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第三十一話 最初の夜

 村を出てから、まだ半日も経っていなかった。


 それなのに、俺には随分と長い時間が過ぎたように感じられた。


 馬車の車輪が、一定の間隔で地面を叩いている。


 ガタン。


 ガタン。


 ガタン。


 窓の外には、見慣れた森が続いていた。


 ただし、今まで俺が知っていた森とは少し違う。


 村の周囲にあった森は、生活の一部だった。


 薪を拾いに行き、薬草を探し、狩りをし、時には大樹のところまで歩いていく。


 俺にとって森は「遠くにある場所」ではなかった。


 そこに何がいるのか。


 どんな風が吹いているのか。


 どの木が古いのか。


 どこに足跡が残っているのか。


 そういうものを、少しずつ覚えてきた。


 けれど。


 今、俺たちが進んでいる道は違う。


 森の中に一本だけ、まっすぐ伸びた道がある。


 王都へ続く街道。


 村にいた頃には、一度も歩いたことのない道だった。


「……王都って、まだ遠い?」


 向かいに座っていたアイラが尋ねた。


「まだまだだよ」


 答えたのはリスだった。


「馬車でも二週間くらいかかるから」


「二週間……」


 アイラが目を丸くする。


「そんなに?」


「うん」


「歩いたら?」


「もっとかかる」


「走ったら?」


「……アイラ」


 リスが呆れたように笑った。


「王都まで走るつもり?」


「いや……ちょっと気になっただけ」


「それなら大丈夫。普通の人間は二週間走り続けたりしないから」


「普通じゃない人なら?」


「そんな人がいたら、私は見てみたいかな」


 リスが笑う。


 俺はその会話を聞きながら、窓の外を眺めていた。


 二週間。


 つまり、十四日。


 その間、俺はこの二人とずっと一緒にいることになる。


 そう考えると、少し不思議だった。


 村では毎日、同じ人間と顔を合わせていた。


 ウラ。


 アイラ。


 村の大人たち。


 そして、両親がいた頃の記憶。


 けれど今は違う。


 隣には姉がいる。


 俺がこれまで一度も会ったことのなかった姉。


 そして、その姉と出会ったばかりなのに、俺たちは同じ目的地へ向かっている。


 不思議な旅だった。


「ラーズ」


「ん?」


「さっきからずっと外を見てるけど、何か気になる?」


 リスがこちらを見る。


「……風」


「風?」


「うん」


 俺は窓から手を出した。


 冷たい風が指先を撫でる。


「村の周りと違う」


「分かるの?」


「少しだけ」


 風そのものが違うわけじゃない。


 空気の流れ方が違う。


 道が広い。


 馬車が何台も通っている。


 人間の匂いが多い。


 そのせいで、風の中に混ざるものが増えていた。


 土。


 草。


 馬。


 木材。


 人。


 そして、遠くから運ばれてくる煙。


「王都に近づくと、もっと変わるよ」


 リスが言った。


「もっと?」


「人が増えるから」


「どのくらい?」


「……村が百個くらい集まったと思えばいいかな」


「百個……」


 アイラが呟いた。


「そんなに人がいるの?」


「王都だからね」


「じゃあ、迷子になりそう」


「なると思う」


「リスさんは大丈夫?」


「私は大丈夫」


「ラーズは?」


「たぶん」


「たぶんって……」


 アイラが笑った。


 俺も少しだけ笑う。


 こういう何気ない会話は、嫌いじゃなかった。


 むしろ、好きだった。


 前の人生でもそうだった。


 授業そのものより、授業が終わった後に生徒たちがくだらない話をしている時間の方が、記憶に残っていることが多かった。


 誰かが宿題を忘れた。


 誰かが試験の点数を自慢した。


 誰かが将来の夢を話した。


 そんな、小さな会話。


 当時の俺は、それを「日常」だと思っていた。


 だからこそ、失ってから気づいた。


 日常というものは、失った瞬間に初めて価値が分かる。


 俺は窓の外を見た。


 ――もう一度、生きている。


 今度は、ちゃんと見ていたい。


 そう思った。


     ◇


 夕方。


 太陽が山の向こうへ沈み始めた頃。


「今日はここで休む」


 馬車の先頭にいた兵士が声を上げた。


 街道の少し外れ。


 木々に囲まれた開けた場所だった。


 いくつかの馬車が停まり、護衛の騎士たちが周囲を確認し始める。


 旅の一行は、野営の準備に入った。


 俺は馬車から降りる。


