カヴィア・マリス
2令のシルと3令のニュートが最初に交わした絆のエピソードです。この時の2人は、ややシルが背が高いものの、ほぼ同じ体躯ですが、生まれてからの時間はニュートがおよそ8歳くらい年上、人で言うと10歳のおませな体育系の女の子と16歳くらいの文科系男子の関係をイメージしています。この時の様子を思い出す形で冒頭の天体が命名されるわけですが、ちょっと文字数が増えてしまったのでこの次に。
その夜、シル・クラザールは何かに呼ばれた様な気がして夜空を見上げると、竜座の方向に流れ星の光跡が見えた。
それは明るさを増すと彼女の寄宿舎から見て湖のある方向に真っ直ぐに落ちて行った。
(ドームが破られた?)
気がつくと彼女は2令で得たばかりの二翔を広げ、夢中で飛んで湖の畔に向かっていた。暗い岸辺に届くと、見失ったかと不安に思いながらも不器用なホバリングで対空し、辺りを見回した。
すると、闇夜に薄暗く光る光点が見え、そのそばに佇む青白い輪郭が地上に見えた。
地上に降り微かな光に向かって近づくと、その光点は明滅し出し、其れを穏やかに見つめる、3令にしては小柄なマンティフィロスの横顔を照らし出していた。
暫くそのこの世とも思えない儚げな情景に、精霊か何か人外の様子かと声を失っていたが、その横顔がアルビノであると気がつくと言った。
「ニュートロン?」
横顔の主は、彼の目の前に浮いて明滅する光点から目を離さず言った。
「寄宿舎から来たとしたら流石のスピードだね、シレンティウム。」
2人はクアザールのセクト内の集まりで何度か顔を合わせていたが、言葉を交わしたのはこれが初めてだった。
(私が先に見つけたのに)
何か自らの権利を主張したくてあれこれ逡巡していたが、ニュートがおかしそうに微笑んで視線を彼女に移した。
(あ、、、)
ニュートロンはその発現アルビノの特異な容姿に加え、何よりもその突出した聡明さで姓族はもとより首都にまで名がしられていると聞く。
シルは、その少し子供っぽい独占の考えを彼に悟られたかと思い赤面した。
(私の考えていることが読めるのかしら…)
また、全力で飛んできた自分より先に、羽のないマンティフィロスがそこにいる事が訝しかったが、その中に浮いた僅か2センチほどの球体への好奇心が勝った。
「それは、、、なに?」
ニュートロンは再び視線を球体の方に向けると、点滅は消えて球体の表面に網目のような、地理の授業で見た緯度経度線のような分割が走り、その隙間から今度はランダムにハレーションが起こり始めた。
「球体内で光より早い反応が起こってる。」
そして視線を戻さず続けた。
「因みに、彼は僕がここへ呼んだんだ。君が遅かった訳じゃないよ。」
だんだん、彼の泰然として全てお見通しなんだという様子に少々はらだたしく思い始めていたが、それを表情に表す前に、彼が球体を指すのに人称を用いた事に驚いた。
「彼? それ、生き物なの?」
「カヴィア・マリス。ギフトをくれる。」
当然のようにそう言うと、少し顎を上げ、インプラントを介してだろうか、何かを呟いたが、シルの方を見ると簡潔に言った。
「どうも時間がないらしい。僕に何かあったら姉に連絡だけして君は此処から立ち去るんだ。いいね?」
彼の口調には断固とした響きがあったが、シルは怯まずに答えた。
「嫌よ、それなら3人一緒じゃなきゃ。」
そう言うと、球体に向かって、ちょっとごめんといい、おもむろに手のひらに包み込んで、、、あれ?空中に固定されたかのように全く動かない。
「シル、彼は小さいけどその質量は550トンはあるんだ。慣性を考えないと。」
まさかの彼女の行動に狼狽しながらも、彼は地上を60km/h以上で向かってくる三体の素体の気配を捉えていた。恐らく司書の影だろう。このままだと2分以内に会敵すると彼の副脳が警告していた。
彼は手話でシルに状況を伝えると同時に素体の環境視界に割り込みをかけ混乱を誘った。
「まずいな…。」
しかし、相手も相当な準備を待っての行動だったようだ。
衛星のバックアップ視界までも動員されては、流石にこれ以上手も足も出ない。それに無人機の隠密支援の気配もあった。
とシルだけでも逃がそうと彼女の方を振り返ると、刹那目に入ったのは、まさに彼女が膝から崩れ落ちるように倒れる姿だった。
慌てて駆け寄り彼女の息を確かめると安堵したものの、彼女の中盾板の隙間からワイヤーのようなものが伸びてカヴィア・マリスの南極と繋がっている。
彼は、球体の能動的行動に、その意図をいぶかしむも引き離すことに躊躇していたが、すると今度は自分の中盾板を探りあてるような感触の直後、ニュートロンも昏倒しその意識は見たこともない情報空間に強制的に退避されていた。
