高校一年その四 夏休み十日目・立村上総の杉本梨南を振り回す日々(9)
「これからどこ行くの」
到着した頃には小雨がぱらついていた。傘なんて持ってきていない。
「どうしましょうか。傘を買っていかねばなりません。お店に寄らないといけません」
「いいよ、その辺でビニール傘買って行こう」
店を探すが杉本に止められた。
「結構です立村先輩。先輩はこのまま品山にお帰りください」
「いやそんなつもりないけど」
まだ三時になるかならないか。まだまだ遊べる時間ではないか。上総なりに汽車の中で予定を組んでおいたのだが、この雨でお流れになりそうだ。なんとかならないものか。
「まだ早いよ。もう少しまともなもの食べたいよ」
「立村先輩は食べることしか考えていないのですね。まったく」
「いやしいなんて言うなよ。杉本が食べなさ過ぎるんだよ」
憎まれ口を聞きながら駅の売店に向かう。まずは傘を捜さねばならない。まだ夕立というには早い時間帯だが、ひと雨降ったらあっさり虹が出ないだろうか。少しだけ雨宿りすればなんとかなりそうな気もする。
「あのさ、少しだけどこかで座っていこうよ。アーケード通ればそれほどぬれないですむしさ。ほら、角のところにあるドーナツ屋さんあるだろ、そこにしよう」
「でも、私は」
「俺が誘ったんだから今日は言う通りにしろよ」
有無を言わせず駅のロータリーに出る。雷が鳴り響きつつある。杉本をせかしながら横断歩道を走りぬけ、駅前商店街のアーケードを突き進む。杉本が書店を見つけてちらと目線を走らせたが強引にこちらを向かせた。誰が「佐川書店」なんて立ち寄らせるものか。杉本のことだ、よい本見つけたら買うかもしれないが、誰があいつの家業をもうけさせたりするものか。
バス停前のドーナツ屋は席が埋まっていた。しかし雑居ビルの二階に目を向けると喫茶店らしき気配の店が見える。珈琲専門店らしい。見た感じ中学生の立ち寄るような場所ではなさそうだった。
「あそこにしてみるか」
「よさそうですね」
杉本の了解を得られたので階段で昇る。すでに杉本の白いワンピースはほんの少し濡れたらしく、身体にぺたりと張り付いている。思わず見てはならないところに目が行ってしまい、すぐに逸らす。見なかったことにする。
ガラス戸を押してまず中に入る。夏休みの空気とは異なる静けさが漂っている。先客に学生らしき人は誰もいない。みな、本や新聞を片手にくつろいでいる。
「お二人さまですか」
ウェートレスらしき女性が出てきて席に案内してくれた。つっとんげんな態度だったが、
「ここでは大きな声での会話は控えていただいておりますがよろしいですか」
の言葉にすべてを悟った。
「承知いたしました、メニューお願いします」
完全にここは普段上総が触れている世界と異なる場所だということだけは、よくわかった。心置きなくおしゃべりする場所ではない。ただそれぞれひとりで物思うための場所だった。杉本以外の相手と立ち寄るべきところではない。
杉本は少し腕をさするようなしぐさをし、首をかしげつつメニューを開いた。黒い革の表紙に、珈琲名だけがずらりと並んでいる。ケーキセットも一応、あるにはある。腹の足しになるかどうかは難しいところだった。トーストセットもあるが時間がだいぶ過ぎているようでこれもパスとなる」
「ケーキセットにしようか」
「はい」
待ち構えていたウェートレスに手で合図をし、上総はふたり同じチーズケーキセットを注文することにした。選択肢がそれしかない。洗濯できるのはひとえに珈琲のみ。選びようがないので、本日のお勧めとあるブレンド珈琲にした。
「話がしづらいな」
「それでいいではありませんか」
できるだけ声を潜める。BGMがクラシック音楽なのは杉本にとってうれしいことかもしれないが、できるだけ小さな声で話しても目立ってしまうのは悩みどころだった。なんだか今日は厄日だ。杉本と思う存分語り合うつもりでいたのに、どこかパーフェクトに進めない。話さねばならないことが、まだたくさんあるというのに。
「杉本、あのさ」
「声が大きすぎます。静かになさいませ」
「それなら隣に行くけど、いいかな」
「別にかまいませんが」
四人席、革張りの赤い席。腕を置くところもある。近づきすぎることはない。上総はグラスを持って席を移った。冷ややかに杉本が見据えるのもかまわずにまずはお絞りを手に取った。温かい。
「これならささやき声でも聞こえるだろ」
「確かにその通りですが、今日の立村先輩の言動は常軌を逸しております」
「いったいどこがだよ」
「今のように一度決めた席を移るなんてこと自体、普通はなさいません」
