第二話
しん、と城(宮って呼ぶべきか?)が寝静まって沈黙に包まれた深夜。何の前触れもなく目が覚めた。
寝起きのまどろみとか、そんなもの欠片もない。はっきりと覚めた目と意識が、俺に再び寝ることを許さない。
……つーか、寝て起きたのに何も変わらなかった……。
これは、あれか。そろそろ認めなくちゃならないのか。嫌だ。
もぞりとベッドから起きて部屋を見回してみると、リシュアさんとライラはいなかった。命令として受け取って、下がったんだろう。
(……何か、息苦しいな)
腹の辺りがざわざわする。気持ち悪い。何だこの感覚。
こんな状況だから気分が悪いのか――と、息をついて特に意味はなく窓の外を眺めると、窓の外に何かがいた。
身体の色が黒いせいで一瞬夜の闇と同化してしまっていたが、すぐにそれなりに明るい月と星の明かりにシルエットを浮かびあがらせたそれは。
(ドラゴン?)
その正体に思い至った俺の前で、ドラゴンは口を大きく開き。
――ぱぁん!
「――!!」
空気が破裂する音と共に、窓ガラスが全て砕けて散らばった。
何も見えなかった――という事は、衝撃波的な何かか。
「……あ……っ、れーえぇ……?」
風通しの良くなった窓から吹き荒ぶ強風は、今日が風の強い日だからではない。
ばさっ、ばさりと質量のある翼を打ち鳴らし、窓のすぐ側に横付けしているドラゴンのせいだ。
そのドラゴンの背から、するりと人影が窓から部屋へと滑り込んで来る。
「森焼けてねえどころか、随分神気臭いのがいんじゃーん……」
熱に浮かされたような、舌足らずののんびりとした口調。月光に全容を浮かび上がらせた赤毛の女は、眠そうな半眼で俺を見て――ニタリ、と笑った。
クセ毛のソバージュを、ほったらかして伸ばしただけっぽい、肩より少し長い髪。豊満なバストとボトム部分だけをかろうじて覆う、冷たい金属質の黒い装甲。後は首と手甲と具足の、軽量過ぎ+出し過ぎな鎧姿。
「……皓皇様ぁ? 久し振りィ。覚えてるぅ?」
「……っ」
一歩、無造作に踏み込んできた女の不気味さに、知らず俺は一歩、下がった。
「何? ビビってんのォ?」
嬉しそうに笑いながら、更に、一歩。
「んな訳ないよねェ。精霊王ともあろうお方が、たかが魔人一匹、怖れないよねェ。テメェで封印してくれやがった魔人一匹、ビビんないよねェ」
カッ、コッ、カッ。
ブーツの底の高いヒールが床を蹴る音が、ペースを早くして俺を壁際まで追い詰める。
どっ、と背が壁に当たって逃げ場を失ったところで、女は勢い良く両手を俺の頭の両脇の壁に付く。ぱらり、と手がめり込んだ分剥がれ落ちた壁材が床に落ちた。
(ど――、どんな力だ……っ!!)
その現象はやった本人である女にとっては驚く様な物ではないようで、深く笑みを刻んだ顔を近付けてくる。
「あァ……。テメー、本っ当ムカつく……。スゲー好み。相変わらず、凄く綺麗だよ、皓皇。お前見てると本当、堪んないよ。――口開けろ」
「なっ、何――っ、んっ!」
女の訳の分からない狂気に押されてしまって開いた口に、ためらわず女は唇を押し付けてきた。口腔で響く水音と、生ぬるい感触。
――気持ち悪いッ!!
