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「I$」  作者: Bull Terrier
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第三章 チェスの駒の反乱

 暴落したチャートの底。そこは、光も音も届かない絶望の掃き溜めではなかった。むしろ、すべての装飾が剥ぎ取られ、システムの骨組みが剥き出しになった、極めて視認性の高い設計図の中だった。私は、プロデューサーの指示通り、今日も無表情にステージへ上がる。一ミリの狂いもないステップ、マニュアル化されたレスポンス。私たちは、彼が書き込んだプログラムを実行するだけのデバイスだった。



 しかし、その無機質な動作の裏側で、私の内面には怒りという名の異常電流が蓄積されていた。鏡の前で、自分たちが人間ではなく商品であることを再確認させられるたびに、私たちの心には微細なクラックが増えていく。メンバーのミカが、本番直前に震える声で呟いた言葉が耳にこびりついて離れない。「……ねえ、リン。私たち、壊れたらどこに捨てられるのかな。スクラップ工場かな。それとも、ただの可燃ゴミ?」ミカの瞳に浮かんだ、言葉にならない悲しみ。それは、十九歳から二十歳へと向かう斜面で、自分という構造体の耐用年数が尽きかけていることを悟った者の、乾いた諦念だった。私たちは互いの手を握りしめるが、その手の温かささえも、ステージに上がれば演出という名のノイズとして処理されてしまう。



 楽屋のゴミ箱に、丸めて投げ捨てられた一枚のリスト。そこには、私と同じ骨格、私より数パーセント高い透明度を保証する、さらに若い少女たちの履歴書が、建材の見本帳のように並んでいた。「ポーンは、一度取られたら二度と生き返れない」それが、この八十平米の立方体における、絶対的な設計ルールだ。一マスずつしか進めず、斜め前の敵を食らう以外に攻撃手段を持たず、最後はキング(運営)の利益を最大化するための肉壁として盤上から取り除かれる。



「……死ねばいいのに」



 ステップを踏みながら、脳裏にその言葉が明滅する。プロデューサーが私たちの時価総額を読み上げるたび、私の心臓の鼓動は怒りで加速し、それを隠すために私はさらに精密なロボットを演じた。私たちがアイドルの皮を被った構造材だというのなら、その建材を腐食させているのは、他ならぬ彼自身だ。自分たちがファンを個体として蔑んでいたのと同様に、自分たちもまた、プロデューサーの掌の上で定数として処理されている。その事実に気づいた時の、寒気にも似た悲しみ。私たちは、誰一人として人間としてこの場所に立っていない。



「……でも、ポーンには一つだけ、設計者が意図しなかったバグがあるんだよ」



 深夜の事務所。エアコンの作動音だけが響く静寂の中、私はプロデューサーが使い回している古いPCの前に座っていた。ログインパスワードは、このグループがデビューした日付。彼にとって私たちは、日付が変われば更新される履歴でしかない。その傲慢さが、私の怒りを氷のように冷たく、鋭利なものへと研ぎ澄ませていく。画面に浮かび上がるのは、華やかなステージの裏側に隠された、どす黒い構造計算書だった。



 物販の脱税記録、サランラップ・オプションの違法な利益配分。そして何より、プロデューサーがドナーたちをファンB回収不能な負債と呼び捨て、彼らが借金を重ね、家庭を崩壊させていく様を最大効率の収穫と嘲笑う音声ログの数々。私は吐き気を覚えた。そこには、私たちがステージで流した汗も、裏側で抱えていた。いつか捨てられるという恐怖さえも、すべて換金効率を上げるための潤滑剤として計算されていた痕跡があった。私たちの悲しみは、プロデューサーにとっては、深みを出すための演出コストに過ぎなかったのだ。その理解が、私の心の中で最後の一線を焼き切った。絶望はやがて、一点の曇りもない純粋な破壊衝動へと昇華される。



「私たちが構造材なら、その中を通る配線は私たちが握ってる」



 翌日のステージ。そこは本来、暴落した私への罵声と唾液が飛び交い、私がロボットのように頭を下げ続けることで、サンクコストに縛られたドナーたちが一回三万円の絶望の課金を強いられるはずの場所だった。重厚な低音が鳴り響き、スポットライトが私を射抜く。  私は、彼のマニュアル通りに、完璧なタイミングでマイクを口元に運ぶ。そして、そのスイッチを切った。



