その四 高校一年夏休み十日目・立村上総の杉本梨南を振り回しあう日々(8)
三桜駅から終点青潟駅までそのまま乗る人は少ない。そこが鈍行のありがたいところで、適度にどこかかしら入れ替わっていく。特急だと三十分程度だが、鈍行でどこまでも行くとなるとだいたい三十分程度かかる。
「それでもかなり混み合ってきましたね」
「そうだな、やはり夏休みなんだろうな」
時折通路で空席を狙う視線も感じる。幸い知り合いはいなさそうだ。
「杉本は夏休み、八月以降の予定ってあるのかな。学校の講習とか、例の桜田さんとの集まりとかそういうこと以外に」
上総が問いかけると、杉本はこっくり頷いて答えた。帽子はを膝にきちんと乗せた。
「一泊二日程度ですが旅行の予定はあります」
「どこらへん?」
杉本は知らない街の名前を挙げた。
「知らないな。親戚の家?」
「いえ、いろいろと用事らしきものもございます。立村先輩はいかがなさるのですか」
話を振られて上総もしかたなく答えた。
「お盆過ぎになるけど、二泊三日くらい親の手伝いで出かける予定はあるよ。帰ってくるのが下手したら二学期の始業式あたりになるかもしれない」
「それは何か、お母様のお手伝いですか」
上総は短く答えた。
「そう。詳しいことわからないけど、日本伝統芸能関係であることは確か」
嘘ではない。期末試験当日に高熱でぶっ倒れ、その際母に持ち出された件がその後具体化した。ある日本舞踊のお師匠さんが記念の会を行うとかで、その舞台監督……よくわからないがイメージとしてはそんな感じか……として母が出陣することになったらしい。父との打ち合わせも済んでいたようで、よければ人足として上総を連れていきたいとの希望らしい。いったい何に使うつもりなのか、上総には全く想像がつかない。
「面倒だけどしょうがないよな。できればそれまでに宿題や自由研究は片付けたいんだけどさ。なかなか進まない」
「私は昨日の段階ですべて終わらせました。自由研究だけは桜田さんと一緒に行う予定なのでまだ時間がかかるかと思われますが恐らく大丈夫でしょう。時に、立村先輩、自由研究の内容をお伺いしてもよろしいですか」
まっすぐな口調で、杉本は麦藁帽子を胸に当てるようにして尋ねてきた。長い髪の毛が午後の日差しに照らされて甘い色に光る。
「羽飛、清坂氏とふたりで、現代美術の有名な画家をテーマに論文を作ろうかってことになっているんだ。その人自体は日本人なんだけど、海外での活動がほとんどらしくて情報の九割方が英語の文章らしいんだ。俺はあまり、その現代美術興味ないんだけど、英語の訳くらいはできるかなってことで混ぜてもらうことにしたんだ」
あの憎っくき麻生先生のたくらみにより、個人での原書翻訳で片付けることができなくなり、いやおうなしに友だちとの集団活動にせざるを得なくなった。こういう時、中学時代の心つながる友だちのありがたさを感じる。
「そうなのですか。立村先輩は現代美術があまりお好きではないと思っておりましたので、意外な気がいたしましたが、そのようなご事情であれば納得です」
さっきは本条先輩の演劇に対するスタンスを手厳しく批評していた杉本も、上総のことについては珍しく流している。杉本はもともとヨーロッパの文化、優雅で華やかなものを愛する傾向がある。ひとつの例がオペラで、ワーグナーの「ローエングリン」に心酔していることは上総も以前から知っている。もっとも本人は気づいていないようだが、杉本は生まれつき音程を取ることを苦手としている。周囲からも救いようのない音痴だとささやかれていて、実際その通りと言わざるを得ないのが辛いところだ。何度も探りを入れてみたが、杉本本人の耳には自分の歌う声もすべて自然に感じられるらしい。
「杉本も、あまり、現代的過ぎるのは苦手だろ? 家がひっくりがえっていたり、キャンバスが真っ黒くぬったくられていたりとか、いわゆる前衛的なのって
」 おそらく、上総とほとんど感覚が変わらないのではと見ていた。
「はい、家はきちんと建っているものがよろしいですし、人の顔はきちんと美しく描かれているものが一番です。背景画は細かく丁寧にリアルなものが私は好きです」
──じゃあ俺と同じだよ。よかった。
杉本の言葉に一安心し、上総は次の質問に関するタイミングを計り始めた。
──例の家庭教師ごっこについて、もう少し煮詰めておかないとな。
行きの汽車で語り合った通り、杉本梨南には全くやましいことなく、むしろ人のためになることを楽しみながら行っているだけであるということは確認できた。実際現場を観ていないので百パーセントとは言えないかもしれないが、この辺はあとで考えることにする。少なくとも、他の男子たちがたむろっていてタバコだかゴムだか使うようなことはやらかしていないようだし、環境も杉本が丁寧に掃除しお茶まで用意するくらいなのだから、不衛生な場所ではないのだろう。
目的はいたって単純。
──桜田さんのの友だちを公立高校に合格させるため、勉強を手伝っている。
これだけだ。なんと分かりやすい結論か。
ただ、その友だちというのが過去にいろいろやらかした経歴があり、公立中学の先生……おそらく担任だろう……が気をもんでいる。それこそ不純異性交遊とかシンナー遊びの巣窟になるのではとはらはらしてる、というわけだ。運悪く杉本も桜田も、青大附中ではそれなりに札付き扱いされているのもって話は実際よりも上積みされている状態ときた。
──けど、埃、出しようないだろ?
