第60話 羽越の大将〜僕の名は〜
ウヅが見抜いた、地図の空白――
それは、羽の彦尊の「消える戦術」を裏返す鍵だった。
雪深き山を越え、ついに宿敵と対峙するウヅ。
その剣は、いまや「名」を背負うに値するものとなっていた。
「……それは……」
ウヅの話を聞いた大巫女と弥馬獲支、奴佳鞮の三名は、三人とも目を丸めた。
特に、弥馬獲支は声を漏らした。
ウヅは地図を指差しながら頷いてみせた。
その目は自然と光を帯びていた。大巫女はその鋭さに思わず息を呑むほどだった。
ウヅが指差していたのは、地図の中でも炭が付いていない場所――
羽の彦尊が一度も現れたことがない地点だった。
「一度も現れない……つまり、このどこかに本居があるのです。
彼の目的は、『我らに見つからないこと』だからです」
大巫女と奴佳鞮は頷いた。弥馬獲支は地図をじっと見つめて唸った。
「……そうか……そういうことだったか……」
大巫女はウヅに尋ねた。
「じゃが、そこは雪深き山じゃ。戦はおろか、歩くこともままなるまいが?」
「はい。ですが、敵兵の足跡に『手がかり』が……」
「足跡……?」
ウヅは足元に置いた木切れを拾い上げ、それを大巫女に見せた。
「これでございます。これを足に括りつけますと、雪の上を歩けるのです」
「……やってみせよ」
「僕の手勢に、手先の器用な者がございました。さっそくお目にかけましょう」
ウヅが大巫女らを館の外へと誘う。そして、大声でその兵の名を呼んだ。
呼ばれた兵は、積もったばかりの雪の上をひょいひょいと歩いてやってきた。
大巫女は目を見張り、奴佳鞮は唸った。
弥馬獲支は声を上げた。
「これはさっそく、他の兵にも作らせましょう。汝、皆に作り方を教えよ」
「はい」その兵が跪いて言った。
大巫女はウヅを振り返った。
「ウヅ、兵はいかほど要る?」
「僕の手勢のみで十分でございます」
「五十で足りるか?」
ウヅは無言で頷いた。
※
数日後――
ウヅは手勢の兵たちとともに山の入口に立ち、その頂を見上げた。
兵たちが口々に言う。
「すごい雪だ……」
「立っているのも……やっとです……」
「こんなところに人が住めるでしょうか……?」
「うん……」
その言葉に、ウヅも頷くほかなかった。
朝から吹き荒れる雪混じりの強風は、いつ止むとも知れなかった。
まるで、山そのものが他者の侵入を拒んでいるかのようだった。
「遠巻きに進んで、道を探そう」
ウヅは、大きく歩を進めた。
兵の中にはまだ、かんじきの歩き方に慣れない者もいた。
時々、足の付け根まで雪に埋まる。
そうした者を皆で引き上げながら、一歩ずつゆっくりと進んだ。
隣りにいた兵が言った。
「遅々として進めませんね……」
「うん。……だけど、今日はここまでにしよう。皆、ここで穴を掘るんだ」
ウヅは自らも雪を掘った。
はじめは見様見真似だった兵たちも、やがて掘る者、雪を捨てる者に分かれた。
そうする間にも、風は容赦なくウヅたちに吹き付ける。
それでも、背が隠れるほどの溝を刻むと、ウヅは兵たちに言った。
「ここから横穴を掘って……掘れたら中で休もう。これを繰り返して進む」
兵たちは黙って頷いた。誰もが寒さに震え、声も出ない。
朝からは、まだ数刻ほどしか経っていなかった。
だが、昼時を過ぎると辺りも暗くなった。
※
そうして進むこと数日――
いくぶん風も弱まった朝だった。ウヅが横穴から這い出した。
その時、頭上に気配を感じた。
ウヅは転がるようにして飛び出し、壁に背を着けて見上げる。
そこには、一人の老婆が立ち、こちらを見下ろしていた。
巫女装束……だが、ヤマトの巫女のそれとは違っていた。
袴は黒く、くすんだ茶の内着の上には、黒い半纏のようなものを掛けている。
ただ、髪に差した金色の櫛が、この辺りの高位の巫女であることを思わせた。
ウヅは尋ねた。
「貴女は……?」
「語るなかれ、聞くなかれ」
その老婆は言った。
