見えない世界の是非
見えない世界は判明できない世界であると思っている。肯定するか否定するかの世界だと。先日65歳の叔母と話をしていた時、ひょんなことから、見えない世界の話になった。伯母は科学崇拝者であり、俗にいう霊能者の存在を嫌っていた。確かに私も、霊能者が霊視をする相手にいろいろと情報を探るように会話をし、又その答えが案外と一般的なありふれた内容だったりすると、うさんくさく思うこともある。しかし、ホームズ女史と知り合ってから私は盲目的に盲信するのではないが、霊能者という存在も必要ではないかと肯定するようになっていた。
私達にとって見えない世界は外国語と同じだと、私は考えている。見えない、知らないのだから、知っている人に教えてもらうしか方法はない。外国語ならその国の人に教えてもらうのが一番正確だが、見えない世界のことは見えている、あるいは感じている人からしか教わることができないのだ。外国語を教えてもらうとき、その国の人に教わる。その国の人から学ぶことはできないなら、学校の先生から教わる。学校の先生から教わるのではないが、近所の年上のお兄さんお姉さんから教わるというように、見えない世界も本来なら、見えない世界の人から直接自分が教わる。直接教われないのならば宗教家から教わる。けれど、宗教家からも教わることができないので、知り合う事のできる霊能者からの知識を頼りにするという図式ではないのだろうか。
自分が教わった相手のレベルにより理解の深さがあいまいさを持つことは避けられないリスクなのではないだろうか。
基本、世間は見えない世界を否定している。宗教家達も進んで見えない世界のことは教えとして説かない。それは、見えない世界の有る無に関係がなく、日々を生活する人間にとって見えない世界は必要のない世界だからではないかと思う。ときにふっと見えない世界と生きている人が出会いがしらのように交差することは確かにある。けれど、ホームズ女史と出会ってからの5年間を振り返ってみると、見えない世界、不思議の世界に係わることは、心身の体調に係わっていると気がついていた。心身に活力と喜びが満ち溢れている時は、見えない世界と交差することはないのだと気がついていた。見えない世界は、自分の知らない世界であり、理解できない世界ということは怖い世界だ。自分の心身が病み疲れている時に、引き寄せられてしまう世界なのだと思う。だから、見えない世界は肯定してはいけない世界なのだ。
けれど、もし、心身のバランスが壊れ、自分の意思に係わらず見えない世界と係わってしまった時、人は誰に頼ればよいのだろう。
実は私は先日姪からあるメールをもらった。彼女は子供を産んだばかりでまだ入院中だった。
「あのね、火の玉を見た。子供に何かあったらどうしょう。怖いよ」
彼女は私が心霊関係の本をよく読んでいたのを思い出して、私にメールを送ってきたのだ。ここで、ずっと書いてきたように私に霊感はない。けれど
「大丈夫だよ。それは産まれて来た子供を見に来た御先祖様だよ。」
そして、もっともらしく
「たぶん、あなたの父親側のご先祖のような気がするね」
と、付け加えた。産後の不安定な気持ちが何らかの光を見て火の玉だと思ったものか、生死が渦巻く病院だから、実際にそれは火の玉で、ただ現象として現れたのか。もしくは、何らかの意味をもって
彼女を対象として現れた現象なのか。私には知るすべもない。ただ、とりあえず安心させて、それが一過性の現象なら問題にならないし、一過性でなければホームズ女史がいてくれるからと、嘘八百を言うにも、見えない世界の解説者ホームズ女史がいてくれることがよりどころとなっていたのだ。
また、姪にしても、そういうことに興味のある女性が叔母である私だからこそ、素直に頼ってきたのではないかと思うのだ。その後姪は何も言ってこないので、一過性の現象だったのだろうが私はこの話はホームズ女史にはしていない。様々な人が様々な事情を抱えて生きるこの空間。時に妙なことも起きるだろう。それをいちいち不安がって不安をさらに大きくするよりは、流してやったほうがいいこともある。本当に抱えきれない不安に対して私はホームズ女史を頼みにする。また、本当に対処せねばならない大事の場合は彼女のほうからコンタクトが来る。もし、私が彼女と知り合えていなければ、別の誰かと出会う運命が待っていたかもしれない。
