343 引導を渡す
「ごめん、なさい。こんな、こんな大事な場面で」
腫れて変色した足の痛みに耐えながら、美海ちゃんが悔しそうに表情を歪める。
目尻に滲んでいる涙は、身体的な苦痛のせいだけではないのは明らかだ。
「みなみー……」
「ホントに、ごめん、なさい」
美海ちゃんは何も悪くない。
謝る必要なんてない。
そう繰り返し伝えても、彼女は謝罪を繰り返す。
遂には溜まった涙が溢れ、1粒2粒と静かに零れ落ちてしまった。
こんなにも痛々しく泣いている彼女の姿を見るのは小学校からの幼馴染である俺達でも初めてのことで、胸が張り裂けそうなぐらいに心が痛む。
あーちゃんも同じ気持ちを抱いていることが【以心伝心】で強く感じ取れた。
「まさか、怪我で投げられなくなる、なんて」
絞り出すように言いながら、固く握り締めた両の拳を震わせて俯く美海ちゃん。
メディカルスタッフの見立てでは恐らく打撲。
かなり腫れてはいるが、軽症の範疇ではあるだろうとのことだった。
飛んできたバットが当たったのがスパイク越しだったのと、咄嗟に跳んだことで衝撃が多少なり逃げたのが幸いしたようだ。
とは言え、足の骨に多少のヒビが入っている可能性はゼロとは言い切れず、当然ながらレントゲン検査で確認しておく必要はあり……。
悔しさから手に力をどれだけ強く込めることができたとしても、今日この試合ではこれ以上投げ続けることができないのもまた事実だった。
WBW決勝トーナメント準決勝戦の9回裏2アウト。9-8。
残すバッターは後1人という正に最後の最後での負傷交代。
球数制限のためにピッチャーとして決勝戦に出場することはそもそもできなかったが、野手として試合に出る芽も完全になくなってしまった。
選手としての彼女の今大会もここで終わり。
失意のどん底にあると言っても過言ではないだろう。
「美海ちゃん。後のことは、俺達に任せてくれ」
「ん。みなみーのために勝つ」
「…………うん。お願い。秀治郎君、茜」
弱々しく頷いて応じながら、一層涙が溢れそうになるのを堪える美海ちゃん。
そんな彼女の肩に手を置いてから、俺はあーちゃんと共に救護室から出た。
「何でこんな、土壇場で」
ベンチに戻る道すがら、苛立ちが収まらない様子であーちゃんが呟く。
俺とレナート選手の交錯。
ロジオン選手による俺への危険球。
それらに対する怒りを抑え込んでいたところに10年来の親友まで傷つられた。
再び爆発寸前まで来てしまっている。
彼女のその疑問に答える前に、とりあえず宥めておかないとマズい。
そう思いながら、あーちゃんの背中に軽く手を当てて口を開く。
「あーちゃん。後1人だから」
「…………ん」
1人抑えれば決着がつく状況だ。
そんなタイミングで感情のまま行動しても、尚のこと誰のためにもならない。
それこそ美海ちゃんのためにも。
まずは試合に勝つ。
それができなければ、どんな復讐を成し遂げようと虚しいだけだ。
美海ちゃんの悔恨も深まるばかりだろう。
「怒るのはアイツらを倒してからにする」
あーちゃんも何を優先すべきかは重々承知している。
だから彼女はそう言うと、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
【以心伝心】も利用してそれを確認して胸を撫で下ろす。
そして俺は、改めてあーちゃんの疑問に立ち返って答えた。
「……まあ、それだけ美海ちゃんのナックルに追い詰められてたんだろうな」
そうでもなければ彼女を狙う理由はない。
勿論、そうであっても彼女を狙っていい理由にはならないが。
「ただ、女性選手を怪我させるのは余りにも外聞が悪いってのもあるし、途中までは攻略できそうな気配もあったから――」
「まず得点力を奪うためにしゅー君を狙った」
引き継ぐように告げたあーちゃんの言葉に頷く。
「けど、それもうまく行かず、倉本さんの修正がハマって美海ちゃんを打ち崩すイメージも持てなくなって9回裏2アウト。後がなくなって最後の手段に出た訳だ」
「最後の打者で、ストライクを1つ無駄にしてまで?」
「既に警告試合が宣告されてたってのもあるし、ナックル以外だったら1球で仕留められる自信があるんだろうな」
決勝トーナメント2回戦でイタリア代表のエースピッチャー、ルカ・デ・ルカ選手を完膚なきまでに打ち崩してきた打線だ。
身体能力をフルで発揮することのできる正統派のピッチャーが相手であれば、負ける要素など微塵もない。
そう考えているに違いない。
「つまり――」
「うん。だから、あーちゃん」
「……ん。今回ばかりは仕方ない。みっくと一緒に、みなみーの仇を討って」
渋面ながらも頷いて応じるあーちゃん。
内心の不満はロシア代表にのみ向いている。
WBWという晴れ舞台での親友の活躍にケチをつけられてしまった。
そんな状況ではさすがのあーちゃんも拘る気にはなれないようだ。
勝利と意趣返しを優先してくれた彼女の頭を労わるように撫でる。
それから俺達は落山監督のところに向かった。
治療中ということで判断を引き延ばしていたようだが、そろそろ限界だろう。
とは言え、選択肢は限られている。
俺か正樹か。その二択だ。
「落山監督、ここは俺に行かせて下さい」
「秀治郎選手…………感情的になっている訳ではないね?」
「否定はできませんが、ここで正樹に投げさせる訳にもいきませんから」