「汝こそ何者じゃ?」
「僕は、ヤマトの巫女――ウヅと申します」
ウヅは兜を脱ぐと、立ち上がって答えた。
黒巫女は静かに頷きながら、なおもウヅを見つめた。
「いずくにか参る?」
「羽の彦尊を探しております。……この辺りで、お見かけになられたことは?」
「語るなかれ、聞くなかれ」
それから老婆は、じっとウヅを見下ろしていたが、やがて目を細めて言った。
「ヤマトの巫女よ、これへ参れ」
そして、ウヅに背を向けると、数歩進んで見えなくなった。
ウヅは兜を上に放り投げ、一気に雪壁をよじ登った。
黒巫女は、すぐ近くにたたずんでいた。
ウヅは兜を拾い上げ、左手に抱えると、黒巫女に歩み寄った。
黒巫女は、手のひらで近くの山を差した。
「ヤマトの巫女よ。この地では山が神じゃ。
あれなるは『安らかなる死』、
あそこに見えるは『希望ある生』、
これなる神は『生まれ変わり』を司る。……汝は、何を望む?」
ウヅは黙したまま、黒巫女の話を聞いた。
そして、しばらく考えたのち、ぽつりと言った。
「……そうですね。僕は、『生まれ変わり』たい。
死でも、希望でもない……僕はまだ、途中だから。
血を流しても、誰かを斬っても、そのたびに『生まれ変わる』方を選びたい」
黒巫女は静かに笑った。
「良き目つきじゃ……汝は、すでに生まれ変わっておる。
ならば、これよりは『希望ある生』を求めるがよかろう……」
ウヅは、黒巫女の目を横から見つめた。
黒巫女もまた、ウヅの目を見つめていた。
やがて、薄っすらと笑うと、頷きながら静かに去って行った。
その歩む先には、小さな祠があった。
ウヅは、黒巫女の背に深々と頭を下げた。
しばらく、そのまま顔を上げずにいた。
やがて、溝から這い上がった兵たちが駆け寄って来た。
「ウヅ殿、参られますか?その『生の山』とやらに?」
「うーん……」
ウヅはしばらくしたのち、振り返って大きく答えた。
「そうだね。行ってみようか!」
※
ウヅは兵らを呼び集めると、『希望ある生の山』に向かい、ふたたび歩き出した。
黒巫女が祠の入口をパタンと閉める音が響く。
ちらりと横目で見ていると、その脇の窓がわずかに開いた。
ウヅはいつもより、ゆっくりと歩んだ。
兵たちがウヅの先を行く。だが、異変に気づいて立ち止まった。
「隊長、どうなされました? どこか具合でも……?」
ウヅは黙したまま、首を横に振った。
「ゆっくり歩こう。その後で……」
※
黒巫女は窓の戸をそっと閉じた。
「……行ったぞ」
すると、物陰から男が一人、現れる。
「……どんな奴であった、ヤマトの将は?」
「きれいな目をしておったわ……」
黒巫女が答える。羽の彦尊は鼻を鳴らした。
「あいつか……忌々しい奴じゃ……」
そして、扉に向かって足早に歩く。
黒巫女は振り返って尋ねた。
「どこへゆく?」
「おばば様には、知らぬことよ」羽の彦尊はそっけない。
「……待て」
呼び止めるのも聞かず、羽の彦尊は扉を開けて祠を飛び出した。
※
ウヅは剣を抜いた。
「やはり、こちらでしたか……羽の彦尊」
そして、剣先を向けた。
手勢の兵らも、一斉に矢を構えた。
羽の彦尊は手にした剣を抜きながら、雪壁を背にして後退った。
「おのれ……行ったのではなかったか?!」
「戻ってまいりました。やはり、まだ早い、と……」
ウヅは相手をじっと見据え、静かに歩み寄る。
羽の彦尊は目を左右に向けながら唸った。
「むむむむむ……」
「いつもなら尋常に勝負するところですが……やれ!」
ウヅの手勢が一斉に矢を放つ。
その矢のいくつかは、羽の彦尊の鎧を射抜いた。
「卑怯な……女に国を奪われるとは……」
羽の彦尊は、膝をつきながら尚も唸り続ける。
「その……男でも女でもない姿……理を乱す者よ……!」
「続けよ!」ウヅは叫ぶ。
ふたたび、数本の矢が羽の彦尊を射抜く。
やがて、羽の彦尊は手にした剣を落とし、仰向けに倒れた。