地球上には190万の種が存在するらしい。自分がその190万種の中で人間として生まれたことは意味のあることだと私は感じる。人間として生まれてきただけで、自分には強いエネルギーがあるのだとかんじている。霊能者と一般人。お伺いをたてて、従ってという状況になるのは問題があると思う。
見えない世界をのぞき見るときは自身の強さを失ってはいけないと、私は思っている。
先日また別の見えない世界を見る方と知り合ったのだが、その方もこう言った。
「私は1対1で会うのは遠慮してもらっています。そういう状況になると、すべてを私に頼ってしまうという状況になりがちなので」
なるほどなと思った。普通に生きていれば、本当に見えない世界にかかわる重大事などそうあるものではないのだ。生きるにおいてつきまとう、不安や苦しさを見えない世界に置き換えて誰かを頼って生きるという構図が問題なのだ。
ホームズ女史も
「人に見えない世界でのことに助言を与えるのは、自分がそういう役目をもって生まれてきているから。だから、こういうことにお金をとってはいけないのよ。もらっても本当に気持ちだけ。でないと、見えなくなるのよ。」
と言う。彼女たちは彼女たちの役目をもって生きているだけ。霊能者であれ一般人であれ、一生懸命に生きているもの同士がどこかでであって、そんなときに見えない世界が開かれていれば、その世界のことを垣間見るだけの事だろう。それ以外の意味はない。
専門的なことも宗教的なこともわからず、ただ平凡な一人の存在として不思議の世界を覗き込む私だがホームズ女子はじめ、そんな不思議の世界を語る何人かの人たちと接触をして思うことがある。
彼女たちが不思議の扉を開く方法はまちまちだし、表現もまちまちなのだが、こと1貫して共通のことを語る場合もあるということだ。占い。四柱推命。霊感。オーラ。手相。どの語り手も同じキーワードを語る。私の場合について言えば、墓、先祖、をかならず言われる。何故彼女らにそういうことがわかるのだろうか。
四柱推命の先生ははっきりと統計学といいながら、霊感の方の先生も同じことを言う。人は生まれてくるときにすでにいろんな情報をその命に何らかの方法でデーターとして書き込まれているものがあるのだろうか。
テレビでよくきく死の際の話に彼岸と川と花畑の話がある。私は体験したことはないが、心臓病で死に掛けた伯母も話していた。
「救急車で運ばれる自分を宙で浮かんで見ていたのよ。次にきれいな花畑があったわ。川の向こうでだれかが呼んでいた。行こうかと思ったけれど、別の誰かがおーい。おーい。とこっち側から呼んでいる声に気をとられたら、自分の体に戻っていたのよ」
また、義姉も話していた。こちらは、子供の頃に病気で死に掛けたときのことだ。
「暗い、真っ暗い中をギュワーンとすごいスピードで飛んでいたの。しばらくしてから闇を抜けると、なんだか口に牙がはえた鬼のような大きな人のところへ出た。それから、またギュワーンと闇の中をとんで今度はきれいな花畑にでたの。川があって誰か、自分が好きだと感じているような人が呼んでいて、手まねきをしていた。そちらへ行かなくてはと思ったら、別の誰かが呼ぶので振り向くと、病院だったのよ」
この共通イメージを解説者は脳が見せる共通のイメージだと語っていたような気がする。姉が語る話は暗い産道を通って産まれる生命のイメージも感じさせるし、人の魂が何段階かにわけられていて、そこにたどりつくまでの移動のイメージもある。ある寺の本堂の下の戒壇めぐりを私は何度か経験したことがある。前の人も見えぬただ闇の中で、1方向の壁にだけ手をそえて迷路をたどるというものだ。途中何箇所かでろうそくの明かりにともされた仏様に出会うようになっている。出会っては又闇に帰ってゆく。ここには、宇宙と命のイメージがある。けれど、何度か繰り返してこれを体験してみるとシグナルのような機械的な印象も受ける。生命はあるいは計算されたデータではないのかと思う。
「人は何故生きるのか」
中学生の頃にそんなことを考えた。
今はばくぜんと答えを得ている気がする。
「命というものは生きることを使命に得ているものなのだ」