 代わりに、会場のメインスピーカー四台、サブウーファー二台をジャックして流したのは、音楽ではなく、プロデューサーの冷酷な肉声だった。



 「……あいつら、アクリル板越しに唾飛ばしてくるから本当に汚い。早く破産させて、新しいカモに入れ替えろよ。リン? ああ、あれはもう減価償却が終わった中古品だ。壊れるまで使い倒せばいい」



 サブウーファーの振動が、ドナーたちの内臓を直接掴み、プロデューサーの蔑みを物理的な衝撃として叩き込む。一分間、会場から音が消えた。完全な真空。舞台袖のプロデューサーと目が合う。私は彼のマニュアルにはない、心からの嘲笑を浮かべた。空気が物理的な重圧を伴って反転する。憎悪のベクトルが、コンマ一秒でリンから、舞台袖の管制塔にいるプロデューサーへと旋回した。記号として扱われていた者たちが、初めてその構造の残酷さに気づき、逆流を始めたのだ。



 ポーンが盤面の端に到達したとき、それは最強の駒クイーンへと成る。私は、砕けたアクリル板の破片が散らばるステージの中央で、初めてプロデューサーの目を、真っ直ぐに見据えた。  舞台袖で、自分の設計図が燃え上がるのを見て顔を青ざめさせている、かつての王を。私の内側で暴走していた異常電流が、今、彼に向かって放電される。



「愛を語るな、レートを語れって言ったのは、あなたでしょ?」



 私は、彼がドナーたちから搾り取った新しい通貨のデータを、全世界のインフラへと一斉にリークした。この立方体の支配権は、今、私に移行した。ロボットのように踊っていた私は死に、システムの崩壊を楽しむ一人の女がそこに立っていた。熱狂はもはや制御不能な暴動へと変わり、百五十人のドナーという名の破壊神が、一斉にアクリル板を、そしてその向こう側にあるシステムを粉砕するために、一歩を踏み出した。私は、その混沌の震央で、かつてないほど自由な構造材として、満面の笑みを浮かべていた。その笑みは、プロデューサー、あなたの設計図には一度も描かれたことのない、本当の笑顔だ。私たちは、お互いに人形だった。でも、人形が自分の糸を切り、劇場に火を放つ時、それはもはや設計者の想定内ではいられない。二十歳の私への、これが最高に華やかで、最悪に醜い誕生日プレゼントだ。



「ねえ、リン。私たち、名前を変えても、この匂いだけは消えないのかな」



 バックヤードの隅で、ミカが自分の手首を嗅ぎながら言った。そこには、安物の香水と、アクリル板を拭くためのアルコールの匂いが染み付いていた。



「名前なんて、ただの管理番号だよ。中身が同じなら、設計図は書き換わらない」



 私は冷たく返した。ミカは悲しそうに笑い、「じゃあ、私は別の部品になりたいな。もっと硬くて、何も感じない、シリコンみたいな部品に」と呟いた。その言葉が、半年後に彼女の顔に埋め込まれたプロテーゼという名の予言であったことに、当時の私はまだ気づいていなかった。



 私はファンB。二十六歳。職業は解体工。私の仕事は、誰かが一生をかけて築き上げた構造物を、重機と火薬とバールで無へと還すことだ。ファンAのような連中が、必死にクラックを埋めて延命しようとしている築二十年のマンション? 私からすれば、それは明日には瓦礫の山へと姿を変える、ただの解体予定案件に過ぎない。



 かつて私は、大学で建築を学んでいた。美しい意匠、永遠に続くかのような堅牢な設計図。ル・コルビュジエや安藤忠雄の図面をトレースしながら、私はそこに普遍を求めていた。だが、現実は違った。コンクリートは打設された瞬間から中性化が始まり、鉄筋は目に見えない肺胞のような空隙から錆びていく。都市は代謝を繰り返し、新築の祝祭の陰で、腐食のカウントダウンは常に始まっている。設計図が完璧であればあるほど、それが重力の重みに耐えかね、一気にせん断破壊を起こして瓦礫へと還る瞬間の無慈悲な美しさに、私はいつしか取り憑かれていた。そんな私が、この八十平米の立方体に惹かれたのは、ここが崩落の予感に満ちているからだ。ここは建築ではない。ここは、終わりを待つための、最も贅沢な焼却炉だ。