「しょうがないだろ。できるだけ小声で話さねば鳴らない場所なんだから」
そうこうしているうちにケーキと珈琲が並べられた。少し大きめのレアチーズケーキだった。まずはケーキだけ一気に流し込んだ。珈琲ももちろん口にはした。味は正直わからないが、一口熱いものを身体に入れるとなぜだか気持ちが凪いだ。ふうっと肩から力が抜けた。夏だからといって冷たいものばかり飲むのは身体によくないわけがわかったような気がした。ただケーキの腹持ちはよくない。あっという間に吸収されてしまいそうだ。
杉本は隣で、小さくケーキを切りながら口に運んでいた。白い飾り気ないコーヒーカップを手において、ゆっくり啜っていた。
「アイス珈琲のほうがよかったのか」
「いいえ、今は熱いほうがおいしく感じます」
「俺もだ。ほんと」
横目で見ながら頷きあった。カップを同時に置いた。
「杉本、これ見る?」
かばんから雑誌を取り出した。
「これは」
黙って表紙を指差した。本条先輩特集号のマイコン雑誌だ。頷いた。これだけでたぶん杉本ならわかるはずだ。
「お借りいたしますがよろしいですか」
「いいよ」
杉本に手渡し、上総は改めて珈琲をソーサーごと持ち上げてひとくち、またひとくちと運んだ。外は雨が本降りだろうか。あっさり夕立で終わっただろうか。流してくれればいい。杉本に「常軌を逸した行動」などと叱られた自分の言動が、どこからくるかが珈琲ひとくちで少しずつにじみ出てくるのがわかるから。
──やはり、杉本は先のことを考えているんだ。そうに違いない。
霧島から聞いた噂はまゆつばもの。信じるわけにはいかない。杉本ならばあっさりと否定してくれるものと信じていた。一年後半から杉本の青大附中における望みは、青潟東高校に優秀な成績で合格し周りの連中を見返すことだと思っていた。どんなに暴れても、どんなに泣き叫んでも、杉本の真なる願いはかなわない。大切に思っていた友達には自分の行為を「いじめ」として扱われ、小学校時代から想いの裏返ししか表せなかった相手にはとことん憎まれ、やっと見つけた王子様も杉本のことは全く目に入らず別のお姫様とじゃれあっている。自分の能力にしがみつきたくとも、周囲のやさしい大人たちはどうでもいい価値ばかり褒め称える。せいぜい興味を持つのが、
──俺みたいな価値のない奴ときたら、人生恨みたくなるよな。
それでもこうやって、一日時間をもらえるだけ上総は恵まれている、と思う。どうみてもローエングリンになれない自分を、杉本はいったいどう見ているのか気にならないこともない。王子様の最新情報を伝えるための僕とでも思っているのだろうか。それでもいい。だから今は一緒にいられる。この時間をともにできる。
本条先輩に問い詰められ、自分の杉本梨南に対する想いを認めた時から自分が新しく生まれ変わったような気がする。「恋愛感情」が何なのか、正直理解できない。ただ一緒にいたい、こうやって語っていたい。同じ場所で顔を見合わせ身を寄せ合いたい。その気持ちが「恋」なのなら、もしかしたらそうなのかもしれない。たとえ想いがよその奴に向けられていたとしても、こうやって一緒にいられるのは自分なのだから。
──青潟東に行っても、しょせん市内だ。自転車で通えばいくらでも顔をあわせられる。それに杉本の家は青大附中から近くだし、時間さえうまく合わせれば朝の挨拶くらいはできるかもしれない。青大附高に進学しなくても、いくらでも接点はある。
本条先輩といまだに遊んでいられることから、杉本に対しても同じように時間が流れると思っていた。霧島が、あんなことを言うまでは。
噂だ、しょせん単なるデマに過ぎない。殿池先生がたまたま杉本の家を訪問していたのはさまざまな事件の後処理に過ぎない。それさえわかれば上総は余計なこと考えずに杉本をじゃらして遊んでいられる。いらいらして八つ当たりなんてしないですむ。
肩に流れる杉本の長い髪を眺める。雨にぬれたのか少しぺたりと重たく張り付いているように見える。つややかに輝く髪が、すぐ手に届く場所にある。よく羽飛が美里の髪の毛を引っ張って遊んで叩かれているのを見たことあるが、今上総が同じことをしたらひっぱたかれるんじゃないだろうか。ついでにうるさくした罪で喫茶店をおん出されるかもしれない。
──まだ八月だし、決断なんてしてないよな。