駒方先生にはどちらにせよ、杉本と話し合いした結果を伝えるつもりではいる。隠すことなど何もない。きちんと杉本にもそのことは伝えておくつもりでいる。
──でもな、駒方先生もなんとかして俺を連れて行ってその現場を押さえたくてならないって顔してるしな。杉本、そんなことされたらものすごく怒るぞ。この場で縁切りされるかもしれないよ。
いったいその、杉本に提出したいという駒方先生のプランがどんなものなのか、上総には正直想像ができない。今、している秘密基地のような場所ではなく、別の教室とか用意してそこで同じことをさせるつもりなのだろうか。昨日本条先輩も話していたとおり、他の公立中学生が混じっている以上青大附中で対応できる内容とは思えない。
杉本が純粋に、桜田の友だちを助けようと心を砕いているだけならばそのまま放置しておいてもいいような気が、上総はする。あくまでも杉本に対しては。ただ相手の桜田愛子なり、公立の中学生たちまで信用できるかとなると、心もとないところもある。
──東堂はこのこと、知ってるのかな。
昨日すっかり失念していたことを思い出した。一応東堂の彼女が桜田愛子であることは承知していたけれど、駒方先生はあいつにも上総に話したような内容を伝えているのだろうか。あまり付き合いはないので確認するのも難しい。ただ南雲の親友でもあるので、間に入ってもらって下宿先での相談も可能ではあると思う。
「杉本、行きで話していたことなんだけど、ちょっとだけ続きいいかな」
「どうぞ。この場でけりをつけたいのであればよろしくお願いいたします」
つんと澄まして、杉本は険しく上総を見据えた。
「私には何も疚しいことありませんので」
「それはわかってる。どう考えても杉本悪くないもんな」
まずは肯定を。
「ただ、駒方先生たちはものすごく杉本たちのことを心配しているんだ。過保護すぎるってほどにさ。俺はどう考えても変だと思うけど、どうしても邪魔したくてならないようなんだ。一言で片付けると、つべこべ言わずにやめてほしいってことらしいよ」
「立村先輩も同じ考えですか」
「まさか」
即答した。冗談じゃない。
「俺もそんなこと言われたら頭に来るよ。はっきり言うけど、俺は杉本がしている個人教授のこと、すごくいいことだと思う。その人たちだって、喜んでくれてるんだろ? 桜田さんも教え方がうまいらしいし、杉本もだろうし」
「その通りです。立村先輩にも一度お見せしたいくらいです」
誇らしげに杉本は語る。
「私は理解することこそ簡単にできますが、桜田さんのように噛み砕いて丁寧に説明する技術については持ち合わせておりません。しかも我慢強く繰り返すのです。こんなこと誰でもわかっているだろうと思われることを、相手のプライドを傷つけることなく、エンドレステープのように繰り返すのです。しかも、笑顔で、です」
そうそうできることではない。わが身を思う。ここでは口を挟まない。
「彼女が得意とするのは理数系です。私はどちらも得意といえばそうですが、あえて国語と英語、社会を担当しています。桜田さんは少女漫画の絵を描くのもお得意なので、ある時は数学の文章題をもとにしてロマンチックな漫画を一作書き上げてしまったくらいです」
「少女漫画と、数学の文章題?」
想像を絶する。もしこれが本当だったら、青大附中はとんでもない才能の持ち主を見落としていることになる。
「桜田さんが言うには、理数系科目はほとんどが物語に構成できるものなのだそうです。そのことばかり考えていたので学校の成績はあまりよくないとかおっしゃってますが、実際はこういったら失礼ですが佐賀さんよりもはるかによいのです」
「そうなんだ、知らなかった」
「すべて感じることを物語に構成することが好きな人なので、授業というよりもむしろ彼女の物語を毎回聞かされているようなものです。時折、みんなで物語をいろいろ作りあったりしていくうちに、自然と問題も解けているといった感じでしょうか。結果、私も含めてみな、一学期の成績は格段伸びたはずです。証拠も必要とあれば用意してくれると思います。そのために通知表というものがあるのです」
「論より証拠だな」
──さて、ここからどう持って行くか、だな。
すでに上総の選択肢は、杉本と桜田のコンビネーションが生み出す未知の勉強会を守る方法に絞られている。駒方先生や狩野先生がどう思うかは別として、桜田愛子はまさに教師の鑑ではないだろうか。実際観ていないというところはあるにしても、学年トップの杉本がここまで褒め称えているという事実、また成績にもすでに反映されているという確固たる事実、さらにどんなかんたんな質問でも笑顔で教え続けるというところ、これがどんなにまれなことだか、落ちこぼれの上総にはいやというほどよく分かる。
