パワーアップ
# 第1話 腕が大きくなるなんて聞いてません
長かった。
本当に、長かった。
模試に過去問。参考書に単語帳。
朝起きて勉強して、学校でも勉強して、帰ってからも勉強して。
そんな生活を一年近く続けて、ようやく終わった。
「大学生……!」
なでしこは、スキップを混ぜながら駅へ向かっていた。
十八歳。
今日が大学生活、最初の日。
第一志望にも受かった。
受験勉強とも、もうお別れだ。
これからは友達を作って、サークルなんかにも入って。
もしかしたら彼氏だってできるかもしれない。
「やっと私の青春が始まる……!」
口にすると、少し恥ずかしくなった。
けれど今日くらいは浮かれてもいいと思う。
受験勉強、頑張ったのだから。
駅へ続く道を歩いていると、信号のない横断歩道が見えてきた。
なでしこは足を止める。
左右を見る。
まっすぐ伸びた道路の向こうに、一台のトラックが見えた。
まだ距離はある。
なでしこは横断歩道を渡り、そのまま反対側の歩道へ上がった。
その時だった。
「にゃあ」
「ん?」
背後から鳴き声がした。
振り返る。
歩道の端にいた小さな猫が、突然、道路へ飛び出した。
「えっ」
猫は横断歩道の上を走り――
道路の真ん中で、ぴたりと止まった。
「ちょっと!」
さっき見えたトラック。
もう、すぐそこまで来ている。
「危ない!」
考えるより先に身体が動いた。
なでしこは、今渡ってきた横断歩道を駆け戻った。
けたたましいブレーキ音。
猫を抱き上げる。
その勢いのまま、歩道へ放り投げた。
次の瞬間。
大きな音がした。
◇
「――残念ですが、あなたは亡くなりました」
「…………」
なでしこは目の前の女性を見つめた。
真っ白な空間。
真っ白な机。
向かいに座っているのは、長い金髪に白い服を着た女の人。
頭の後ろには、薄く光る輪まで浮かんでいる。
「……死んだ?」
「はい」
「私が?」
「はい」
「今日、大学の初日だったんですけど」
「……はい」
「まだ校門すらくぐってないんですけど」
「はい」
「猛勉強したんですけど」
「…………はい」
なでしこは机に両手をついた。
「私の大学生活は!?」
「お気持ちは分かります」
「絶対分かってない!」
思わず叫ぶ。
女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ただ、猫は無事でしたよ」
「……ほんと?」
「はい。元気に走っていきました」
「…………なら、まあ」
って、よくない。
猫が助かったのは良かった。
でも自分は死んだ。
今日から大学生だったのに。
サークル。
友達。
恋愛。
全部これからだった。
「それで、ここどこなんですか?」
「申し上げても分かりにくいと思います。ただ、私は異世界への転生を担当している女神です」
「女神……」
「はい」
見た目的には納得できる。
状況はまったく納得できない。
「あなたには、別の世界で新しい人生を送っていただくことになります」
「現実には戻れないんですか?」
「通常は難しいですね。ただ――」
女神は少し考えた。
「転生先には、魔王と呼ばれる存在がいます」
「はい」
「もし魔王を討伐するほどの功績を成し遂げられ、その時に元の世界への帰還を希望されるのであれば、検討できます」
「倒せば帰れるかもしれない?」
「はい」
「じゃあ倒します」
「即決ですね」
「大学行きたいので」
今日始まるはずだったのだ。
せっかく受かった大学を、このまま諦めるつもりはない。
女神が少しだけ笑った。
「でしたら、転生特典を一つお選びください」
女神が指を振る。
すると空中いっぱいに文字が現れた。
【剣聖】
【大魔導士】
【超速再生】
【未来予知】
【完全鑑定】
【錬金術】
【魔獣使役】
【――】
「うわ……」
一つ一つに長い説明まで付いている。
魔力効率。
発動条件。
適性。
属性。
成長補正。
文字を見るだけで頭が痛くなってきた。
「こちらの《大魔導士》ですと六属性への適性があり、魔力変換効率と詠唱短縮が――」
「待って」
「はい?」
「これ、全部説明聞くんですか?」
「できれば。その方が転生後に困らないかと」
「…………」
なでしこは大量の文字を見上げた。
英単語。
古文。
数学。
世界史。
模試。
判定。
赤本。
記憶が一気に蘇る。
「……もう、いい。いい」
「え?」
「異世界のことなんて今聞いても分からないし」
「ですが、それぞれ細かな仕様が――」
「私、つい先日まで受験生だったんですよ」
「はい」
「猛勉強にはもううんざりなの!」
もう覚えたくない。
考えたくない。
今日は大学初日だったのだ。
本来ならもう、こんな説明を必死に覚える生活から解放されていたはずなのだ。
「なるべく簡単で、強いやつでお願いします」
