みしめる日本の足が震えている。明らかに限界が来ている。
もう十分頑張った。もう休もう。
そんな甘美な誘惑に今すぐに縋りつきたくなった。
「う、ご……けよ……」
とっさに出た言葉が幼少の頃のアイデンの口調のような乱暴な言葉使いとなった。
こんな状態で亜獣に遭遇すれば蹂躙されることは確実。それでも隠れることはせずに堂々と前進する。
もう走ることすらできない。今ここで震える膝を折ればきっとその場から動けなくなる。それが分かっているから前進する。
「ハァ……ハァ……ぁっ!」
息を吐き、巨木に手を添えながら一時も休むことなく歩き続けていると、小さな光が見えてきた。
ついに辿り着けたと安堵の息が出かかるが唾と一緒にそれを呑み込むことができた。
安心してはいけない、ここからまだ距離がある。
歩みを一瞬止めてしまったことを頭の片隅で反省しながらヒデは再び足を出す。
不意に森の中が歪に曲がりだした。上下左右があやふやになり気分が悪くなっていく。それでも、ヒデは歩みを止める気はなかったが、遂にひざが折れた。
「アグッ! う、グゥ……」
唸りを上げながら地面に這い蹲りながらも、必死に前へと進んでいく。
「たす、ける……たす、ける!」
歯を食いしばり焦点が定まっていない目を、それでもまっすぐ前を見つめながら蛇のように進んでいく。
這いずった後を残しながら亀のようにゆっくりと進んでいくと、ヒデは月明りに照らされたある者達を目にした。
猿が玩具で遊んでいる。二匹の子供が楽しそうに一つの遊び道具を投げ合って遊んでいる。体中をまんべんなく汚しながら遊ぶ姿は正に無邪気な子供のようである。
子供が玩具で遊んでいる。投げ合うたびに赤い液体がまき散らされるそれは彼らにとっての遊び道具に他ならない。
ヒデはその光景から目が離せなかった。
なぜなら、その玩具こそ彼女が守ると豪語した存在そのものなのだから。
「キキィ?」
暫くすると二匹のうちの一匹が投げていたそれをつかみ取り空中で揺らすと、興味を失くしたのか泉の中に捨てた。
ボチャン、と大きな音をたてて沈んでいったそれは青く美しかった泉を赤く染め上げていった。
特にこれと言って不思議ではない光景、自然の中で、獣の世界の中では当たり前のこと。
なのにその光景から目を離すことができない。所詮はただ一方的に言っただけの約束事、守る必要も義務もない。ましてや悲しむことも怒りを覚えることもない。
所詮本当の家族でもない。偶然出会って先ほどまでただ一緒にいただけの存在。
今までの儂はいったいなぜあそこまで助けようとしていたのかすら疑問に思ってしまう。別に助けなくてもいいじゃないか、死んでもただ弱かっただけの事なのだから。
よわければ死ぬ、自然界のルール通りじゃないか。
「キィ? キキィ!」
「キィ!」
その場でじっと動かないでいたヒデは二匹のマシラに見つかってしまう。
二匹は一瞬ヒデの存在恐れを感じたが、手負いと見るや嬉々として走り出した。
だが、ヒデはその場から動こうとしない。どころか、襲いかかってくる敵に見向きもしない。
体は傷だらけで四肢は碌に力も出ない。相手は亜獣である二匹の猿、舐めてかかれば今日の夕食の材料となるのは目に見えている。しかし、その気になればまだ逃げられる体力は残っている。
だが、どうしてもその場から動こうという気が起きない。胸の内から込み上げてくる二種類の寒いと感じる感情と暑いと感じる感情がせめぎ合っているのが分かる。
この二種類の感情が何なのか考える。考えて考えて考えて考えて、そして答えが出た。
それと同時に、二匹とヒデとの距離はほぼなくなると二匹は慢心したのか同時に血を蹴りヒデの真上へと飛んだ。後は二匹がそのまま落下すればヒデは死ぬ。
相手は手負いであり、しかも自分達と違って体のどこも硬そうに見えず、むしろ柔らかそうに見える。これで慢心するなという方が無理である。
「キィー、グギィ!」
「ギギィ……」