「あァ……っ。イイ……っ! 最高……ッ!!」
紅潮した頬と、上擦った声で恍惚とした呟きを漏らす。
「何っ……、すんだッ。お前、何……っ」
「だァッてぇ、私ずっとお前が欲しかったんだよ……? そんな無防備に食って下さいとばかりに差し出されて、何でためらう必要があるぅ……?」
――まずい。
本人がわざわざ自己申告してくれた通り魔人だというなら――多分本当に魔人だろうが――、俺が何も知らず、何も出来ない事を知られたら、絶対、ヤバい。
「こんな無茶苦茶なやり方で、人が好意持つとか思ってんのか」
「そんなん、要らねーし。ただァ、側にいて、その綺麗なツラで私に飼われてりゃいいの。さえずってりゃいいの。でも、お前のそーゆー、甘ぁいところ、好きぃ……。目っ茶苦茶、汚してやりたくなる。お綺麗な言葉をテメェで裏切らせてやりたくなる。神属だろうが何だろうが関係ねェ。テメェは雄だ。取り澄ましたそのツラ引っぺがして、獣みてーに躾てやるよォッ! その綺麗な顔で、声で、魂で! 私の上でご奉仕してりゃいいんだよ!」
「っぐ!」
自分の台詞で興奮したか、テンションを上げて叫ぶと、女は壁に付いていた手を俺の首に掛けて締めてきた。
「どうしたよ、皓皇。随分大人しいじゃねェの。……あぁ」
「っ」
さすがにここまでされて何もしないのは、不審だ。気付かれたか、と動揺に息を飲む俺に、女は思い至ったような声を上げる。
「大分、エレメント薄くなったもんなァ。お前のことはずっと見張って、探してたんだ。再生したのだって最近だろ? 本拠のここですら、力、出ないのかァ……。だったら、今日来たのはツイてたなァ……。奏皇と合流されると面倒くせぇ……」
「うっ!」
首を絞めていた手を外し、女は俺の腕を掴んで引っ張った。踏ん張ろうとしたが、敵わない。壁の有様見たときから分かってたけど、凄い馬鹿力だ。
「あァ……っ。最っ高……っ! こんな簡単にお前が手に入るなんてぇ、思ってなかったァ……」
「ふざっ、けんなっ。離せ……っ!」
このまま連れて行かれると、洒落にならないバッドルートに入る気がする!
――ごめん、リシュアさん、ライラ。俺が馬鹿だった。つーか甘く見てた。本当に襲撃ってされるものだったんだな。しかも昼間の夜で。
彼女達はどうしているんだ。これだけの音が響いて、まさか気が付いていないとか、そんな馬鹿な事はないだろうが――。
それとも護衛を断った俺が期待するのは、虫が良過ぎるか。
「……あ」
ついに窓際まで引き摺られて来てしまって、乗りやすいように首を下げてスタンバイしているドラゴンの前に立ち、女はふと思い出したような呟きをぽつん、と漏らして。
ゴッ!
「――ッ!?」
いきなり、ドラゴンを殴り付けた。
ギィッ、と悲鳴を上げるドラゴンに、更に一発、二発。薄い小手があるだけの、ほぼ素手の拳だが、一撃ごとにドラゴンの硬そうな鱗が弾け、剥がれ、内側の肉体までもが殴打で陥没して変形して行く。
「忘れてた忘れてた、わーすれーてたぁー。そういやテメェ、命令聞けなかったんだったぁー。森焼いて来い、宮潰してこいっつったのに、のこのこ退却して来たんだったァー」
「……っ!」
振るわれる拳の中に、ぬめった水音が混ざるようになってきた。
拳が、赤い。それでも殴る手は一切緩まない。ドラゴンも動かない。逃げずにただ、暴力を受け入れている。
「あは、あははっ。あっはっはっはっはっはあーあぁあーっ!」
哄笑を上げる女の声は、紛れもなく快楽に酔った歪んだ物。
――逃げないんじゃない。逃げられないんだ。大人しくこの暴力を受け入れることが、一番自分にとって穏便に済む方法だと、ドラゴンは知っているんだ。
「あーあぁー。イイー。超イイー。潰れろ、カス」
しかし今日は、その選択は通じそうになかった。自らの暴力に酔った女は、握っていた拳を拓いてコキコキ、と関節を鳴らし――その手に炎を纏わせた。