脳がデータを持っている。そのデーターに不思議の世界の案内人たちは何らかの方法でアクセスができる。そして、自分なりの解析方法を持っているのだろう。彼女達は揃って言う。
「自分たちの役目だ」と。
「命はどこからやってくるのか」「魂はどこで誰によって命にかかわってくるのか」
不思議の案内者の言葉に耳をかたむけながら、いつかぼんやり自分にも答えがわかるときが
くるのだろうかと思う。
へびの事件も忘れて生活していた頃のこと。いつものようにホームズ女史とハドソン夫人と食事をしていた。そのころ私はまた体調がひどく悪く、無理な生活をしていたので、潜在的な不安があったのだろうと思う。
「私、死んでしまうかもしれない」
思わず、ホームズ女史に語りかけた。すると、女史は笑いながら
「死なないわよ。死んでしまう人は、影がね、やっぱり、薄い。あなたは大丈夫」
「そうなの。じゃあ、今私どう見えてるの」
ホームズ女史は私をあらためて上目づかいに見た。
「まあ、また今度言ってあげる」
煮え切らない話だなと思いながらその場はそこまでにしたのだが、それから1か月もしない間に
私は頭の手術をするために入院することになっていた。
当初生存率が厳しく、死も覚悟したのだが、ホームズ女史が「あなたは、死なない」
と、言ってくれた言葉がどこか頭のすみにあって、なんとなく大丈夫なのではないかという気もしていた。そして、私は手術前とほとんど同じ状態で退院することができ、退院してのちハドソン婦人から聞いたのだ。
「あの後きいたらね、あなたの頭が異常に大きくゆがんでみえていたんだって」
手術が終わって、ホームズ女史からそのことを聞いたなら、後からだったら何とも言えるわと半信半疑のことなのだけれど、ハドソン夫人から聞くことによって、やはりホームズ女史には感嘆させられた。けれど、冷静に考えねばならないこともある。以前ヘビ憑きと表現された、私の不調。それは明らかに病気のせいであったはずだ。ホームズ女史は病気という言葉では一切語らなかった。病気が彼女の感覚にへびとして表現されたものか、実際見当違いの解説であったのか、へびと病気が一体となって起こった出来事であったのか。やはり、見えない世界のことはわからず、知るべきものではないのだ。この1点のみは肝に命じなければならないと思ったのだった。けれど、ホームズ女史の与えてくれた安心感は、その時にまさしく私に必要なものだった。
実は自分が生き残るのではないかと漠然と思ったのにはもうひとつ理由がある。これも根拠のない話なのだが、私が入院した病院は私が母を看取り伯母を看護した病院だった。もし私が死ぬのならば、母がその死のサインを受け取ったように私もなんらかのサインが二人から送られてくるのではないかと思っていたからだ。結果として二人からは、何のサインも送られてこず、私はその後の入院中、一度も二人の夢すらみなかったのだ。
ただ、一つだが不思議なことに遭遇した。それは、手術前、やはりナーバスになっていたのだろうと思う。11時すぎ、さすがに消灯をして眠りかけたらベッド近くで男性の寝息がする。私は個室にいたので、こんな近くで隣の部屋の人の寝息が聞こえるはずがない。ましてや、隣はやはり個室で空室だったはずだ。思わず私がこの部屋に来る前の患者が亡くなっていて、その人が来ているのかと思った。しかし、寝息は規則ただしく、苦しんでいる様子は感じられなかった。気のせいかしら。しかしやはり聞こえる。私は寝息ですら怖かった。母の形見や神様のお守りをにぎりしめ1時間ほどまんじりともしなかった。そして、12時半頃にその寝息も聞こえなくなり、その後私も眠ったのだ。
手術後看護師さんに確認をすると、前の方は男性だったが元気に退院した方でしたよと教えられた。
あのとき私はやはり手術前で緊張していたのだと思う。そして、その緊張感が病院そのものにリンクし、あの寝息を拾ったのかもしれないと今は思っている。
頭の手術後、私の体調はすこぶるよく、生活環境も好転した。5年の間にホームズ女史と出会い、いろんな不思議を感じた。私はホームズ女史やハドソン夫人と出会うべくしてであった。そして今、見えない世界を見る私の日々は終わりを告げ、私のワトソン記述はラストを締めくくっている。
様々なご意見があると思いますが、作品はフィクションですので、ご了承ください。




