プロローグ
さわり、と耳慣れない音を聞いて、俺はぼんやりと目を開けた。
「……」
音の正体は葉擦れだった。見渡す限り視界一杯の緑。今俺が寝転がっているのも、足の長い草の上。
「……。あぁ、夢だコレ」
俺が出した結論は、至極妥当だと思う。
だってあり得んだろ。俺は昨日、間違いなく家のベッドの中で寝た。森の中で目覚める理由がない。今気が付いたが、格好もおかしい。
天然素材っぽい、身体に沿った黒のアンダーウェアの上に質感の良い絹の紗を着て、腰で帯で止めている。下はゆったりとしたズボンで、足首と手首に金の輪が装飾品として付いている。
……夢だろう、うん。恰好からして世界観は大体、把握できた気はするが。
「――静かだな」
聞こえてくる音は、風が揺らす木々の葉音と、自然に溶け込む鳥と虫の声。
(気持ち、いいな……)
ごろりとと再び仰向けになって大の時に寝転がると、深呼吸をする。
味がしそうな程の濃い緑の匂い。――けど、嫌いじゃない。
(むしろ何かしっくりくるような)
懐かしい気がするのはなぜなのか。
生まれてこの方、こんなに環境のいい場所で過ごした記憶はないんだが。
どうせ目が覚めるまでの間だ。リラクゼーション効果満載のこの状況を満喫しようと目を閉じた――瞬間。
ゴゥッ!!
「!?」
柔らかな日差しを木々の隙間から注いでいた太陽が、ふっと何かの影に遮られたと思ったら、いきなり森が燃え上がった。
「なッ、何――!?」
何だ、いきなり。
慌てて身を起こし、吸い込んだ空気が、熱い。
「げ、ほッ」
吸いこんでしまった熱気と煙に咳込み、俺は口元を押さえて辺りを見回す。
(逃げねえと……っ)
夢だろうが何だろうが、今、熱い。苦しい。それは御免だ。
焼け死んで目が覚めるとか、さぞ嫌な寝覚めになるだろうと思う。
しかし場面が森の中だけに、とにかく火の回りが早い。もう見渡す限り紅一色しかなくて、どうすればいいのか分からない。
(死――死ぬ、のか?)
何て事だ。成す術なく嫌な寝覚め直行だ。
呆然とその場に突っ立っているしかできなくなった俺の目の前に、ちら、と不自然に冷たい白銀の輝きが降って来た。
(冷たい?)
それの正体をちゃんと確かめる間もなく、視界を閃光が貫いた。
「霧氷の晶華!」
凛とした涼やかな女性の声と共に、上空から冷気が流れ込んで、視界一杯に輝く氷の粒が出現した。
陽光を受けて輝く氷の粒は、燃え盛る炎に触れた端から瞬間凍結させ、炎のオブジェを一瞬だけ造り上げ、澄んだ音を立てて砕け散っていく。
あらかた炎と氷が収まった後、だんっ、と中々派手な音を立てて上空から女性が一人、降って来た。それ程の体重があるようには見えないので、相当な高さから飛び降りて来たんだと思われる。
「おのれ……。ついにこの神域までも侵しに来たか……。下衆共めが」
(うわ。美人だ)
降って来た女性は、美人だった。
右手に自然な様子で持って下げている西洋の片刃長剣。首の後ろでやや太めの編み込みを作った、銀髪青眼の西洋美人だ。
「……ん?」
ひとしきり上空を睨んだ後で、彼女はようやく俺に気が付き目を向けて――ぱちぱち、と何度か瞬きをして。
「――っ!!」
なぜか一気に顔を赤くし、物凄い勢いで膝をついた。
「え、ちょっ、えっ!?」
「お目覚めになったのですね……! ずっと……、ずっとお待ち申し上げておりました、皓皇様」
いや、待っていたと言われても。
……というか、結構時間経ってると思うんだが、そろそろ起きないのか、俺。起きないか……。
【陛下……】
「え?」
