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エッセイ

盾は背中にあればいい

作者: ちりあくた

 よく、軌道に乗った芸能人が「丸くなる」「守りに入る」と言われることがある。雰囲気としては理解できるが、具体的に言えばどういうことなのだろう。


 例えば「丸くなった」お笑い芸人だと、かつて舞台上で述べていた毒舌が影を潜め、テレビ番組のMC席で、穏やかで無害なコメントを選ぶ。つまり、彼らが「盾」を手に入れた瞬間である、と言えるかもしれない。


 盾とは、文字通り防御のための道具である。剣や矛のように他者を貫くものではなく、結果として、他者から害される理由も生まれない。つまり、その目的は明確である。「誰も傷つけないこと」だ。そうすることで、視聴者や共演者に対し、何の不快感も与えずに済む。


 しかし、「丸くなる」現象はお笑い界では揶揄われる。なぜだろうか? 少し前に「誰も傷つけないお笑い」が流行ったように、盾を持ったとしても、お笑いの価値は損なわれないのでは?


 ここで浮かんだのは、「誰も傷つけない」にも二種類あるのでは、という仮説である。


 一つは、笑いをとろうとする攻めた姿勢の中で、自然と誰も傷つかないスタイルが生まれたもの。例えば、「誰も傷つけない笑い」でブレイクしたコンビ「ぺこぱ」は、他者への危害を恐れていたわけではなかったらしい。彼らはあくまで、観客が予想する流れを裏切りたいだけであった。本来「そんなわけがない」と思えるところを、「そういう人もいる」と言ってギャップを創り出す。つまり、「誰も傷つけない」は、お笑いを追究した上で生じた「副産物」であった。


 一方で、最初から「誰も傷つけない」ことを目的に、盾を手にするパターンもある。こちらは計算高く、自己防衛が動機である。テレビに出るたびに、過激な一言や鋭いツッコミを避け、世間の顔色を窺いながら無味無臭を装う。笑いの鋭さよりも、自身のキャリアの安泰を優先する。これが「丸くなる」の正体だとすれば、揶揄されるのも無理はない。


 どちらも結果として「誰も傷つけない笑い」になるが、中身は全く異なる。前者は創作の偶然、後者は防御の必然である。つまり、誰も害さないことを目的にしてしまう、それが「丸くなる」「守りに入る」ことらしい。


 話は変わるが、ネット上の創作物にも「丸くなってる」作品があるな、と思った。


 例えば、SNSに掲載された二次創作で、たまに数行にわたって注意書きがなされているのを見かける。


『・(カップリング名)

・(おおよその展開)

・誤字脱字注意

・解釈違い注意

・なんでも許せる人向け

etc...』


 別に、「守りに入った」芸人と一緒にするつもりはない。彼らの動機は自分を守ることが主ではなく、閲覧する人々に対し、不快な思いをさせたくないという優しさなのだろう。


 しかし、たまに思ってしまう。

 ……そんなに言う必要ありますか、と。


 その違和感は、注意書きそのものへの拒否というより、「盾の前景化」に対する居心地の悪さなのだと思う。


 本来、創作はまず作品があり、受け手はそれを受け取る。相性が良ければ楽しみ、合わなければ静かに離れる。それだけで成立していたはずだ。しかし、注意書きが過剰になると、作品より先に「安全な内容です」「誤字出没注意」という交通標識が立てられる。読む側は、笑う前に身構え、感じる前に判断を迫られる。


 芸人の話に戻れば、丸くなったと言われる人が批判されるのは、守っていること自体ではなく、「守っている姿が見えてしまう」からだろう。かつては剣を振るっていた人が、今は盾を磨く時間の方が長い。笑いをとるべき芸人が、それを主目的としなくなる。その姿勢が透けて見える瞬間、「守りに入った」と感じてしまう。


 同じことが先述のネット創作にも感じられる。

 注意書きがあるから問題なのではない。

 注意書きを「作品の一部」として強く意識してしまうことが、違和感の正体なのだと思う。


 もちろん、注意書きには現実的な理由もある。炎上、誤読、攻撃的な反応。そうしたものから創作者自身や、作品に関わる誰かを守るための盾は、今の環境ではほとんど必需品だ。剣だけを振り回して生き残れる場所なんて、もうどこにもない。


 だからこれは、「盾を持つな」という話ではない。大切なのは、盾を出しすぎないことだと思う。語弊が生じそうだが……創作から加害性を無くすことなど、不可能に近い。恐れすぎる必要なんてどこにもないのだ。


 ぺこぱの例が象徴的なのは、「誰も傷つけない」を掲げたわけではなく、「どう裏切るか」「どうズラすか」を突き詰めた結果、盾のような効果が生まれた点にある。盾は副次的であり、だからこそ愛された。


 ネット創作でも同じで、本来は「この表現が面白いと思った」「この解釈が好きだった」という衝動が、最初にあるはずだ。


 私にとっては、注意書きが長くなるほど、創作の出発点が「好き」ではなく「怒られない」に見えてしまう。その瞬間、作品はまだ読まれてもいないのに、「守り」の姿勢を取っている。物によっては、果たして私は歓迎されているのか、なんて思ってしまう。厳しい入国審査を終えた後のような感覚である。


 だから、「そんなに言う必要ありますか」という一言は、優しさへの否定ではない。それは、「盾を掲げなくても成立する関係でいたい」という、受け手側の願いに近い。


 作品が先に立ち、盾は背中に回っている。必要なときだけ、そっと使われる。


 そんな距離感が保たれていることで、「誰も傷つけない」は美徳とされるのだろう。要は、過剰防衛をしないで欲しいという、私のワガママである。

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