幼馴染を傷つけられて冷静ではいられない。
ただ、同時に。
この試合に勝ち、アメリカ戦での勝利を狙うためにより合理的なのはそれだ。
切れる手札という点では正樹よりも俺の方が多いのは確かなのだから。
俺の場合は一種の撒き餌として使うこともできるしな。
「配球は全て倉本さんに任せます」
「……分かった。そうしよう」
俺の様子を見て問題ないと結論したようだ。
落山監督は審判に交代を告げ、俺達はそれぞれ新しい守備位置へと向かった。
『日本代表、守備位置の変更と交代を、お知らせします』
ベンチから出てきた面子を見て日本代表応援団側スタンドがどよめく中、アナウンスが球場全体に流れ始める。
『ショートの野村秀治郎選手がピッチャーに、ピッチャーの浜中美海選手に代わって白露尊選手がサードに、サードの瀬川昇二選手がショートに入ります』
代打の代打はルール上許されているが、ピッチャーは交代するとある程度投げなければ基本的に次の交代ができない。
なので、順番的に俺の守備位置変更を先とする必要がある。
ここを誤ると大惨事だ。
『日本代表チームの守備はピッチャー、野村秀治郎選手。キャッチャー、倉本未来選手。ファースト、瀬川正樹選手。セカンド、野村茜選手。サード、白露尊選手』
そんなアナウンスの途中から、スタンドの観客から怒号が飛び始めていた。
美海ちゃんの交代を受けてのものだろう。
明らかにロシア代表を罵る声が多い。
『ショート、瀬川昇二選手。レフト、大松勝次選手。センター、山崎一裕選手。ライト、磐城巧選手。以上となります』
アナウンスがかき消されんばかりのブーイングが響いている。
ロシア代表応援団側の近くは明らかに警備員が増えていて厳戒態勢だ。
……いや、あれは警察と州兵か?
いずれにしても、運営側の危機感も相当なものなのは確かだ。
そんな緊迫した雰囲気の中、倉本さんが一旦マウンドに来る。
「秀治郎君……」
「倉本さん。今この場は俺を美海ちゃんだと思ってリードしてくれ」
「みなみんだと思って……?」
動揺が見て取れた彼女だったが、俺の言葉に虚をつかれたようだ。
少し考え込み、やがて俺の意図を理解したように頷く。
「後1人だ。普段通りやって、さっさと終わろう」
「……了解っす」
更に投球練習で150km/hのフォーシームと縦横のスライダーを始めとしたいくつかの変化球を投げ、彼女の気持ちを慣らしたところで試合が再開される。
ロシア代表は退場処分となったヤロスラフ選手に代わり、新しいラストバッターがバッターボックスに入っていた。
かつてインターンシップ部隊からも名前の挙がっていたファリド選手だ。
エースピッチャーである彼はアメリカとの決勝戦で登板させるために温存されていたようだが、控えの中ではバッターとしても最も信頼できる選手なのだろう。
……何にせよ、このような場で初顔合わせとなったのは残念なことだ。
9回裏2アウト。ノーボール1ストライク。点差は僅か1点。
凡打1つで国の命運が尽きてしまう状況。
そのプレッシャーは普通なら吐きたくなるぐらいのものがあるはずだが、ファリド選手は重圧など一切ないかのように無表情だった。
しかし、初球から仕留めてやろうという意思が構えから見て取れる。
もっとも、彼自身のものか、首脳陣の指示かは分からないが……。
こうも打ち気になっているのは、世に明らかになっている情報から俺をイタリア代表のルカ・デ・ルカ選手よりも格下だと思い込んでいるからだろう。
実際、単純なスペックだけならそう見下されてもおかしな話ではない。
ルカ選手は一時世界最速に並んだ訳だしな。
とは言え、それに勝るはずのロシア代表ピッチャー陣が合計9失点しており、また、身体能力で明確に劣る美海ちゃんにここまで抑え込まれたのもまた事実だ。
だから――。
「ストライクツーッ!!」
倉本さんが構えたキャッチャーミット目がけ、ノーボール1ストライクという半端なカウントから俺の1球目を投じる。
ファリド選手はそれを見送った。
戸惑い、手が出なかったようだ。
「次で終わりだ」
ボールが返ってくるとすぐに倉本さんが構える。
やや甘めのアウトコース。
躊躇なく頷き、迷わず2球目を投げ込む。
球速150km/hのそれはかつてない程に左右に激しくブレ、かと思えば外角のボールゾーンへと大きく外れていく。
それに対して、2ストライクと追い込まれていたファリド選手は――。
――ブオンッ!!
思わずスイングしてしまって空振りの三振。
3アウト。
「ゲーム(セット)ッ!!」
球審の宣告を受けて決着。
WBW決勝トーナメント準決勝戦日本代表対ロシア代表は、最後の最後で呆気ない幕切れとなってしまったが……。
殊更そう感じさせられるのは、全てロシア代表の所業のせいだ。
観客達も多くがそう認識していることがスタンドからの声で分かる。
これから先、この試合を改めて振り返った時に彼らが軽んじられることがあるとしても、それは因果応報に他ならない。
「結局、お前達は俺じゃなく美海ちゃんと倉本さんの2人に抑え込まれたんだ。美海ちゃんを負傷退場させたからって、その事実を捻じ曲げさせたりはしない」
美海ちゃんをトレースした150km/hのナックル。
僅か2球のそれが彼らに引導を渡したこと。
それは記録としていつまでも残り続けることだろう。