微妙にエコーのかかった不思議な第三者の声がした――と思ったら、たった今まで目の前の彼女が持っていた長剣が形を崩し、次に姿を固定させた時には、なんと女の子の姿になっていた。
こちらは金髪に赤い目で、俺より四、五歳は年下に見える。
「お久し、振り、です。陛下……」
「我等ケルガムの姉妹、再び陛下にお仕えできる日を心待ちにしておりました」
「……」
どういう状況だ、これ。
「晧皇様?」
「悪い。良く分からないんだが」
何も答えない――というか、答えられずにいた俺を不安げに見上げてきた、本人談姉妹の内の、姉の方(多分。見た目的に)に、再度呼びかけられ、正直にそう答えた。
「分からない、とは?」
「ここがどこだとか、貴方達が誰だとか」
自分……自分の事は分かってると思う。
上貴瀬晴人。十七。県立高校に通う、普通の学生だ。間違っても、陛下とか呼ばれるような身分じゃない。
いやそれは夢だからいいんだが。
「わッ、私共をお忘れですか!?」
「……」
ショックを受け、蒼白になったケルガムさん(姉)と、無言で涙ぐみ、ふるふるし始める妹さん。
も、物凄い罪悪感が。
いや、でも、な? 分からないんだから仕方ないだろ。
つーか不親切な夢だな。設定ぐらい普通に受け入れさせてくれよ。何で設定段階で戸惑わなきゃならないんだ。
「いえ……っ。仕方ないのかもしれません。皓皇様はそれだけ深く傷つき、再生にこれだけの時が必要だったのですから」
幸い、すぐに自分で持ち直してくれて、彼女は改めて俺へと頭を下げて。
「リシュア・ケルガムと申します」
「ライラ・ケルガム、です……」
お姉さんの方がリシュア、妹さんの方がライラか。
「私共は従具精霊。先代フィリージア殿より、皓皇様の武器となる任を受け継いだ僕でございます」
「ここは……皓の森……。陛下の守護されている、アイルシェル領の、神域……。陛下の宮が在る所……」
「……守護?」
俺の設定は一体どんな人物なんだ。陛下とか呼ばれている以上、身分ある人みたいだが。
「はい。皓皇様は創造主たる女神ティエラティエル様より、自然界のエレメントの一つ、光を司る任を与えられた我等精霊の王のお一人にございます。六百年前の魔神侵略戦争の折、陛下は中核となっていた魔神共と相打たれ……器を失ってしまっておりました」
「それは死んだって事だろ? だったら俺は違うだろう」
死人が蘇る、Or、蘇らせようとするなんてのはよっぽどカルトな奴等の言う戯言だぞ。
「陛下の……魂、神属の、貴き、方。エレメントと一緒……不滅、です」
……すまん、良く分からない。下から上目遣いでの懸命な訴えは可愛いけど。何だこの小動物。
「かつての大戦は、多くの犠牲を伴いましたが、中核を成す魔神を滅し勝利する事ができました。しかし人は愚かです。たかが六百年で魔の脅威を忘れ、自ら魔道へと堕ちる者が増加し、魔人となり、魔神を呼び覚まし、そして自ら魔神となり果てています」
「今……戦争中。魔人が、国、沢山乗っ取ってしまい、ました……。精霊族、劣勢……。エレメントの王、皆、待ってました……」
……。
待て。何か不穏な風向きになってないか?
「参りましょう、皓皇様。皆陛下のご帰還を心待ちにしております。宮に帰れば、きっと皓皇様のご記憶も戻りましょう」
戻る訳ねえ、とは思ったが……。
他に行くあてもないし、ここはどう考えても危険だ。しかも設定的に見つかったらまずい相手が結構いる気がする。
彼女達は取り敢えず俺に好意的だし、しばらく寝ているみたいだし、できる限り快適に過ごしたいからな。
案内してくれるリシュアさんに、大人しく付いて行くことにした。