第40話 許したわけじゃない。それでも、あなたと
第40日の朝。
ルミナリエルの空は、どこまでも高く、澄み切った青色に包まれていた。神界との通信が途絶え、絶対的な命令が消え去った世界には、ただ穏やかな風が吹き抜けている。
初期街のギルド資料室。俺は、朝陽が差し込む机の上に『死亡台帳』を広げ、炭筆を握っていた。
ヴァルドレンが更迭され、ルミナリエルが神界から『住民共同管理世界』として正式に維持承認を受けたことで、神界のデータ規定が大きく書き換えられたのだ。俺が個人的に書き溜めていたこの黒い帳面は、隠蔽された死者のリストではなく、神界のデータベースに直結する公式な『防止可能事故記録』として採用されることになった。
俺は、台帳の最初のページを開く。
そこに記されているのは、俺の妹、ノアの名前だ。
俺は死因の項目に、『英雄生成配置の固定化と、安全指定の仕様バグ』という正確な原因区分を書き込んだ。そして、その横にある大きな備考欄に、押し花になっていた一輪の青鈴花を貼り付け、その下にノア自身の字で書かれていた一行を、公式な記録として書き写す。
『青鈴花が閉じたら、風が変わる』
九年前、大人の誰一人として信じなかった子どもの観察記録。
俺はペンを置き、その文字をじっと見つめた。これで、ノアはただ理不尽な仕様に殺されただけの哀れな犠牲者ではなくなった。彼女は、この世界の致命的なバグに一番最初に気づいていた『最初の住民観測者』として、神界の歴史に永遠に刻まれる。
「……待たせたな、ノア」
俺は、心の奥底でずっとわだかまっていた重い泥が、少しだけ水に溶けて流れていくのを感じていた。
トントン、と扉がノックされ、ギルドの職員が入ってきた。
「ユウさん。王都の管理局から、通行証の正式な受理通知が届いています」
俺は腰のポーチから、先日買い求めた一枚の硬い羊皮紙を取り出した。
透かしの入った正式な許可印。それは、俺が辺境の村で何でも屋をしながら、来る日も来る日も金を貯め続けて、ようやく手に入れたもの。
浮遊島ルミナリエルから降り、安全な地上の海へ通じる港への『通行証』だった。
「地上の、海か」
俺は通行証の滑らかな手触りを確かめた。
ルミナリエルの世界炉は維持され、魔獣潮は去った。俺がこの世界を逃げ出さなければならない物理的な理由は、もうどこにもない。
だが、俺はこの通行証を破り捨てることも、ギルドに返却して換金することもなかった。
俺は通行証を、死亡台帳の表紙の裏側にそっと挟み込んだ。
これはもう、逃げるための切符ではない。俺がいつでも自分の足で、自分の生きたい場所を「選べる」という、自由の証明だ。
直後、資料室の扉が勢いよく開いた。
「ユウ!」
神力を完全に失い、ただの人間と同じように足音を立てて駆け込んできたのは、エリシアだった。
彼女は手縫いで直した外套を羽織り、その腕には、自分の背丈の半分ほどもある分厚い書類の束を抱え込んでいた。
「エリシア。それは?」
「各地域からの、住民投票の結果です。集計が、先ほど終わりました」
彼女は書類の束を机にドンと置き、荒い息を吐きながら俺を見た。
「百年前の隠蔽の罪を全域神託で公開し、神界の権限を返上した私を、それでもルミナリエルの次の管理者として認めるかどうか。……住民たちが出した答えです」
俺は書類の束の表紙に書かれた、最終的な集計結果の数字を見た。
圧倒的な、『再任』の合意。
住民たちは、彼女の百年前の嘘を許したわけではないだろう。だが彼らは、神力もないのに泥だらけになって瓦礫を退け、自分の命である神核を燃やして新しい光脈網を繋いだ彼女の『行動』を見てきた。
失敗を隠して安全な塔に引き籠る神よりも、失敗を晒して現場で汗を流す人間同然の女を、彼らは自分たちの代表として『選んだ』のだ。
「……よかったな。あんたの望み通りになったじゃないか」
俺が言うと、エリシアは目に涙を浮かべながら、深く、深く頭を下げた。
「はい。これもすべて、あなたが私を逃がさず、現場に立たせてくれたおかげです。……ユウ」
彼女は顔を上げ、俺の腰にある死亡台帳――そこに挟まれた通行証の端を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの監査官としての契約は、すでに終わっています。通行証を手にしたあなたは、いつでもこの世界を出て行く自由がある。……それでも、私は」
彼女は両手を胸の前で強く握り合わせ、震える声で言った。
「私は、あなたにこの世界に残ってほしい。これから私が住民と共に直していくルミナリエルを、一番近くで見ていてほしいんです」
俺は、彼女の不器用で、まっすぐな目を見返した。
「エリシア。俺は、あんたの百年前の隠蔽を許したわけじゃない」
俺の声は、どこまでも冷静だった。
「ノアのことは一生忘れないし、あんたへの怒りが完全に消え去ることはない。感動的な告白や涙で、過去の隠蔽を帳消しにして、すべてを許すなんてことは絶対にできない」
エリシアは、俺の言葉を否定せず、ただ哀しげに頷いた。
「でもな」
俺は、机の上の死亡台帳を閉じ、腰のベルトにしっかりと固定した。
「神の威厳で失敗を取り繕うとするあんたは嫌いだったが……泥だらけになって泣きながら、それでも住民のために自分の服を縫い直そうとしたあんたとなら、俺はこの世界の未来を一緒に作っていけると思ってる」
俺の言葉に、エリシアの目から堪えきれなくなった大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
彼女は一歩踏み出し、以前水路を直した時のように、俺の右手を両手で強く握りしめた。
だが今度は、俺の痛みを誤魔化すための術式接続も、強大な反響遮断の神力も必要ない。ただの人間同士の、少し汗ばんだ、温かい体温の交換だけがそこにあった。
そして彼女は、握った俺の手を引くようにして、ごく自然な足取りで、俺の『右側』へと立ち位置を移動した。
俺は小さく笑った。
二度目の深読みの代償で、俺の左耳は高い音を拾えなくなっている。彼女はそれを知っているからこそ、俺の耳に声が一番届きやすい右側に、当たり前のように立ってくれたのだ。
謝罪の言葉も、愛の誓いもいらない。その不器用で優しい仕草だけで、俺たちがこれからどう生きていくのかは十分に伝わってきた。
「行きましょう、ユウ。初期街の南区画から、さっそく『第一回・住民提案による光脈網の小規模修正』の要請が届いています」
「ああ。またバルクの爺さんが無茶な設計図を引いてるかもしれないからな。俺たちが調整してやらないと」
俺たちは手を繋いだまま、ギルドの資料室を後にした。
この世界に、完成された正解なんてない。
だから俺たちは、許しを保留したまま、明日も明後日も、住民たちと一緒にこの泥臭い世界を直し続けていくのだ。




