エピローグ 3度目(野村茜視点)
吸い込まれそうな程に澄んだ空の下。
世界最大のスタンドを埋め尽くした観客達は期待に満ち溢れた声を上げている。
再び熱い戦いを見せてくれるに違いないと言わんばかりに。
勿論、自国が勝利する前提での話であることは間違いない。
しかし、それはどちらの陣営も同じことだ。
そんなバンクノート・パークの空気を、今度は観客の1人として感じている。
改めて、遠くまで来たものだとしみじみ思う。
まあ、前にこの球場に来た時もグラウンドで似たようなことを考えていたけど。
……わたしの記憶の始まりは苦しみに塗れていた。
他の感情はそれに蓋をされてしまっていたかのように希薄だった。
明日に希望なんてないのだと、永遠にこのままなのだと幼心に思っていた。
勿論、もっと症状が重い人はいくらでもいるだろう。
3歳まで命を繋いでいただけマシという見方もできるかもしれない。
今となってはそういう意見も理解できなくはない。
けど、狭い世界しか認識できていない物心ついたばかりの子供の頃の話だ。
絶望するには十分過ぎた。
そのせいなのか、長らく表情筋が鈍かったけど……それはともかくとして。
袋小路に入り込んでいたかのようなわたしの人生は、彼と出会って一変した。
野村秀治郎。しゅー君。
命の恩人というだけじゃない。
生きる喜びを教えてくれた。
彼は正にわたしの運命の人だった。
今でもそう確信している。
だから共に未来を歩めるように、わたしは自分にできることを模索し続けた。
万が一にでも彼と離れ離れになろうものなら、あの絶望的な閉塞感を再び味わうことになってしまうような気がしていたから。
それ以上に、ただ単純に大好きな人の傍にずっといたかったから。
最初は彼と一緒にいられるだけで十分だった。
でも、わたしだけが幸せでも意味がない。
しゅー君にもそう思って貰えないのは嫌だ。
少しずつそんな風に考えるようになった。
だから彼が何かに行く手を塞がれたり、足を取られたりして立ちどまってしまいそうになった時には、わたしが手を引いて前に進んだりもした。
内助の功というものを体現できたと自負しているし、今も誇りに思っている。
それらは全て、2人で一緒に幸せになるためだった。
もっとも、今はグラウンドとスタンドに分かれてしまっているけれども。
空間的な隔たりなんて、わたし達にはもはや関係ない。
わたしの力は【隠しスキル】【比翼連理】によって彼の力となっている。
【生得スキル】【以心伝心】で心も繋がっている。
そして何よりも。
グラウンドで共に戦うことができない理由はしゅー君が前世では得られなかった幸せを、帰る場所を妻として守っているからでもある。
だから今、あの舞台に立っていないことは何の問題もない。
野球の女房役の座を明け渡したことについても思うところはない……訳ではないけど、表立って文句を言うつもりはない程度にはわたしも大人になった。
何故なら――。
「ママ」
「ん。どうしたの? 鋼太」
わたしと彼の宝物達がここにいるからだ。
「パパ、まだかなあ」
「後少しで試合開始だから、もうすぐのはず。いい子で待ってて」
「はぁい」
舌足らずな返事がもう可愛くて仕方がない。
余り仕事をしてこなかった表情筋も今やフル稼働だ。
特に笑顔が得意になった。
幸せな気持ちをいつも与えてくれるからだ。
「にぃに」
「あかり、もーすぐだって」
1つ下の妹の頭を撫でて、しっかりお兄さんをしているところも。
「ん」
お兄ちゃんが大好きでいつも後をついて回っているところも。
「あうぅ、ああー」
「茜」
「ん。健人、おいで」
ぐずって、お母さんではなくわたしに抱っこをせがんでくるところも。
「結構声援が届いているのに、橙華は大物ですね」
お義母さんの腕の中で健やかに寝息を立てているところも。
全部がわたし達の幸せだ。
日本代表が史上初のWBW優勝を果たしてから4年。
かねてから宣言していた通り、わたしは1人目を授かったことが分かった段階でプロ野球選手をスッパリと引退した。
実際には【比翼連理】の効果で彼の【衰え知らず】と【怪我しない】の影響下にあるため、出産してもステータス的には全然問題なくやれるだろうけど。
野球チームが作れるぐらい子供が欲しいと公言した手前、中途半端はよくない。
いくらお父さんが球団社長を務める球団でも、所属選手に悪影響があるだろう。
何より、今や見ての通り男女2人ずつで4人。
既に両親と義両親の力を借りていて尚、子供達の世話は戦争に近い。
その上、これからも増える予定なのだから野球をやる暇なんてある訳がない。
わたしはそれでいい。
長男の鋼太、長女の朱里、次男の健人、次女の橙華。
そして未来に生まれてくる子供達。
彼らを無事に育てていくことが、今のわたしの新しい生き甲斐だ。
しゅー君の方はパパの格好いい姿を見せたいという気持ちもあるようだ。
『第34回WBW決勝トーナメント決勝戦、日本代表対アメリカ代表はもう間もなく決戦の火蓋が切られます!!』
日本代表が1度WBWを制覇したことに関連して大幅に規制が緩和されて持ち込みが許されるようになったスマホから、聞き慣れた解説員の声が耳に届く。
相手選手の研究もまた野球の醍醐味だからと日本が率先して動いていたようだけど、正直スパイ天国だったのを開き直ったようにしか見えなかった。
