第72話 通じない話と、通じる縁
森ノ宮での夜――イセエビとクジャクが台与の元を訪れる。
翌日、彼らは親書を携えて難波津を後にした。
その頃、ナカツヒコは大陸での出来事を思い出しながら、ひとり悦に浸っていた。
森ノ宮の夜が更ける頃――
台与もまた机に向かい、文をしたためていた。
「……翁はヤマトの地をご覧になられ、『千年かかる』と仰せになりました。
当地の水の理は、出し口が狭く、引くこと叶わず……」
書き終わると、ゆっくりと筆を置き、深い溜息をついた。
「……千年……」
その言葉が、重い楔のように頭を離れない。
台与は目を閉じ、阿蘇と伊勢、二人の大巫女の顔を交互に思い浮かべた。
(ありのままを伝えよう……知恵を授けてくださるはず……)
決意した、その時だった。
二つの足音が廊下を渡り、台与の部屋の前で止まった。
襖越しに低い囁きが聞こえる。
「台与様、もうお休みでしょうか?」
「いいえ。どうぞ、お入りください」
襖が静かに開き、イセエビとクジャクが姿を現した。
宴の席を抜けてきたのか、二人ともわずかに顔を赤らめている。
だが、その眼差しは確かだった。
「日中は、ご挨拶もできず失礼いたしました」
「いいえ。私も戻ったのは日暮れ過ぎでしたので……」
台与が言葉を切ると、二人は揃って居住まいを正した。
「大変恐縮ながら。末盧まで、水惟の船をお借り致したく参りました」
台与はしばし考えた後、穏やかに首を縦に振った。
「致し方ありませんね。お使いください。水惟には私から……」
「いえ。日中のうちに、我らから直に頼んでおきました」
「そうですか。話が通じているなら、あれは伊都の船。私への断りはご無用です」
「……感謝申し上げます」
二人は揃って平伏し、またすぐに面を上げた。
台与は、先ほど書いていた文を丁寧に折り畳むと、それをイセエビに差し出した。
「私からも、お願いがございます。
阿蘇の大巫女様へ文を書きました。こちらを、届けていただけますか」
イセエビがそれを恭しく両手で受け取ると、クジャクがふと尋ねた。
「ところで……台与様は何ゆえ、こちらにいらっしゃるのですか?」
「森ノ宮には立ち寄っただけです。これから伊勢に参ろうとしていたところでした」
二人は一瞬、顔を見合わせた。
イセエビが、隣のクジャクの脇腹を肘で小突いた。
「汝、仕事が早いのう」
「我ではない。汝の根回しではないのか?」
囁き合う二人を、台与は不思議そうに見つめた。
「……どうなさいました?」
「いいえ! こちらの話です!」
二人は慌てたように掌を振った。
それからしばらくの間、三人の間に奇妙な沈黙が流れた。
イセエビは台与とクジャクを交互に見やり、クジャクもまた困惑気味に視線を泳がせる。
その様子を眺めていた台与は、やがて腹の底から小さく笑いが込み上げてきた。
「うふふ……。一体、いかがなされたのですか?」
その笑い声に誘われるように、イセエビとクジャクは同時に頷いた。
クジャクが畳に両手をつき、切り出した。
「実は……大巫女様が『台与様のお力をお借りしたい』と仰せになっておられまして……」
「伊勢の大巫女様が……私に?」
台与は口に当てていた手を膝の上に置くと、迷いなく答えた。
「私に出来ることでしたら、なんなりと仰せつけください」
二人は呆気に取られたように目を丸くした。
その反応は意外だったが、台与はにっこりと微笑んでみせた。
※
翌朝――
イセエビらの一行を乗せた船が難波津を出航した。
入港時には細心の注意を払っていた水惟であったが、すんなりと広い海へ出た。
その後は、まるで潮に押されるかのように、飛ぶような速さで遠ざかっていった。
台与とルナは、森ノ宮の館の庭から、その船影が小さくなるまで見送っていた。
「……仕方ありません。ここからは陸路で参りましょう」
「昨日、途中まで行ったのに……少し悔しいですわね」
「カイさんたちも『ヤマトの地をもっと詳しく見てみたい』と仰っていましたし……」
台与はほのかに笑みを浮かべ、船に背を向けた。
すると、隣を歩くルナがくすくすと忍び笑いを漏らしながら囁いた。
そう言うと台与は、ほのかに笑みを浮かべながら船に背を向けた。
すると、ルナがくすくすと笑いながら囁いた。
「台与様が書かれたあの親書……無事に届くと良いですわね」
台与はハッとなり、思わず背筋を凍らせた。
ルナを振り返る。自然と声が裏返った。
「ま、まさか……。あの親書、そのまま持っていくのですか?!」
◇◇◇
それは昨年、伊勢の社でのこと――