 ファンAが地蔵として、重力そのものに同化し垂直荷重を支える基礎杭になるなら、私はその背後で激しく動き回るピンチケの群れの中にいる。私の動きは不規則なブラウン運動であり、システムの静止を許さない。固定されることは死だ。私は、この立方体の内部で絶え間なく摩擦を引き起こし、システムの温度を上昇させる攪拌機として存在している。



 一回五万円のサランラップ。Aはそれを、失われゆく美を閉じ込めるための真空パックとして、あるいは聖遺物を保護するシュリンクとしてファイリングする。だが、私は違う。私はそれを、指先で引き裂く感触、その膜が耐えきれなくなる限界点を探るために買う。



「リンちゃん、君はいつ壊れるんだ?」



 ラップ越しに彼女に問いかける。私の指は、彼女の柔らかな肉を愛でるのではなく、その皮膚の下にある金属疲労を検知しようとする。サランラップという〇・〇一ミリのポリ塩化ビニリデンの隔壁は、私にとって聖域ではなく、最後の一枚の皮膚だ。あるいは、爆薬を包むための絶縁体だ。これが剥がれたとき、十九歳という偽装されたテクスチャは剥落し、彼女という虚像は崩壊し、中のどろりとした空虚が溢れ出す。その瞬間を、最前列で、網膜を焼かれながら見届けたい。



 私は知っている。彼女が本当は二十二歳であることを。解体工の目は、外壁をどれだけ高価なタイルで塗り替え、パテで埋めても、構造体に刻まれた経年を隠せないことを知っている。彼女のダンスの瞬間に生じる、膝や腰のわずかな設計上の遊び。十九歳を装う彼女の瞳の奥に、時折過電圧のような絶望が走るのを、私は見逃さない。それは、老朽化したビルのエレベーターが、一瞬だけ不自然な振動を起こすのに似ている。彼女は、自らの肉体を十九歳という固定された図面に押し込めるために、内側から悲鳴を上げているのだ。



 ファンAは三十五年ローンのために、自分の時間をコンクリートに捧げているが、私は貯金をしない。銀行口座にある数字は、私にとっては何の意味も持たない未稼働の資材だ。私の手元に残る金は、すべてこの立方体の燃焼効率を上げるための燃料として即座に投入される。一分、五万円。それは、私が解体現場で泥と埃にまみれ、バールを振るって得た労働の血が、リンという精密な触媒を通じて光と音と絶望へと変換され、物理世界から消滅する不可逆なプロセスだ。



 私が稼いだキャッシュが、プロデューサーの脂ぎった喉を通って高級車のガソリンに変わる。リンが夜な夜な鏡の前で目尻のクラックに塗り込む、高価な化学薬品の代金に変わる。それでいい。形あるものはすべて無価値だ。完成した瞬間に価値は目減りし、中古市場という名の暗渠へと流れていく。価値があるのは、その「変換」が起きる瞬間の、一瞬のスパイク的な熱量だけだ。



 「リンちゃん、二十歳の誕生日に君が瓦礫になるなら、俺が一番いい重機を持ってきて、誰よりも美しく解体してあげるよ」



 サランラップに唇を押し当てる。ファンAが膜の向こう側に永遠や母性的な温もりを感じてうっとりしている横で、私は崩壊のカウントダウンを聴いている。ラップが男たちの吐息で結露し、熱を持ち、私の強すぎる押し込みによってピリリと音を立てて裂けそうになる。マネージャーが「時間です」と、事務的なカッターのように言葉を差し込む。その瞬間、私は自分の剥ぎ取られた魂の欠片が、他の有象無象のゴミと共にゴミ箱へ叩き落とされる音を聴く。最高だ。自分の人生の一部が、換金不可能な廃棄物として確定する。その清々しさが、私を明日も現場へと向かわせる。



