11中岡慎太郎
松代での謹慎が八年目を迎えた一八六二年(文久二年)。高杉晋作が去ってから約二年が経ち、煙雨楼の主・佐久間象山のもとに、また一人、時代の熱気を帯びた男が姿を現した。
土佐の脱藩浪士、中岡慎太郎である。
当時、中岡は各地を奔走し、倒幕の機を窺う志士たちの間を縫うように歩いていた。象山は山奥に閉じ込められながらも、勝海舟らとの文通を通じ、中岡の名をすでに聞き及んでいた。
「武市半平太が右腕、土佐勤王党の精鋭か。ようやく来たな」
中岡はこの時、異国を直ちに打ち払う「攘夷」の熱に浮かされていた。しかし、象山はそんな彼に対し、冷徹なまでに客観的な世界情勢を突きつけた。
「慎太郎よ。ただ異国を嫌い、刀を振り回すだけで国が救えると思うか。海軍を興し、貿易を行い、富国強兵を成し遂げねば、日本は清国の二の舞になるぞ」
象山の言葉は、中岡の凝り固まった攘夷思想を根底から揺さぶった。さらに象山は、個々の志士がバラバラに動く限界を指摘し、公武合体や雄藩連合による「国家としての統合」という壮大な構想を説いた。
その議論の最中、象山はふと思い出したように、義弟・勝海舟からの手紙の内容を付け加えた。
「そういえば、お前と同じ土佐に、坂本龍馬という面白い男がおる。かつて私の塾でも学んだ男だが、今は江戸で軍艦奉行・勝麟太郎の弟子をやっておるそうだ。麟太郎があれほど買いかぶる男は珍しい」
中岡は、まだ見ぬ同郷の男の名を噛みしめるように呟いた。
「……坂本、龍馬。先生がそこまで見込みをつけちゅう御仁やったら、折を見て、おうてみんといかんですねえ」
この時、象山が何気なく放った「海軍」と「龍馬」という二つのキーワードが、中岡の胸に深く刻まれた。
この出会いから数年後。象山の予言通り、中岡は坂本龍馬と合流し、その圧倒的な行動力で薩摩と長州という巨大な力を結びつけることになる。
かつて煙雨楼で象山が語った「大きな力をまとめる」という構想は、中岡と龍馬という二人の手によって、「薩長同盟」という形で歴史を動かす結実を見ることになるのである。
◇
土佐の中岡慎太郎が去った直後、止まっていた象山の刻が、にわかに激しく動き出した。
「佐久間修理、蟄居を免ずる」
その一言によって、足掛け九年に及ぶ長い謹慎の闇は、ついに終わりを告げた。
折しも、天下は激動の最中にある。朝廷と幕府の間で「公武合体」の機運が急速に高まり、中央は混迷を極める政局を打破できる本物の知性を求めていた。異国が迫る今、日本に必要なのは、開国論と軍学の第一人者である佐久間象山――その怪物じみた知見をおいて他にない。それが、時代が象山を呼び戻した理由であった。
まもなく、時の将軍後見職・一橋慶喜から直々の命が下る。
「京都へ来て、知恵を貸せ」という、実質的な上洛の要請であった。
象山の齢は、すでに五十を超えている。老境に差し掛かった身で、命の保証などどこにもない京の濁流へ飛び込むこと。だが、象山の眼眸に躊躇の色は微塵もなかった。
「この日本の危機を救える者が、俺以外にどこにいる」
不敵な笑みを浮かべ、知の巨人は、いよいよ歴史の表舞台への復帰を決意した。
京都へ到着した象山は、瞬く間に一橋慶喜の政治顧問の地位に就く。
百戦錬磨の政客たちを前に、象山が堂々と説いたのは、徹底した「公武合体」による朝廷と幕府の融和、そして「開国論」であった。国を拓き、海軍を興し、異国の技術を貪欲に吸収してこそ、初めて対等に渡り合える。それが象山の揺るぎなき実学の真理だった。
象山は持ち前の雄弁さと、他者を圧倒する圧倒的な知識を武器に、京の街を縦横無尽に奔走した。朝廷の実力者である中川宮をはじめ、公家や幕府高官の屋敷を次々と訪問しては、その辣腕を振るう。
「これからの日本は、鎖国などという寝言を言っている場合ではない! 朝廷も即刻開国を認め、公武挙国一致で海軍を作るべきだ!」
傲慢なまでの熱弁で居並ぶ者たちを論破し、朝廷の開国合意を取り付けるため、象山は文字通り影で日向で暗躍した。
しかし、そのあまりにも堂々とした開国論の主張と、慶喜の側近として急速に存在感を高めていく姿は、闇に潜む者たちの逆鱗に触れた。
