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第7話 奏の契約(解約不能)と、野呂山の怪

 翌日の土曜日。夕闇が迫る頃、俺とミケたろうは指定された場所へと足を運んでいた。昼間の陽気が引いた呉の街は、どこか現実感が薄い。


 坂道の影がクリーチャーのように長く伸び、街灯が一つ、また一つと寒色系の光を灯し始めていく。奏先輩の「下僕」となった俺たちに、拒否という選択肢は存在しない。


「下手に逃げたら、わしの存在ごと消されてしまうのニャ……」


 ミケたろうの尻尾が、計算外の事態に直面したセンサーのように不安げに揺れている。


「そうだよな。お前が消えたら、俺のバイタルも危ないみたいだし……」


 軽口のつもりで言ったが、笑えない。リンクされた生命維持装置としての責任が、肩に重くのしかかる。


 俺たちは、LINEで指示された場所――奏先輩の実家である『三条神社』へと到着した。石段の手前に立った瞬間、肌を刺す空気が変わる。ひんやりとした、澄みすぎた気配。


 平安時代から続くこの神社は、旧海軍ゆかりの戦勝祈願や武運長久の神として知られ、呉の歴史と共に歩んできた重厚な空気が漂っている。


(……ここ、ただのパワースポットじゃない。高密度の霊的エネルギーが固定されているな)


 社殿の裏手に回ると、そこには私服姿の奏先輩が、腕組みをして仁王立ちしていた。風が吹いても、彼女の周囲の空気だけが粘り気を持っているかのように静止して見える。


「二人とも、遅いわよ。何をぐずぐずしてたのかしら?」


「すいません。ミケたろうの回復に、どの『ちゅーる』の成分が一番妖力濃度を高めるのか、観察と採取に手間取って……」


「昨日は目一杯わしの妖力を吸ってくれたニャ!  回復するのに大変だったニャ!」


 先輩は、獲物を見るような潤んだ熱っぽい眼差しでミケたろうを見つめた。


「ホホホ……いい感じで回復してるじゃない。後でたっぷり、吸わせていただきますわよ」


「ニャッ!?  そう連日は無理だニャ!」


「昨日取り交わした正式契約を思い出しなさい、魅化王」


 先輩が懐から取り出したのは、禍々しい霊気が漂う和紙の誓紙。その墨跡がまるで血管のようにじわりと滲み、見ているだけで視界がわずかに歪む。俺は思わず一歩、距離を取った。


「第一条。魅化王ミケたろうは、週三回までの『猫吸い』を許可する」


「いやいや、多すぎニャ……!」


「第二条。緊急時――すなわち、わたくしの気分が著しく高揚、または低下した場合は、この限りではない」


 先輩の声は滑らかだが、内容は完全に暴力だ。


「緊急の定義がガバガバすぎるニャ!!  気分次第で吸い放題する気なのかニャ!」


「第三条。吸引効率向上のため、魅化王は常に毛並みを最良の状態に保つこと」


「美容保全条項まで含まれてるニャ!?」


 ミケたろうが本気で引いている。だが先輩は止まらない。


「第四条。天応くんは、魅化王の観測データを毎日提出すること」


「俺も巻き込まれてる!?  ……いや、まあ、現象のデータ化と意見交換ができるのは合理的か」


 自分でも引くくらい、納得してしまっている。


「……妖怪の生態をデータ化しようとするお前が、一番危ないヤツだと思うニャ」


 ミケたろうが呆れ顔で呟く中、先輩はさらっと『トドメ』の一条を口にした。


「ちなみに第十二条。『本契約は、魅化王の存在が消滅するまで自動更新されます』」


 一瞬、風が止んだ気がした。


「第十二条……それ実質『永続契約』ニャあああああ!!?」


 ミケたろうの叫びと同時に、誓紙の文字が一瞬だけ淡く光った。『逃げ道はない』と、念を押すように。


「誓紙に誓った契約を破棄すればどうなるか、分かっていますわね?」


 先輩の声音が、ほんのわずか低くなる。


「……なぁミケたろう、どうなるんだ?」


「わしは消滅。リンクしているお前は、そのまま道連れで昇天だニャ……」


「オーマイガー……。僕の観察人生がここで終わるなんて」


 冗談めかして言ったが、喉の奥が砂漠のように乾いていた。


***


 絶望する俺たちに、先輩は扇子を打ち鳴らし、高らかに宣言した。乾いた音が、静寂を切り裂くように響く。


「今日はこれから、わたくしの仕事を手伝ってもらいますわ。ぶっちゃけ――怪異現象の『お祓い』ですわ」


 先輩の声が、少しだけ真剣なトーンに落ちた。周囲の空気が、ぴんと張り詰める。


「……このところ、わたくしが調伏を担当している呉市の怪異の様子が、なんだかおかしいんですの。手強いのです。今までおじい様やお父様が相手をしていた時よりも、ずっと……」


「怪異とは人智を超えた異常なモノを言うのニャ。時に現象であり、時に存在であり、実体はあって無きが如しニャ」


 ミケたろうが珍しく真面目な顔で言う。


「ほう……実に興味深い。その『変質した怪異』を科学的に分析するのが俺の生き甲斐だぜ」


「天応くんのその常軌を逸した観察魂にも期待してるわ。強大化していく怪異の謎を、解き明かすのに協力して下さいませ」


 ミケたろうは「わしに任せておくニャ」と、ここ百年ほどの「ぽっと出」には負けないと胸を張った。


「奏……わしが実働した場合は、追加で報酬を払うニャ」


「元よりバイト代は出すつもりですわよ。二人合わせて、一日一万円ですわ」


「ええっ!  そんなに頂けるんですか?」


「翔!  それって……『刺身』が食べられるのかニャ!?」


「ああ!  スーパーで一番でかい刺身盛り合わせを買ってやるぞ!」


 ミケたろうの尻尾がぶんぶん振られて、膝に当たるたびに地味に痛い。


(ホホホ……怪異一体の退治報酬は、最低でも市から百万円は下りるんですけれど……知らぬが仏ですわ)


 奏先輩が心の中で密かに『悪徳ピンハネ』を企んでいることなど露知らず、俺たちは刺身の誘惑に釣られていた。


***


 日が暮れ、辺りが暗くなる頃。三条家のお抱え運転手が操る黒塗りの外車が、滑るように走り出した。ドアが閉まった瞬間、外の世界と切り離される。車内は静かで、やけに密着感がある。


 俺は家猫化したミケたろうを膝に乗せ、奏先輩の横に座る。エンジンの低い振動が、体の奥に伝わってくる。窓の外を流れる呉の夜景が、光の帯となって滲む。ふと横に座る先輩の横顔を見ると、その凛とした美しさに、俺の鼓動は勝手に速くなった。


(……いかん、心拍数110……明らかに安静時を逸脱している。これは吊り橋効果か、それともただのオタクの純情か)


 車は東へ――目指すは、標高800メートルを超える『野呂山』。闇の中に浮かぶその巨大な山影は、どこか異様に黒く、重たい。標高が上がるにつれて耳がキーンとなる。


 そこで俺たちは、想像を絶する『恐怖の怪異』、そして呉の背後に蠢く『見えない敵』の影を目の当たりにすることになる。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!

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