それに、数学の文章題で少女漫画を描くことができるというのはどういう発想なのだろうか。A、B、X、Y、それぞれを擬人化するのだろうか。「ねむり姫」のごとく王子の魔法のキス代わりに方程式を解くような場面が出てきたりするのだろうか。
「俺も見てみたいな、桜田さんのその説明とか」
「そうでしょう、当然です」
「でも、駒方先生もその場面を見てたわけなんだろ?」
「はい。ただあまりぴんと来ないご様子でした。駒形先生はご高齢ですのできっと、受け入れがたいものがあったのかもしれません。私たちが単純に、遊びほうけているだけと判断したのかもしれません。たまたま桜田さんが漫画のストーリー作りと説明を取り混ぜて行っているところでしたので」
だいたい話が見えてきた。上総の答えも見つかりつつある。手駒は用意できた。
「わかった。杉本。今思いついたことあるんだけど、一通り聞いてもらえないかな」
あたりを見渡した。知り合いはやはりいない。青潟へ近づくにつれて人が増えてはくるけれども、上総たちの席にはさすがに寄り付いてこない。小声でささやきたい。手でもっと近づくよう招いた。窓辺の風と揺れる響きにかぶさるよう語り続けた。
「まず、今日話したことを俺はすぐ、明日にでも駒方先生に話さなくてはならないんだ。これは約束したことだからしかたないけど、杉本の話を聞いた限りでは全くそのまま話して問題ないと思うんだ。だってさ、青大附中はもちろん公立中学の方からも表彰されてもいいことだよ、杉本たちがしていることは」
「当たり前です」
きっぱり答えた杉本に、さらにささやいた。
「でも、頭の堅い先生たちには通じないと、そういうわけだろ? だったらさ、その場をもう一度駒方先生と狩野先生に見せて、文句あるかってとこ、見せ付けてやったらどうだろう?」
「それも考えましたが、駒方先生があの反応ですから」
力を込めて続けた。手を杉本の膝にある麦藁帽子に載せた。ざらざらした感触が心地よい。話しやすい。
「駒方先生だけだろ、来たのは。狩野先生は来てなかったんだろ」
「はい」
「駒方先生ははっきり言って美術の先生だから、理数系には弱いんじゃないかって気がするんだ。桜田さんは理数が強いんだろ。それなら数学科の狩野先生を呼んだほうがいいよ。狩野先生は話が分かる人だから、桜田さんのやり方を見ればすぐに納得するよ。少なくとも駒方先生よりはまともな反応をすると思う」
「そうでしょうか」
表情を曇らせる杉本。少し俯いた。狩野先生にはほんの少し恨みがあるはずだ。
「あと、これも明日俺なりに先生に話しておくつもりだけど、桜田さんの友だちが通っている公立中学の先生たちにも同じように見せ付けてやること、できないのかな」
杉本がぱっと顔を上げた。
「それは、わかりませんが」
「うちの学校の先生たちだけだと偏ってしまうから、できればその担任の先生も呼んで目の前に突きつけてやるってのはどうかな。別に何も悪いことをしているわけじゃないんだし、成績だってちゃんと上がったんだから文句つけられるいわれなんてない。目の前に突きつけてやれば、もう横槍入ってくるなんてこと、ないよ」
拳を握り締める。かばんに手を置く。上総は力を込めて訴えた。
「いいか、杉本は間違っていない。勝手に過去のこと引っ張り出して余計なおせっかいをする人たちに対して、正当な抗議をしているだけなんだ。俺は誰がなんと言おうとも、お前が正しいことを証明するから。もうこの前のような思いはさせない。約束するから」
杉本は首を横に振り、寂しげにうつむいた。
「いいえ、お約束していただかなくてかまいません」
「なぜ?」
もう一度首を振りなおし、窓辺に視線を向けた。
「お約束していただいたら、叶えられなかった時立村先輩を恨むことになります。もうそのような思いをすることは、避けたいのです」
上総も肩越しに振り返った。青潟近郊の平たい建物が立ち並んでいるのが見えた。もう数分で終点青潟駅に到着だろう。杉本の声が首筋に染みた。
「でもおおよそは立村先輩と考え方は一緒でございます。自分を信じるのみです。立村先輩、そのようにお手配、よろしくお願いします」
すぐに顔を杉本へ向けられなかった。喉もとで「うん」と答え、そのまま上総は近づいてくる青潟の景色に見入るだけだった。




