06 : 彼女の願い、彼の覚悟
赤面しながらも眉根を寄せたり目を丸くしたりと、目まぐるしく表情の変わっていくシャロンを優しい眼差しで見つめていたオズワルドは、ふと気付いたというようにシャロンを下ろす。
「そういえば、はい」
手渡された物を何も考えずに受け取り見たところ、シャロンの双眸が見開かれた。
手にしたのは、古ぼけた書物だった。古書独特の鼻をつく臭いがする。馴れない者が嗅げば眉を顰めるものだろうが、物心ついた時からその臭いに慣れた彼女にとっては懐かしいものだった。
「これ、は」
「≪植木の書≫。借りていた人から返してもらえたよ」
「……ありがとうございます」
シャロンの手が古書の表紙を撫でる。皮の表紙にシジル等のデザインが装飾されているそれは、アリンネヴィアが管理しているうちの一冊である、≪植木の書≫という銘を刻まれた魔法書だった。
シャロンが撫でる度に、魔法書から淡い光が生まれては消えていく。双眸を眇めていたシャロンは、何かに納得がいったのかほうっと溜息をついた。
「本物ですね。特に問題もなく止められそうです」
その言葉に、今まで彼等を見ていた周囲から喝采の声が上がった。
同時に、シャロンを中心として地面に魔法陣が描かれた。
魔法陣はシャロンを中心として緩やかに回転していく度に、次第にその大きさは大きくなっていく。
装飾的な図像が施されたそれは、見る者に感嘆の気持ちを抱かせた。
紋章の色は、ピンク。時折、その中を深紅の光が煌めいては弾けて消えていく様は誰かを彷彿とさせ、シャロンの瞳に痛みの感情が浮かんだ。けれどそれを振り切るように高らかに詠唱する。
「アリンネヴィアが司書、第五席シャロン・オーリオウルの名において命じる」
シャロンが何をするのか分かったのか、食虫植物が彼女へと迫ってきていた。
だがそれ等は彼女に触れる前に炎に巻かれ、焼かれる音と共に消失した。
「君の事は守るよ」
振り返れば、掌の上に炎を出したままのオズワルドに微笑を向けられた。
ありがとうございます、と口の動きだけで伝えると、彼は分かったのか頷いた。
「銘≪植木の書≫」
ニアの言葉を思い出す。
――わたくしたちは後世の人々へ託す為にも、書物を守らねばならないわ。
彼女の教えをシャロンは忘れた事はない。
これからも忘れる事はないだろう。
守り続けて、管理する。それが司書の役目。
それでも、とシャロンは思い出の彼女へと告げる。後悔しても、それでもきっとシャロンは何度でもあの過去に戻ったら同じ事を繰り返すだろう。
大切な人を助けたかった。
その為の知識が、術が自分にはあった。
知識は力だ。知識は溜める為に集めるだけではなく、後世に残す為だけでなく、現状をよりよくする為のものでもあるのだと、誰かを助け守る為のものだと信じていた。
可能性があるのなら、幾度だって自分はきっと行ってしまうのだろう。
シャロンが翳した瞬間、魔法書から眩い光が溢れ始めた。
シャロンが口にするその声は、高く響き渡り。まるで恋する相手へと告げるかのような、甘やかで蕩けるような声で囁かれた。
「銘≪植木の書≫、第五席の権限において即停止せよ」
囁きに応えるかのように、光が満ち溢れ全てを飲み込んだ。
そして消えたときには全てが、シャロンへと群がろうとしていた食虫植物や、彼女達を飲み込んでいる本体も無くなっていた。
シャロンとオズワルドの周囲にいた生徒達が驚いたように右、左と顔を向ける。同じように驚いた表情の講師陣を見つけると、生徒達は互いに顔を見合わせる。
「……か、帰ってこれた?」
「帰ってこれたよ!」
抱き合って喜ぶ生徒や講師陣を横目に、オズワルドはシャロンの元へと歩き出した。
彼へ背を向けている少女の顔が今はどんな表情を浮かべているのか、彼に知る術はない。
「大丈夫かい?」
「……グラズヘイムさん。大丈夫ですよ、ありがとうございます」
振り返った彼女の表情は、いつものように緩やかな微笑みを浮かべていた。
あちらこちらで喜びの声があがっているのを聞き、彼女は満足そうに口元に弧を描いた。
「戻りましょうか」
「そうだね。君が幸せそうに食べている顔をまた見たいな」
「……そこですか」
2人は人々のいる場所へと歩き出した。
「そうですね、同僚にも報告しなければいけませんし。先程の場所へ戻りますか?」
「そうしよう」
「……デザート」
デザートを思い出して瞳を輝かせるシャロンをオズワルドは見つめる。
明日なのか、明後日なのか。
いつ死ぬのかと、死の影に怯える日々を送っていた頃。誰かの死にすら心が麻痺していたあの頃。
あそこにはいつだって絶望しかなかった。
希望などどこにもなかった。
そこから掬い上げてくれた少女の存在を、自分は生涯忘れない。忘れる事など出来ない。
彼女の事を自分が掬われたように、守りたい。
今は笑うその顔が悲しみに染まらないように。いつだって笑っていられるように。何があっても守り続けると決めた。
その決意は何処かで躓くかもしれない。
何度も迷い悩むのかもしれない。
――それでも、この手を伸ばすと決めたのだから。