ウヅの兵らは一斉に、剣を抜き飛びかかった。
ウヅはうつむき、剣先を落とした。
目の前では兵たちが、手柄を競っていた。
その光景から目を逸らすと、ウヅはゆっくりと剣を収めた。
※
ウヅは大きく息を吸った。
空気は澄んでいた。その中を漂う雪の欠片が、光を受けてきらきらと瞬く。
まるで、光の精を踊らせているかのようだった。
カサカサッ……
風もなく森の中の木が揺れ、その枝がドサッと雪を落とす。
見ると木の幹の影から、鹿皮を着た小さな女の子が顔を覗かせていた。
ウヅは、そっと歩み寄った。
幹の裏まで進むと、そこから細い木の枝が飛び出す。
男の子もいた――この子の兄だろうか。
女の子を背中に隠し、小枝を向けながらこちらをじっと睨んでいる。
その兄妹は、小さく震えていた。
ウヅはその場に片膝をついた。
腰に垂らした袋から団子を二つ取り出すと、彼らに差し出した。
兄はゆっくりと小枝を下ろした。
妹はゆっくりと団子に手を伸ばし、小さく言った。
「エ アン メノコ ア? オカイ ア?」
「……ん?」
ウヅは、笑みを浮かべて頷いた。
突如、兄が妹の手を引いて駆け出した。
そのまま二人は跳ねるようにして、林の中へと消えていった。
ウヅは彼らの後ろ姿を見つめた。
それが見えなくなると、ゆっくりと立ち上がり、呟いた。
「僕はウヅ――和の剣だ」
白に埋もれた森には、彼らの小さな足跡だけが残っていた。
※
「大巫女様! 大巫女さまー!」
ウヅ隊の兵の一人が叫びながら、邑に駆け込む。
その手には、丸くふくらみ、赤く染まった布袋があった。
大巫女は声のする方へ、ゆっくりと歩んだ。弥馬獲支と奴佳鞮もそれに続いた。
兵は、その場に膝をつくと、袋を開きながら声を張った。
「羽の彦尊、討ち取りました! これに!」
「おおっ、でかした! して、ウヅは?」大巫女が尋ねる。
「こちらへ向かっておりまする! 我は、取り急ぎご報告まで!」
大巫女は頷き、その兵を労った。
弥馬獲支と奴佳鞮は、揃って大巫女の隣に歩を進めた。
「やりましたな……ウヅ殿」弥馬獲支が低く言うと
「もう立派な大将じゃ……」奴佳鞮も唸った。
弥馬獲支は、ついに笑みを浮かべ、声を張った。
「あいや、ご立派! このご活躍、『羽越の大将』と呼ぶにふさわしい!」
奴佳鞮も大きく笑った。
「さよう。此度の戦、ウヅ殿がいなければどうなっていたか……戦功第一じゃ!」
大巫女は口角を上げ、弥馬獲支を横目で見る。
「おや?……ウヅは、巫女じゃぞ」
「大巫女様……まだ、我が『何も存ぜぬ』とでも?」弥馬獲支は目を細めた。
「なに……気づいておったのか……」大巫女は薄く笑い、目を閉じた。
「ならば、これよりはそう呼ぼう。ウヅは、『羽越の大将』じゃ!」
そう言うと顔を上げ、遠く白く染まった山々を見上げた。
香取の大巫女はその時、阿蘇の大巫女の姿を思い浮かべていた。
そのまましばらく、ウヅが向かった山を見つめ、やがて呟いた。
「大巫女様……やはり、あなたは……」
その声は、弥馬獲支と奴佳鞮にも届いた。
彼らもまた頷いた。
遠く、雲の切れ間から、陽の光が差し込んでいるのが見えた。
ウヅの姿はまだ見えなかった。
だが、その光の先を歩んでいるように、大巫女には思えた。
お読みくださりありがとうございました。
かつて名を問われた者が、一つの答えにたどり着き、それがその人の名となりました。
次回「第61話 砂の国の預かり主」からは第4章のスタートとなります。
このまま「ヤマトは戦争で統一しました」という話にはしたくありません。
そこで、少しテーマを変えてお送りいたしたく存じます。
大巫女様の都建設計画を巡って揺れ続ける倭国。その困難に一人の少女が立ち向かってゆきます。
立ちはだかるライバル・クニトラ王との戦いの行方は如何に?
倭国の人々は、その最後にどんな決断を下すのでしょうか――?
(木曜20時ごろ更新予定です)