シルは気がつくと球体を握り締めてニュートロンと折り重なるように湖畔に倒れていた。時間にして数秒であったが、彼女の意識では何日も眠っていたかのような時間感覚があった。球体のハレーションは一定の脈動パターンを示していたが、いつの間にか彼女の生体磁気通信と球体とのレセプタがインストールされていて彼女の意思のままに球体を動かすことができるようになっていた。同時に彼女の補助脳間の神経節、インプラントとの接続帯域が大幅に拡大している事を認識した。脳神経系への干渉があったことは明らかだったが、彼女は特に違和感なくその最適化措置を受け入れると、重なるニュートロンの青白い体を探り異常がない事を確かめ安堵する。
「ふう…。」一息ついて中脚を使って起き上がる。
なぜか素体は遠巻きに様子を伺うだけでこれまで一向に行動に出なかったが、立ち上がったシルを認識するとその間合いギリギリを読んでその囲みを狭めて言った。
「シレンティウム・クアザール、その球体から離れて伏せなさい。」
ライブラリリンクに素体の照会をするとそれは首都マンディコアのライブラリ分館直属の衛士のものだった。
ふと足下を見るとニュートロンも覚醒して狸寝入りを決めているのが見えた。口元にイタズラっぽい笑みを浮かべている。
「そして、ニュートロン・クアザール、エイリアス-ファルコ、そのインプラントを焼かれたくなかったらリンクを閉じて余計なことはせず投降しなさい。」
シルには、そのアヴァター名には思い当たる事があった。
(こいつ、一体何やらかしたのかしら、まあだいたい想像つくけど)
8周期も年上のマンティフィロスへの敬意はもうすでにどこかに捨ててきてしまったようだ。
無線接続を切り、球体から手を離すと、それはその位置で空間に固定されたように見えた。
そして3歩下がり伏せようとすると、今度は素体とほぼ同じ距離まで離れるようにと指示があった。
「マンティフィロス、覚醒しているのはわかっているぞ、早くこちらに来なさい。」
狸寝入りを決めているニュートロンは、ゆっくり立ち上がるとやがて観念したのか、4脚を挙げてシルとは反対側の素体一体に向かって歩き出した。後手に手話が見える。(何があってもそこを動くな。)
シルの目の前で3素体に囲まれ、ニュートは物理拘束されずにいたが、ソフトウエアロックのインプラントをリンクから施術されたのか、一瞬硬直したように見えた後、そのオッドアイの光彩が消える。
「ちょっとあんた達何を…。」
知性拘束などという暴挙を前にシレンティウムが暴発しかけたその刹那、彼女の触覚が総毛立ちその次元振の源を見上げた。
それは、高速で落ちてくる長い棒状の何かだった。そしてそれは、黒い光線の様子を持って降り立ち、球体を直撃した。球体のあった空間の視界が歪み、辺りにオゾン臭を撒き散らしている。
しかし球体は何事もなかったかのように泰然と宙に浮いたままである。
「な、、、。」
3素体は落体型のディラック転移槍まで持ち出したにも関わらず、なんの効果も見られない結果に一瞬硬直したものの、再び散開して球体を取り囲む。シレンティウムは素体に弾き飛ばされたが辛うじて上体を囲みに向け、果敢にも彼らとの距離を詰めようとした。
「しかしライブラリがここまでやるとは予想外だった。」
いつの間にか拘束を解いたニュートが口を開いた次の瞬間、3素体は痙攣し、硬直した体はその場に崩れ落ちた。
「素体のインプラントは時間期限切って非活性化したよ。焼いちゃいないからあとで自分の足で帰るといい。」
そう空を見上げ言うと、シレンティウムの方も見ずに球体へ手を伸ばした。頑として宙に固定されていて動こうとしない。
「だめだな、彼は君を気に入ったようだ。」
そう言うと、その場に座り込んだ。上空の無人機の気配が去るのを確認する。
そして警戒を一段といて、ようやくシルを見ると、彼女は、恐る恐る球体を手に取り、それをこちらに近づけようとしていた。
彼女の逡巡が彼と球体を案じてのものだと知ると、彼女を安心させるため言った。
「姉を呼んだ。セクト長と学長もこっちに向かってきている。」
確かニュートの双子の姉、クラウディアは軍籍のはずだ。故郷に帰ってきていたのか。
「ニュート、彼をどうするの?」
座り込んだ彼の横に立ったまま不安そうに尋ねる。
球体は落ち着いたような周期的な明滅ラインを纏って大人しくシルの手の中に納まっている。
ニュートはそれに答えず遠くを見ていった。
「君も、あそこに居たね。彼と何を話したのかな?」
その言葉で、シルは二人が夜空の同じ方向を無意識に眺めていることに気が付いた。
セクトの大人たちのホバーが現場に到着するまで、2人は無言でその夜空を眺めていた。
ここで、球体によってシルとニュートは一度物理的に結合しちゃってますが、ニュートはともかく、シルは球体との邂逅について、その加速時間の中で何があったのか覚えていないようです。ニュートもおそらく神経節周りの最適化を受けたようですが、シルのようにフィジカルに反映されず、インプラントとの接続帯域の利点から情報空間でのアドバンテージを得られたのだと思われます。