その日、伊勢の大巫女は悪戯っぽく目を細めて台与に言った。
「来年の朝貢のために、陛下への親書をしたためたのだけど。
台与ちゃんも何か書き足したいことはない?」
台与は思わず身を反らせて固辞した。
「親書は国と国との文書……私が付け加えることなどございませぬ」
「ええ?でも、皇帝陛下に随分とお世話になったのでしょう?」
「それは、そうですけれど……。でも、それとこれとは……」
「まあまあ。これはまだ下書きだから、一度書いてごらんなさいな」
押し切られる形で、台与は机に向かった。
伊勢の大巫女とルナは、その両脇から食い入るように手元を見つめている。
「書きました……」
台与が筆を置くと、二人はほぼ同時にその文面を覗き込んだ。
「先の朝貢の折には、格別のご配慮を賜り、陛下には心より感謝申し上げます。
貴国に倣い、倭国でも都を建てることと相成りました。
他国に恥じない都とするべく、日々励んでおります……」
伊勢の大巫女は、ぽつりと声を漏らした。
「あら、台与ちゃん……。これでは色気が足りないわ」
台与は即座に顔を上げ、大巫女を凝視した。
「色気、要りますか?!」
大巫女は柔らかく微笑み、諭すように言った。
「ええ、倭国女王としての気品を見せるのよ。侮られないために、ね」
そこへルナが畳み掛けた。
「そうですよ、台与様。色気は必要です!相手をドキリとさせるくらいでないと!」
「お姉様は、大巫女様に影響されすぎです!」
だが、伊勢の大巫女は止まらなかった。
台与の文面を指でなぞり、朱筆を入れ始めた。
「ここまでは良いとして……
『貴国に恥じない立派な都を築き、いつの日か、倭の都に陛下をお迎えし、ささやかなる宴を催して旧交を温める日を心待ちにしております』
……なんて、どうかしら?」
「素晴らしいですわ、大巫女様……! まるで恋文のような情緒です!」
ルナが手を叩いて賛同する。
台与は驚きのあまり目を回した。
(魏の皇帝がここまで来る……はずがないでしょうに!)
だが、大巫女もルナも完全に盛り上がっていた。
台与の困惑をよそに、次々と台与の文面に飾り立てていった。
◇◇◇
「……あれは、最後はどうなったのでしたっけ……?」
台与が恐る恐る尋ねると、ルナはどこまでも楽しげに目を細めた。
「さあ、どうでしょう?詳しいことは伺いませんでしたけど……」
そう言うと、ルナは口元を袖で隠して、くすくすと笑った。
※
同じ頃、魏国・帯方郡では――
裴世春が、太守・弓遵の前に音もなく直立していた。
――バンッ!
弓遵は掌で机を叩くと、弾かれたように立ち上がった。
「馬韓は何故、朝貢を拒むのだ?!」
裴世春はかしこまると、うやうやしく言った。
「再三、督促は致しておりまする。……されど、彼の国の言い分によれば
『国内に反乱が相次ぎ、その鎮圧に追われ余力がない』……と」
弓遵は拳を握りしめ、歯噛みして唸った。
「うぬぬぬ……これでは、また朝廷からの叱責を免れぬ。
……して、その反乱とは、どのようなものなのだ?」
「先日、馬韓王の元に参りました折、先方の大臣より聞き及んだところによりますと……」
答えながら、裴世春は冷ややかに、それでいて射抜くような鋭い眼光を弓遵へと向けた。
※
その反乱の首謀者は――
伊都国の大殿から少し外れた、陽だまりの土塀の上で無防備に寝転んでいた。
「すぴー、すぴー……むにゃむにゃ……」
鼻ちょうちんを膨らませては、消えてゆく。
久方ぶりの晴天、風は凪ぎ、うららかな昼下がり。
「うーん……いい事したなあ、我……」
ナカツヒコは目を閉じたまま満足げにひとりごちると、体をごろんと横に向けた。
◇◇◇
その日――
ナカツヒコは陥落した丸都城を背に、泥まみれで馬を走らせていた。
街道の至る所には、手配書が貼られている。
『那可登古・倭人商人
罪状:騎馬二十余頭の抜け荷
見つけ次第確保せよ』
ナカツヒコはそれを剥ぎ取ってくしゃくしゃに丸めると、馬上からぽいっと投げ捨てた。
(……せっかく買った馬も、全部差し押さえられちまった。もう潮時か。
一刻も早く倭へ渡ろう……)
魏の追手を撒くため、道なき道を選び、険しい山岳を越え、深い森へと分け入った。
遮二無二駆け続けて数刻。
人気のない森の奥深くで、ナカツヒコはようやく馬を止めた。
「はあ……疲れた……。ここは、どこだ?」
水筒代わりの瓢箪を腰から持ち上げる。
だが、中身はとうに尽きていた。
馬もまた、目の前の小川に鼻面を突っ込んで水を飲んだ。
ナカツヒコも瓢箪に水を汲もうとした。
その時だった――
――ガサガサッ……!