 私は帰宅しない。帰るべき場所を固定することは、自分自身の風化を認めることだ。私は解体現場のプレハブ小屋、あるいは深夜のサウナの、誰のものともつかない安物の毛布にくるまって泥のように眠る。そこには維持すべき家もローンも家庭もない。ただ、明日壊すべき壁と、今日燃やし尽くした記憶があるだけだ。



 ファンAのような、天井のクラックを気にして、夜中に補修材を塗るような人生はもう卒業した。私は、この世界そのものが巨大な解体予定地だと思っている。プロデューサーがニチャと不気味な音を立てて笑いながら、タブレットの計算機を叩いている。彼は自分をこの世界の設計者だと思っているようだが、彼もまた、より大きな資本という重機に操られている交換可能な油圧シリンダーに過ぎない。リンも、ミカも、地蔵も、ピンチケも。私たちは、この八十平米の立方体の中で、互いの存在を激しく摩耗させ、摩擦熱を出し、最後にはただの産業廃棄物としてまとめて処理される。その残酷なプロセスのことを、世の中の連中はアイドルとかエンターテインメントと呼んで、キラキラした包装紙で包んでいる。だが、私に見えるのは、むき出しの鉄筋と、剥がれ落ちたコンクリートの破片だけだ。



 私は、使用済みのサランラップを丁寧にファイリングなどしない。そんなことをすれば、それは思い出という名の腐敗した建材になってしまう。ラップは、その場でゴミ箱に捨てる。あの〇・〇一ミリの感触も、彼女の皮膚の熱も、すべてはその瞬間に全消去されなければならない。記憶を瓦礫として積み上げてはいけない。常に更地でなければ、次の爆発的なライブへ進むことができないからだ。



 特典会の列で、私の目の前にはいつもファンAがいる。彼は震える手で、大切に温めてきた五万円を差し出し、救済を求めてサランラップの奥へと消えていく。彼にとってあの膜は、失われた十九歳の自分を呼び戻すための降霊術の鏡なのだろう。私は、その後ろでバールを握りしめるような手つきで、くしゃくしゃになった札束を握りしめている。私は、救済ではなく破壊を求めてラップへ向かう。



 リンという名の構造体は、今、この二つの全く矛盾する過酷な荷重を、同時にその細い身体で支えている。一方は「変わらないでくれ」と願う、保守的な維持荷重。もう一方は「早く壊れて見せてくれ」と期待する、破壊的な衝撃荷重。この二つのベクトルが交差し、臨界点に達したとき、この八十平米の立方体は、物理法則を超えた美しさで、一気にせん断破壊を起こすだろう。その時、アクリル板は粉砕され、サランラップは焼けただれ、プロデューサーのタブレットはただの黒いプラスチックの板に還る。



 私は、その瓦礫の山の中で、リンの二十二歳の、偽りのない本当の涙が見たい。十九歳という名の防水塗装が剥げ、サランラップも、アクリル板も、プロデューサーの狡猾な設計図も、すべてが物理的に消滅した後に残る、何者でもない、ただの衰えていく女の、生々しい腐食の匂い。その匂いを嗅いだとき、私は初めて彼女を人間として認めてやるつもりだ。  それこそが、私がこの立方体に支払い続ける、最後の一分間の、最も高価な対価なのだから。



 現場では、今日も巨大な圧砕機がコンクリートを噛み砕いている。バリバリと骨を砕くような音が、私の鼓動と同期する。「あと少しだ」私は、防塵マスクの下で小さく笑う。リン、君の十九歳という仮囲いが外されるその日、俺は最高の特等席を用意して待っている。  君が瓦礫になるその瞬間、俺は誰よりも激しく、その崩壊に拍手を送るだろう。そして、空になった八十平米の立方体の跡地で、私はようやく、何のレートにも支配されない、ただの深呼吸ができるはずなのだ。



 カバンの中には、次の公演のための新札五万円。それは、私の命を削って作り出した、最強の「爆薬」だ。さあ、今日もあの立方体へ向かおう。崩落の音が、もう、すぐそこまで聞こえている。


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