多少、考えるところはあるかもしれない。学校側が「ギフト」として学校推薦を行う可能性もゼロではないだろう。しかしそれ以上に杉本のプライドが青潟東をあきらめるなんてことを許すだろうか。上総にはまずありえないこととしか思えない。杉本にとって青潟東進学とは、ただの公立高校受験成功だけではない。今まで杉本をいたぶりののしってきた青大附中の連中を見返し、激しい憎しみを昇華させるためのシンボルなのだ。そのシンボルを奪い取り、目標を失わせるなんてことは上総からしたらそれこそ一種の「いじめ」に見える。それも、学校総仕掛けの一対多数の残酷なやり口だ。先日の「修学旅行濡れ衣事件」も含めて、これから先杉本の傷が拡がっていくのを、なぜみな意味ありげな視線でもって見守るだけなのだろう。
──どんなに杉本が手を伸ばしてもほしいものは誰も差し出してくれない。代用品ばかり手渡されて、喜ばない自分が悪いのだと攻め立てられて、これからも過ごしていくのか杉本は。
かき集めた花束を上総なりのアレンジで手渡した、半年前の卒業式。
ありがとうとは言ってくれたけど、自分が杉本にとって渡してほしい相手ではないことくらい承知している。受け取ってくれたことには感謝しているけれども、それは上総の目的を達しただけに過ぎない。杉本はまだ、ずっとおちょぼ口で代用品ばかり差し出されているだけだ。どうすれば、杉本の本当にほしいものを渡せるのだろう。何一つ、本当になにも上総は持っていない。誰が杉本に、完全なる想いを手渡してやれるのだろう。
「杉本、ほら、この本にも書いてるだろ。本条先輩電話インタビュー受けてるんだよ」
できるだけ耳元でささやいた。髪の毛に顔がつきそうなほど近づいた。
「本条先輩、高校で同好会作ったことまで話してるよ。やりたいことがあれば自分でどんどん進めていけるんだって自慢してるよな。さすがミスターパーフェクトだよな」
「自分でやりたいことが、あればですか」
杉本は本を膝に広げ、ゆっくりつぶやいた。どこか遠くを見つめているかのようだった。
「はっきりと青潟東とは書いてないけど、高校の話もしてるよ。本条先輩、青潟東が自由な校風で、やりたいことがあれば自分でどんどん切り開いていける学校なんだってさ。青大附中のこと言ってるかと思ったよ」
何も言わず、次に目を伏せた。またページをめくった。プログラムの一覧がずらりと出てきた。ここから先は上総にとって未知の世界だった。
「これは、なんですか」
「だから本条先輩の作ったプログラム。ゲームだよ。杉本はゲームセンターで遊んだことある?」
まずないだろう。当然頷いた。言葉はない。
「よくわからないけど、迫力満点のゲームらしいよ。グラフィックっていうのかな、絵もきれいだし、星が降ったり車が本当に走っているように感じたりと、画面の中だけでこんなにどきどきするとは思わなかったな。俺はあまりああいうの好きじゃないけどさ」
杉本はまたページをめくった。本条先輩の特集は終わり、BASIC入門講座のようなページが見開きで二ページ載っていた。
「杉本もこういうの興味あるんだったら、青潟東に入ってから本条先輩のマイコン同好会入ればいいよ。会員五名しかいないみたいだけどさ」
「このプログラムをコンピューターに、どうやって入れるのですか」
投稿されたプログラムページをめくり、じっくり読み込みながら、それでも小声で杉本は上総に尋ねた。
「キーボードで」
「そのためにはマイコンが必要なのですね。どこにあるんでしょう?」
「本条先輩が言うには、近所の電気屋とか、あと大型スーパーの書店の脇とかだってさ。ここからでもいけそうなとこらしいよ」
しばらく考え込み、残りの珈琲を飲み干し、杉本は静かに上総へ告げた。
「立村先輩、そのマイコンの使える場所がお分かりであれば、連れて行っていただけませんか。それと、この本を貸していただけませんでしょうか」
「なぜ?」
思わずきつく返してしまった。杉本は首を振った。
「決して立村先輩の宝ものを汚すつもりはありません。ただそこまで本条先輩が自慢なさるのであれば、私もそれなりに検証したいのです。立村先輩はそのプログラムをごらんになったことがおありですか」
「ちょっとだけ。でもこのプログラムなのかはわからないよ。とにかくたくさん作ってたから。たぶん混じってたと思うけど」
「それであればなおのこと、特集を組まれても不思議のないほど洗練されたプログラムなのかをぜひ拝見させていただきたいものです。つきましては、そのキーボードがあるところでかつ打ち込める場所を教えていただきたいのです。そのためならば、傘も用意いたします」
──杉本、本気かよ。これ、打ち込むってどうやって? 指、一本で全部打ち込めると思っているんだろうか? まさかだよな。
杉本のわがままにはもう逆らえないことくらい分かっている。上総は残りの珈琲を飲み干した後立ち上がり、杉本が手洗いに立っている間に会計を済ませた。杉本には絶対に払わせない、それだけは意地でも貫いた。