「簡単で強いもの、ですか」
「はい。考えなくても使えるやつ」
「でしたら……」
女神が一覧を操作する。
一つの項目が目の前へ移動してきた。
【パワーアップ】
「こちらはいかがでしょう?」
「パワーアップ」
「身体能力を強化できます」
「それ」
「早いですね」
「名前からして分かりやすいし」
「ただ、このスキルにはいくつか仕様がありまして――」
「もういい、いい」
「え?」
「強くなるんですよね?」
「それは間違いなく」
「じゃあ、それでお願いします」
「ですが――」
「大丈夫です。私、ゲームとかもやってましたから。パワーアップくらい分かります」
「…………そうですか」
女神が少し気になる顔をした。
しかし、なでしこはもう説明を聞く気がなかった。
「では、《パワーアップ》を付与します」
光が身体を包む。
「出力は百分率で調整できますが――」
「はいはい、分かりました」
「…………」
女神は何か言いたそうだったが、結局やめた。
「それでは、良い第二の人生を」
「魔王倒したら帰ってきますからね」
「お待ちしております」
足元が光った。
景色が白く染まる。
◇
「…………」
鳥の声。
風。
草の匂い。
なでしこはゆっくり目を開けた。
「……森?」
周囲には木しかない。
舗装道路も電柱も建物もない。
服も変わっていた。
白いシャツに動きやすそうなスカート。
冒険者が履いていそうなブーツ。
腰には小さなポーチ。
「ほんとに異世界来ちゃった……」
少し汗ばんだ手を見る。
元の身体とほとんど変わらない。
少し安心した。
「とりあえず町を探さないと」
少し先に道らしきものが見える。
そこを歩けば、そのうち人里に出るだろう。
そう考えて歩き始めた。
数分後。
ぷるん。
「ん?」
道の真ん中に何かいた。
薄い青い塊。
ぷるぷる震えている。
「…………スライム?」
なでしこは目を輝かせた。
知っている。
ゲームでも漫画でも、だいたい最初に出てくるやつだ。
「本当にいるんだ」
スライムがこちらへ向いた。
目があるのかは分からない。
ぷるぷる。
「……敵?」
ぷるっ。
跳ねた。
「うわっ!」
なでしこは慌てて横へ避けた。
スライムが地面に落ちる。
そして、またこちらを向いた。
どうやら敵らしい。
となれば。
なでしこは自分の右手を見る。
転生特典。
《パワーアップ》。
「せっかくだし、試してみよ」
どうせ相手はスライムだ。
初戦にはちょうどいい。
「出力は百分率って言ってたよね」
十。
二十。
三十。
小さく試してもいい。
けれど。
「……最初なんだし、最大が一番分かりやすいか」
なでしこは右拳を握った。
「《パワーアップ》!」
意識を右腕へ集中させる。
「右腕――百パーセント!」
身体の奥から、何かが一気に流れ込んできた。
「お……」
力が。
右腕に集まってくる。
ものすごい。
今まで感じたことのない力。
「なにこれ……!」
スライムがなでしこめがけて跳んだ。
「えいっ!」
軽く拳を振る。
バゴンッ!!
「…………え?」
スライムが消えた。
違う。
上だ。
青い塊が、とんでもない勢いで空へ飛んでいく。
「え」
まだ上がる。
どんどん小さくなる。
「ええ……?」
やがて点になった。
そして見えなくなった。
なでしこは口を開けたまま空を見上げていた。
「…………すご」
遅れて笑みが浮かぶ。
「すごいすごい!」
拳を握る。
「なにこれ! めちゃくちゃ強いじゃん!」
スライムとはいえ、軽く殴っただけだ。
それが空の彼方まで飛んでいった。
「このパワーなら魔王だって意外と簡単なんじゃ――」
そこで。
なでしこの視線が、右腕へ落ちた。
「…………」
止まった。
「…………え?」
腕。
自分の右腕。
さっきまで確かに細かった。
なのに今は。
「え」
太い。
「…………え?」
もう一度見る。
太いなんてものじゃない。
なでしこはゲームも漫画もそれなりに知っていた。
力こそすべて。
素早さも魔法も捨てて、巨大な武器を振り回すことだけが存在意義みたいな重量級キャラクター。
そんなキャラの腕だけを切り取って。
自分の身体に無理やりくっつけたみたいだった。
いや。
それより太い。
「…………」
左腕を見る。
普通。
右腕を見る。
異形。
「…………いや」
右腕を持ち上げる。
動く。
間違いなく自分の腕だ。
「いやいやいやいや」
頭が追いつかない。
「なにこれ」
もう一度見る。
「なにこれ!?」
さらに見る。
「いやああああああああっ!!」
森中に悲鳴が響いた。
「なにこれええええええええっ!?」
世界がぐらりと傾いた。
「ちょ、待っ……これ、私の……」
そこで。
なでしこの意識は途切れた。
バタッ。
異世界へ転生して、およそ十分。
なでしこは自分のチートスキルを見て、気絶した。