 足が地面についた瞬間。


 少しだけ身体が軽くなった気がした。


「……疲れた?」


 アイラが隣に降りてくる。


「少し」


「私も」


 アイラは大きく伸びをした。


「ずっと座ってるって、意外と疲れるんだね」


「分かる」


 リスも馬車から降りてきた。


「だから、少し歩いてきた方がいいよ」


「歩く?」


「うん。ただし、遠くには行かないで」


「分かった」


 三人で野営地の周辺を少し歩く。


 夕暮れの森は、昼間とは違う。


 鳥の声が減っている。


 代わりに、虫の音が増えていた。


 風も冷たくなっている。


「……静か」


 アイラが呟いた。


「村より?」


「うん」


 俺は耳を澄ませる。


 薪の爆ぜる音。


 馬の鼻息。


 騎士たちの話し声。


 遠くで鳴く鳥。


 木々が風で擦れる音。


 静かというより――知らない音が多い。


 それが、少しだけ不安だった。


「ラーズ」


「何?」


「王都に着いたら、どうするの?」


 アイラが尋ねる。


「……分からない」


「え?」


「まだ決めてない」


 俺は正直に答えた。


「王都に行けば何か分かると思ってる」


「何が?」


「……色々」


 俺は一度言葉を止めた。


 自分の魔法。


 大樹。


 村で起きたこと。


 黒い結晶。


 そして――。


 両親が何を知っていたのか。


 まだ何も分かっていない。


 でも、王都なら。


 村より多くの本がある。


 村より多くの人がいる。


 そして、俺が知らない世界そのものがある。


「俺は、もっと知りたい」


 そう言った。


 アイラは黙って俺を見る。


「……ラーズらしいね」


「そう?」


「うん」


「どういう意味?」


「昔からそうだったから」


 アイラは笑った。


「分からないことがあると、ずっと考えてた」


「……そうだったっけ」


「そうだよ」


「俺、そんなに変だった?」


「ちょっとだけ」


「ちょっとだけ?」


「かなり」


「ひどいな」


 三人で笑った。


 その時だった。


 森の奥から。


 ――パキッ。


 枝が折れる音がした。


 俺は笑うのをやめた。


 アイラも立ち止まる。


 リスがすぐに腰の剣へ手を伸ばした。


「……何かいる」


 小さな声。


 俺は森を見る。


 暗い。


 まだ完全に夜ではない。


 それでも木々の間は、すでに黒く染まり始めていた。


 俺は目を細めた。


 風。


 右から左。


 草が揺れる。


 匂い。


 獣。


 でも――。


「一匹じゃない」


「え?」


「……三匹」


 アイラが息を呑んだ。


 リスが剣を抜く。


「戻ろう」


「うん」


 三人が野営地へ戻ろうとした、その瞬間。


 森の中から黒い影が飛び出した。


「――っ!」


 狼。


 いや。


 普通の狼ではない。


 身体が一回り大きい。


 毛並みは灰色。


 そして目が赤い。


「灰狼……?」


 リスが構える。


 その後ろから、さらに二匹が出てきた。


 全部で三匹。


 だが。


 俺は違和感を覚えた。


「……待って」


「どうした?」


「普通の灰狼じゃない」


 以前、村で遭遇した灰牙狼とは違う。


 あの時は黒い結晶があった。


 今回は――。


「足」


 俺が指差す。


 狼の前足。


 右前足だけ、妙に不自然だった。


 傷。


 古い傷ではない。


 最近できたものだ。


「怪我してる」


「それがどうしたの?」


 アイラが聞く。


「……逃げてきたのかもしれない」


「何から?」


 俺は答えなかった。


 風向きを確認する。


 狼たちはこちらを襲おうとしている。


 でも、妙だった。


 唸っている。


 牙を見せている。


 なのに――。


 後ろを気にしている。


「こいつら……」


 俺は森の奥を見る。


「俺たちを狙ってるんじゃない」


「え?」


「何かから逃げてる」


 リスが一瞬、森の奥へ視線を向ける。


 そして。


 ――遠くから。


 低い音が響いた。


 グルルルル……。


 狼たちのものではない。


 もっと低い。


 もっと重い。


 地面そのものが震えているような音だった。


 狼たちが一斉に振り返る。


 その瞬間。


 一匹が逃げた。


「……!」


 残りの二匹も続く。


「待って!」


 リスが追おうとする。


「リス!」


 俺は叫んだ。


 彼女が止まる。