まあ、スポーツとしての側面からすれば、その方が余程健全だと思うけど。
『4年前、第32回大会では栄冠を掴み取った日本代表でしたが、第33回大会では惜しくも決勝戦で敗北。アメリカ代表が雪辱を果たす形となってしまいました』
前々回大会で優勝したことで日本が開催地となった前回大会。
日本代表は開催国として危なげなく決勝戦に進んだけれど、最後に再びアメリカ代表が立ちはだかり、2-5というスコアで敗北を喫してしまった。
みなみーや正樹が苦労して習得した高速ナックルを普通に織り交ぜてきたサイクロン選手、ジャイアント選手、モー選手を前に打線は2点に抑えられ……。
一方の投手陣は先発したしゅー君と昇二と正樹が合わせて5失点。
内訳は2:2:1だったけど、防御率に直すと同じぐらい。
誰が崩れたとかではなく、均等にじわじわ点を取られていった。
わたしがキャッチャーじゃなかった影響はない、とは言い切れない。
けど、どちらかと言えばアメリカ代表がキッチリ対策してきた印象が強かった。
その敗戦から2年。
何か変わったことがあるかと言えば――。
『そのアメリカ代表相手に日本人大リーガー達がどう挑んでいくのか。そして王座の奪還を果たせるのか。世界中の注目が集まっております!』
これもまた日本代表が優勝した影響の1つとして、大リーグは勿論のこと各国のプロ野球に外国人枠が設けられることとなった。
しゅー君の前世では当たり前にあったものだけど、正に歴史的な変化だった。
第32回大会から数えて2シーズン挟んで大リーグの門戸が遂に開かれて、その第1段としてしゅー君が大リーグに挑戦する運びとなった。
アメリカ代表選手達と遜色ない鮮烈な活躍を見せたその翌年には更に、正樹を始めとした日本のトップ選手の何人かも渡米。
平均してレベルの高いアメリカ野球を味わい、その経験を蓄積していっている。
他にも【大器晩成】の昇二がピッチャーの経験も大分積んで、しゅー君に並ぶ程のユーティリティプレイヤーとして名を知られるようになったり。
陸玖ちゃん先輩達インターンシップ部隊が今や村山マダーレッドサフフラワーズの正規の職員となり、日夜情報収集と分析を行っていたり。
4年前よりも、2年前よりも日本代表の総合力は上がっている。
勿論、アメリカ代表も立ちどまってはいないけど、差は縮まったはず。
今回はまた更にレベルの高い試合になるだろう。
わたし自身もそう思っているし、期待もしている。
「あ、パパだ! パパだよ! お兄ちゃん」
「うん。リードオフマンだね」
「りーどおふまんっ!!」
わたし達の弟である暁とも仲よしな鋼太が、意味は全然分かっていないだろうけど、響きが気に入ったのか真似して繰り返す。
そして朱里と一緒に窓際で食い入るようにグラウンドを見詰めている。
わたし達の子供達、可愛い。
可愛過ぎてニコニコしてしまう。
ちなみに、わたし達がいるのは個室だ。
前々回大会のMVPの家族というのは正にVIP待遇で、バンクノート・パークのいわゆるプレミアムシートを一家全員揃って利用させて貰っている。
窓からグラウンド全体を見渡せるスイートルーム。
だからこそ、まだ1歳3ヶ月の健人や生後4ヶ月ぐらいの橙華もこうして一緒に観戦することができている訳だ。
移動もプライベートジェット。
かつての感覚だと目が飛び出るような金額だけど、家族全員で安全に一緒に観戦するためなら仕方がない。
2年間大活躍した大リーガーの一家だ。
お金はそれこそ、医学の発展のために湯水のように寄付できるぐらいある。
野球狂神が願いを叶えてくれたおかげで新しく先天性虚弱症の子供が生まれることはなくなったけど、それ以前に生まれた子らのステータスはそのまま。
彼らのサポートは未だ必要だし、何よりしゅー君の前世でも1流のスポーツ選手はそういった活動を行うものだったそうだから計画は続行。
結果、世間から慈善家扱いされるようになって、ただ真似しただけなのにと困ったような顔をしていたのが印象的だった。
けど正直、その評価は甘んじて受け入れるべきだと思う。
『1番、ピッチャー、背番号19、シュウジロウ・ノムラ!!』
そんな前世の小市民感が未だに抜けていない彼が打席に入る。
しかし、グラウンドでの表情は打って変わって真剣そのものだ。
かと言って強張っている訳でもなく……。
正に自然体。
プロ野球選手としての貫禄が出てきている。
さすがはわたしの旦那様、格好いい。
「パパー! がんばれぇ!」
鋼太も朱里も、少しぐずっていた健人でさえも噛りつくようにして見ている。
この子達も既に野球が大好きだ。
あの神様が作った世界だからというだけではないだろう。
大好きなパパが、野球を心から楽しんでいるのが伝わってくるからだ。
その気持ちを彼が忘れない限り、わたし達の幸せはきっと続いていく。
いつまでも。いつまでも。
「プレイ(ボール)ッ!!」
『WBW決勝トーナメント決勝戦! 優勝を、世界の覇権をかけたアメリカ代表との3度目の戦いが今、始まりました!!』
「……しゅー君、頑張って」
打席の中で彼が頷く。
『第1球を……投げました!』
—―カァンッ!!
『打った!! これは――!?』
これにて完結です。
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