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第39話 世界は、住民の連署を拒めない

第38日の午後。王都外縁の現地監査塔の屋上。


 南の渓谷の上空で魔獣潮が同士討ちの末に完全に霧散し、ルミナリエル全域の空を覆っていた鉛色の雲が、少しずつ晴れようとしていた。


 だが、監査塔の屋上には、魔獣よりも冷たく、理不尽な死の気配が満ちていた。


「ルミナリエルの【世界炉】を、即時停止する」


 ヴァルドレン審査長は、血走った目で空間に浮かぶ神界の端末を睨みつけながら、喉を振り絞るように絶叫した。


 もはや、彼の中に冷静な全体最適の論理はない。自らの配分モデルを根底から覆す『英雄不在・損失の自己決定』という事実を目の当たりにし、その恐怖を塗り潰すための暴走だった。


「私は審査長の権限において、この世界のエネルギー供給を完全に断つ!」


「お待ちください」


 彼が空間の端末に手を触れようとした瞬間、ノクトが眼鏡を押し上げながら一歩前に出た。


「神界の規則第百四十二条。世界炉の物理停止には、審査長命令に加え、住民影響監査官と監査神会所属一柱の副署が必要です。……私は、ルミナリエルの住民が新たな光脈網の損失を自ら引き受けている事実を重く見ます。よって、停止への副署を明確に拒否します」


「私も、副署を拒否しますわ」


 ノクトに続き、上位創造女神セレーネが一歩進み出た。


「現地確認は完了しました。このルミナリエルには、十一年前のようなエゴのぶつかり合いによる自滅の兆候は一切見られません。彼らの防衛網は、神の奇跡よりも強靭に機能しています」


「黙れッ!! お前たちが署名せずとも、審査長の最高権限をもって強制停止コードを上書きする!」


 ヴァルドレンは二人の静止を振り切り、水晶の杖で空間の端末を強打した。


 バチィッ! という紫色のスパークが弾け、彼の手からルミナリエルの心臓部である『世界炉』へ向けて、直接的な停止信号が打ち出された。


 俺とエリシアは息を呑んだ。審査長の権限暴走による、物理的な強制停止。


 だが。


 ガガッ……ピーーッ。


 空間の端末が、無機質なエラー音を鳴らし、真っ赤な警告文字を吐き出した。


『エラー。世界炉の停止プロセスを実行できません。――対象地域からの【停止同意の連署】が確認できません』


「……な、なんだと!?」


 ヴァルドレンが驚愕に目を見開く。俺も、思わず声を漏らした。


 ノクトが、微かに口角を上げて淡々と解説した。


「第23日に私が下した監査判断、第30日に彼らが集めた地域連署、そして第34日に行われた正規改修の仮登録。……それらを経て完成したルミナリエルの新しい光脈網は、すでに神界のシステムに『正規のインフラ』として組み込まれています」


 ノクトは、エラーを吐き続ける端末を指差した。


「そして、その正規改修の登録条件には、『システムの変更・停止には、対象地域の意思確認を要する』という法的ロックが組み込まれています。住民意思の欠落した一方的な停止信号は、システム上で技術的かつ法的に弾かれるのです」


 それは、神界の理不尽な命令に対する、完璧な防壁だった。


 俺たちが泥水にまみれて集めた地域連署は、ただの合意形成の書類ではない。神の暴走から世界を守るための、最強の盾として機能したのだ。


 王都の防壁は薄くなったが、ルミナリエル各地の家々で灯された『灯渡し』の光は、誰にも消されることなく世界を照らし続けている。


「ば、馬鹿な……神の命令が、人間の署名ごときに弾かれるなど……ッ!」


「そこまでです、ヴァルドレン審査長」


 うろたえるヴァルドレンに対し、ノクトは自らの分厚い書物を開き、神界の最高意思決定機関である『監査神会』への緊急通信回線を繋いだ。


「私は中立の監査補佐官として、本日の実地記録――ルミナリエルの住民が自らの痛みを引き受けて魔獣潮を撃退した事実と、あなたがそれを無視して不当な権限行使を行った事実を、監査神会の十一柱すべてへ公開します」


 空間に、神界の円卓を囲む十一柱の神々の幻影が浮かび上がる。


「同時に、私は動議を提出します。ヴァルドレン審査長の行動は、自身の管理する二十三世界の配分モデルを守るためだけの、個人的な利害による暴走であると断定。彼に対する『審査長職務停止案』の採決を求めます」


 監査神会の円卓が、ざわめきに包まれる。


「採決を取る!」「待て、二十三世界の配分がどうなる!」「だがルミナリエルの現場の記録は無視できない」


 神々の議論が交わされる中、現地にいるセレーネが静かに手を挙げた。


「私は、保留の立場から『賛成』へ転じます。ルミナリエルの住民が示した更新力は、私が管理する完成された世界にはない、新しい価値を持っています」


 セレーネの明確な賛成表明が、決定打となった。


 空間に浮かぶ議決の光柱が、次々と『賛成』の色に染まっていく。


『……投票終了。賛成七、反対二、棄権一。六票以上の要件を満たしました』


 監査神会の議長を代行する神の声が、厳かに響き渡る。


『ヴァルドレンの審査長職務を、ただちに停止する。お前には、管理する二十三世界のすべての資料提出と、後任への引継ぎを命じる』


「くそっ……私の配分モデルがなければ、神界の資源はいずれ枯渇するぞ! 後悔することになるぞぉぉっ!」


 ヴァルドレンは絶叫しながら、監査神会の執行官たちの光の鎖に縛られ、神界へと強制送還されていった。


 彼が管理していた二十三の世界は、罰として報復廃棄されることはない。新たな審査長のもとで、ルミナリエル方式の要素を加えながら、痛みを伴う『再監査』を受けることになるだろう。


 悪人が神の雷で燃やし尽くされるような劇的な最後ではない。事実と記録の積み重ねが、古い制度の担い手を、論理的な手続きによってただ『交代』させたのだ。


『最後に。ルミナリエルに対する監査結果を通達する』


 神界の円卓から、ルミナリエル全土へ向けて光が降り注ぐ。


『ルミナリエルを、住民共同管理世界として正式に【維持承認】とする。世界炉からの資源供給は、今後も継続される』


 その通達を最後に、神界との通信回線は完全に切断された。


 監査塔の屋上に、長い、長い静寂が戻ってきた。


 空を覆っていた鉛色の雲が完全に割れ、差し込んできた眩しい午後の光が、泥だらけの俺とエリシアの顔を照らし出した。


「……終わった、のか」


 俺は、こわばっていた肩の力を抜き、深く息を吐き出した。


 ヴァルドレンは去り、世界炉の停止は回避され、ルミナリエルは生き残った。


 それは、世界を直すという俺たちの『修正契約』の目的が、完全に達成されたことを意味していた。


 俺は隣に立つエリシアを見た。


 彼女は、権限を返上し、神力も使い果たし、ただの人間と同じように泥と疲労に塗れていた。


「……はい。これで、私の監査官としての役目も、あなたとの契約も、すべて終了です」


 彼女は、寂しそうに、けれどどこか晴れやかな顔で俺に微笑みかけた。


 契約が終わった。


 俺と彼女を繋いでいた、最後の理由が消滅したのだ。


 彼女はもう、この世界の絶対的な管理者ではない。そして俺の腰のポーチには、すでにこの世界から出て、海のある港へ向かうための『通行証』が入っている。


 義務も、鎖もなくなった。


 吹き抜ける午後の風の中、俺たちは互いに言葉を探すように、黙って立ち尽くしていた。

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