「あの男は幕府を操り、日本を異国に売ろうとする大姦物だ」
京都に潜伏する過激な尊王攘夷派の志士たちにとって、象山は生かしてはおけぬ大悪党であり、不倶戴天の敵となったのである。一触即発の殺気が、京の市街に満ち満ちていた。
元治元年(1864年)七月十一日。運命の夕刻が訪れる。
象山は、一橋慶喜の元での談話を終え、乗馬して宿所へと戻る途中であった。場所は京都・三条木屋町。
夕刻とはいえ、まだ外は明るい。その路上で、象山は突如として躍り出た数名の白刃に囲まれた。前田伊右衛門、そして熊本藩の「人斬り彦斎」こと河上彦斎ら、尊王攘夷派の凶刃である。
象山は、西洋風の鞍をつけた愛馬にまたがり、一見してそれと分かる奇抜な格好を好んでいた。当時にしてはあまりに目立つそのスタイルは、刺客たちにとって絶好の標的であった。
「佐久間象山、覚悟!」
白昼堂々、鋭い斬撃が閃く。不意を突かれ、馬上で身動きの取れない象山に、烈風のような刃が鮮やかに襲いかかった。いかに天下の天才といえど、この不意打ちの暴力の前には無力であった。象山はほとんど抵抗することもできぬまま、その場に崩れ落ち、鮮血の中で息絶えた。
謹慎という九年の長い闇を抜けた途端、もっとも過激で危険な「幕末の京都」という濁流に飛び込み、一瞬の閃光のように激しく散っていった。
それこそが、時代を先走りすぎた天才・佐久間象山の、あまりにも劇的な最期であった。
◇
潮騒が響く神戸海軍操練所。その一室で、勝麟太郎は京から届いたばかりの書状を握りしめ、苦い顔で虚空を睨みつけていた。
書状が伝えるのは、佐久間象山の暗殺。
驚きはなかった。象山が松代の蟄居を解かれ、過激派の巣窟と化した京都へ出てくると聞いたその時から、麟太郎はこの最悪の事態を予見していたからだ。今の京で、あの男が己の正論を大声でぶち上げればどうなるか、火を見るより明らかだった。
「死にに来るようなもんじゃねえか……」
麟太郎は低く吐き捨てた。象山は義理の兄であり、自らの目を世界へと開かせてくれた最高の理解者でもある。だからこそ、そのあまりにも時代を無視した向こう見ずな行動に、腹立たしさと、どうしようもない苦い思いがこみ上げてくる。
「まあ、俺も人のこと言えた義理じゃねえがな」
自嘲気味に口元を歪める。かく言う麟太郎自身も、開国を唱える幕府の要人として、攘夷派の志士たちから毎日のように命を狙われる日々を送っているのだ。明日は我が身かもしれない。
だが、それでも。理屈も通じぬ刃で日本の最高の頭脳を奪い去った攘夷派の、あの盲目的な暴挙には激しい嫌悪感を覚えざるを得なかった。
それと同時に、麟太郎の胸には冷徹な現実が刻まれる。
――綺麗事や正論だけでは、この国は動かせない。
どんなに正しい思想を持っていようと、生きて刃をくぐり抜け、泥にまみれて政を動かさねば、すべては水泡に帰すのだ。
麟太郎はふう、と重い息を吐き出すと、部屋の外へ声をかけた。
「おい、龍馬を呼べ」
やがて部屋に入ってきた坂本龍馬に、麟太郎は机の上の書状を示し、淡々と、しかし重い声で象山の死を知らせた。
「……そうかえ。せんせえが、きられなすったか」
龍馬はぽつりと言ったきり、しばらくの間、言葉を失って呆然と立ち尽くした。
かつて江戸の象山塾で大砲を学び、世界の広さを教えてくれたあの巨大な師が、京の路上で呆気なく斬り殺された。その事実が、すぐには頭に染み込んでこないようだった。
今、京都には長州藩をはじめとする過激な攘夷派が集結し、いつ火の手が上がってもおかしくない一触即発の空気が漂っている。
日本はますます混迷の度合いを深めていた。自国の中で足の引っ張り合いをし、血を流し合っている。これでは、外国人を追い払うどころの騒ぎではない。異国に呑まれる前に、この国が内側から崩壊してしまう。
「斬りおうてばっかりじゃ、いかん。何とかせんといかん……」
龍馬は、窓の向こうに広がる青い神戸の海を見つめながら、絞り出すようにそう呟いた。
師の死という重すぎる痛みを胸に、二人の見つめる未来の軌道が、静かに、しかし決定的に変わり始めようとしていた。