背後の草むらが大きく揺れた。
振り返ったナカツヒコの前に、一人の青年が姿を現した。
青年は形の整った頭巾を被り、白い胴衣の上に鮮やかな赤の長衣を纏っている。
森の中には不釣り合いな、高貴な身なりだった。
「こんな森の中に、貴族が一人……何故?」
青年はナカツヒコの前までゆっくりと歩み寄ると、静かに膝を折り、うやうやしく拱手礼を取った。
「先生……」
「お人違いでしょう。私は『先生』などと呼ばれるほどの者ではござりませぬ」
だが、青年は深く頭を垂れて言った。
「いいえ。貴方こそ、私が探し求めていた先生に違いありませぬ。
お手持ちの瓢箪が、何よりの証にございます。
亡き父王のお告げ通りのお姿でございます」
青年はにっこりと笑った。
「私はこの国の王子です。
今は隠遁の身ですが、いずれ国を立て直し、迷える民を救いたいと考えております」
ナカツヒコは胸を撫で下ろした。
「おお……そういうことでしたか。
私は倭国の商人ですが、亡命稼業も致しております。
ご希望の行き先がおありならば……」
だが、その言葉を遮って、王子は続けた。
「魏の勢力はこの地にも及び、民は住処を追われ、彷徨う者は数万とも……。
先生、どうかお力をお貸しください。迷える民をお救いください」
王子の深々と地に伏す姿に、ナカツヒコも流石に狼狽えた。
「……どうかお顔をお上げください。詳しくお話を伺いましょう」
「おお……色よいお返事、ありがとうございます!
この近くに母と暮らす家がございます。そちらへご案内いたします」
ナカツヒコは、そこで王子の母の手料理をたらふく食べた。
さらに数日にわたり、王子と昼夜を忘れて語り合った。
それから半月後――
ナカツヒコの姿は帯方郡の外れにあった。
「李さん……これで、戦える男を集めてくれ。剣が持てれば誰でも良い」
そう言うと、李に手形を渡した。
「これは、米の証文じゃねえか。……だいぶ持ってるんだな」
「ああ……だが、値崩れして、現物引出するしかねぇ代物さ。
この米を報酬に、傭兵を......ってなわけだ。
「この辺にも流民が溢れてるぜ、任せとけ!」
「頼んだぜ……じゃ、また来る!」
そう言い残すと、ナカツヒコは足早にそこを立ち去った。
さらに、それから一月後――
馬韓のとある城塞が、突如として出現した、帰属不明の大軍に包囲された。
守備兵は混乱を起こし、戦わずして次々と逃亡し、包囲軍は労することなく入城した。
その先頭には、あの王子と、瓢箪を腰にしたナカツヒコの姿があった。
奪還した玉座に腰を下ろすと、王子は晴れやかな顔で言った。
「瓢公、見事であった。礼を言うぞ」
「もったいなきお言葉にござりまする、陛下……」
王子は立ち上がり、掌をかざした。
「余はここに新たな国を興す。我が国の名は――新羅!
瓢公、これからも余を支えてくれ」
「ははーっ、陛下……」
その直後――
新羅王は重ねてナカツヒコに問うた。
「して、瓢公。我が国はまず何をするべきであろうか?」
「そうですな……」
「王室を作ろう!ここに王室あり、と聞こえれば、民が集まって来よう」
ナカツヒコは面を上げて新羅王を見つめた。
(だが、大陸の理には叶っている……?)
新羅王は続けて言った。
「瓢公、妃じゃ。妃を探して参れ!」
「ははーっ、陛下……」
ナカツヒコが再び帯方郡の李の元に向かったのは、その翌日だった。
◇◇◇
(……そうだ、廷臣もだ。李さん、うまくやってるかな……)
ナカツヒコはゆっくりと土塀の上で身を起こした。
その拍子に、鼻ちょうちんが「パチン」と弾ける。
まだ眠気の残る目をこすり、濡れた鼻を拭った。
遥か北の海に目を向けると、うっすらと対馬の影が見える。
「新羅、か……。あいつ、上手くやってるかな……」
だが、その新しき国はさらに遠い半島の南端。ここからは見えはしない。
「……さて、そろそろ戻るか」
飄々とそう呟くと、ナカツヒコは立ち上がり、腰の瓢箪を叩いて歩き出した。
お読みくださりありがとうございました。
この作品はフィクションであり、実在の国、人物、その他とは関係ありません。
瓢公は架空の人物であり、伝説の英雄・瓠公とは無関係です。
次回「第73話 格差と誤解」
関われば関わるほど、すれ違う人たちがいます。
(木曜20時ごろ更新予定です)