「追わないで」


「でも――」


「何かいる」


 森の奥。


 木々の間。


 何かが動いた。


 巨大な影。


 一瞬だけ見えた。


 そして消えた。


 誰も動かなかった。


 アイラが小さく呟く。


「……今の、何?」


「分からない」


 俺も分からなかった。


 ただ。


 胸の奥が、妙にざわついていた。


 あの感覚。


 以前にも感じたことがある。


 黒い結晶を見た時。


 そして――。


 大樹の前で、銀色の魔力を使った時。


 けれど、今回は違う。


 魔力ではない。


 何か別のもの。


 俺がまだ知らない何か。


「ラーズ」


 リスが俺を見る。


「戻ろう」


「うん」


 俺たちは急いで野営地へ戻った。


     ◇


 夜。


 焚き火の前。


 俺は毛布に包まりながら、炎を見つめていた。


 騎士たちは交代で見張りをしている。


 さっきの出来事についても、すでに報告した。


 森の中に何かがいた。


 ただ、それ以上は分からない。


「眠れない?」


 隣から声がした。


 リスだった。


「少し」


「怖い?」


「……分からない」


「正直だね」


「姉さんは?」


 初めて自然にその言葉が口から出た。


 リスが目を丸くする。


「……今、なんて?」


「え?」


「もう一回」


「……姉さん」


 リスが黙った。


 そして。


 嬉しそうに笑った。


「うん」


「……何?」


「いや」


 彼女は炎を見る。


「なんでもない」


 少しの沈黙。


「ねえ、ラーズ」


「うん」


「私ね」


「うん」


「ずっと、弟がどんな子なのか気になってた」


「……」


「私が村を出た時、あなたはまだ赤ちゃんだったから」


 リスはゆっくり話し始めた。


「だから、あなたの顔もほとんど覚えてなかった」


「俺も姉さんのこと知らなかった」


「うん」


「……ごめん」


「なんで謝るの?」


「分からない」


 リスが笑った。


「変なの」


「そうかな」


「うん」


 しばらく沈黙した後。


 リスが言った。


「でも、これから知っていけばいいよ」


「……何を?」


「お互いのこと」


 その言葉が、胸に残った。


 家族。


 俺には、まだその言葉を完全には理解できていない。


 両親との時間は短かった。


 そしてリスとは、今日までほとんど一緒にいなかった。


 だから。


 これからだ。


 これから少しずつ。


 姉のことを知ればいい。


 姉にも、俺のことを知ってもらえばいい。


「姉さん」


「ん?」


「王都に着いたら」


「うん」


「一緒に色々見たい」


 リスは少し驚いた顔をして。


 それから笑った。


「もちろん」


 焚き火が揺れる。


 その向こう側では、アイラが毛布に包まって眠っている。


 俺も空を見上げた。


 木々の隙間から、星が見える。


 村で見ていた星と同じだった。


 場所が変わっても。


 空は同じ。


 それが少しだけ嬉しかった。


 俺は胸の中で呟く。


 ――ウラ。


 ――元気でいるかな。


 そして。


 ――コロ。


 銀色の葉は、今も胸元にしまってある。


 指で触れる。


 小さな葉。


 不思議なくらい温かい。


 俺は目を閉じた。


 その瞬間。


 ――遠くで。


 また、あの音がした。


 低い咆哮。


 けれど今度は、野営地から見えるほど遠くではない。


 近い。


 確実に。


 森の中に何かがいる。


 俺は目を開けた。


 焚き火の向こう。


 暗闇。


 何も見えない。


 ただ。


 一瞬だけ。


 木々の間で。


 何かが光った。


 赤でもない。


 黒でもない。


 銀色でもない。


 ――白。


 俺は立ち上がった。


「……何だ?」


 けれど次の瞬間には、もう何もなかった。


 風が吹く。


 木の葉が揺れる。


 そして、夜は再び静かになった。


 俺はしばらく森を見つめていた。


 やがて。


「……気のせいか」


 そう呟いて、座り直した。


 だが。


 その夜、俺はなかなか眠れなかった。


 王都への旅は、まだ始まったばかりだった。


 そして俺はまだ知らなかった。


 この旅で出会うものが。


 これまで俺が知っていた「世界」というものを。


 少しずつ変えていくことを。


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