二匹は途中で落下が止まったことに驚いて声を上げたのではなく、急に起きた息苦しさに驚いて声を上げた。
とっさに二匹が首に巻き付いた物に手を置くと、それはとても柔らかな青をしていた。それは、真下にいる獲物の尻から伸びている二本の尾だった。
「グギギッ!」
「ギギギギィ!」
何とか逃れようと必死に二匹はもがくが、俯いているヒデはその気がなく、徐々にその締め付けを強くしていく。
二匹が苦しんでいるのは運が悪かったからに他ならない。本来ならば二匹はとっくに首の骨が折られ絶命していただろう。だが、先ほどまで戦っていたヒデは疲労していた。
今は無理をして力を出しているだけであるため、そこまでの力を瞬時に出すことはできない。故に二匹は無駄に苦しみを味わうことになっているのである。
「すぅ~……はぁ~……」
俯いたまま上半身だけを起こす。呼吸ができない二匹に見せびらかすように深く息を吸い、息を吐く。同時に、二匹の首に巻いていた自分の尾を緩める。
するとやはり二匹はそのまま落下をはじめ、真下にいるヒデに向かって今度はその剛腕を叩きつけようと振り下ろした。
「!」
真下にいる怨敵に意識が向いていたために二匹は気づくことができなかった。
横から迫りくる先ほどの苦しみとはまた別の、しかし、辿り着く場所は同じ一撃を二匹は直撃し、地面に叩きつけられ轟音と同時に肉片となった。
「……」
左右の地面が赤く染まっていくが、そんなものに一端の興味も沸かない。今意識が向いているのは赤く染まった泉だけ。
「!」
ヒデは気が付けば泉のそばで立っていた。先ほどまで限界で力が入らなかった足で立っていた。その事に一瞬だけ驚くも血を流しすぎたせいかそこまで驚くことはなかった。
すぐそこには今まで守ってきた常に月光で輝く美しい泉。そこに、ヒデは何の躊躇もなく傷だらけで血が付いた足を入れた。
今、守ってきた張本人が汚した。
何も思わず、何も考えずに染みて赤くなっている泉の中心に向かう。中心と同じ赤を全体にいきわたらせながら一歩ずつ前進する。
波紋と共に流れていく赤は徐々に青を汚染していく。それはヒデが中心についてもその侵攻はとどまることを知らず、赤が青になり替わり、幻想的な泉が毒々しい泉へと変わっていく。
「……」
胸までつかる深さの中で、ヒデは徐に泉の水を片手で救い上げる。
収まりきらなかった水は音をたてながら手から零れ落ちて溶け込んでしまう。その手に残ったのはほんの僅かな赤い水だけ。
(あぁ、なんて赤い……)
救い上げた赤い水をヒデは全て泉に戻す。
「……意味、ないじゃないか……」
ポツリと、小さな声音が泉に響く。
「何が、守ってやるだ……守り切れていないじゃないか! 守てやると豪語しておいて、結局守れてないじゃないか! 一人で勝手に突っ走って! 守る相手をほったらかしにして、挙句の果てにはこっちが助けられて! 全然できていないじゃないか! 何が親だ! 何が娘だ! 何が家族だ! 助けられてないじゃないか!」
泉の中心で怒号をまき散らし、荒れ狂う。泉はヒデの体が動くたびに激しく波立つ。
ヒデには少なからず慢心があった。
一度だけ危険があったが、それ以外は特に危険はなくすべて難なく倒すことができた。だから、絶対に守れると思っていた。守れる自信もあった。
だが、結果は非常なもので終わっていた。
「私は! 儂は! また守れなかったのか!? 再びなくすのか!? 嫌じゃ! もう失くしとうない! もうあんな悲しみは味わいとうない! なのに、なのに、なのになのになのになのになのに! どうして儂は……私は……あぁあああああああ!」
月夜に照らされて赤く染まった泉は周囲に同じ赤を映し出す。赤い妖精でも舞っているかのような泉の中に、透明な水が滴り落ちる。
あの時にヒデが感じた二種類の感情。寒い感情、それが今涙となって表面上へと浮かび上がる。
ヒデはこの時、悲しみという感情を理解した。