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「I$」  作者: Bull Terrier
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第二話 減価償却の孤独

 日曜日の三回公演を終え、月曜日の朝に泥のような眠りから覚めても、そこには休息など存在しない。カレンダーのすべてが燃焼予定日で埋め尽くされている。プロデューサーにとって、私たちの休日は未稼働の機械による損失と同じ意味だった。二十歳の誕生日まで、あと十四日間。私は十四回、あの立方体へと突き落とされ、一秒も欠かさず換金され続けるのだ。



 枕元に放り出したスマートフォンの画面を指でなぞると、管理アプリの隅で私の推定残存時価総額が、一円単位で微減を続けている。二億一千七百五十万円。それが、十九歳の私が二十歳という瓦礫になるまでに、この立方体が私から搾り取れると予測された総利益の残高だ。



 一秒、呼吸をする。マイナス〇・八円。まどろみの中で寝返りを打つ。さらにマイナス四十八円。私がこうして横たわっている間も、プロデューサーの設計図の上では、私の皮膚の張りは失われ、鮮度は揮発し、債券としての価値は確実に目減りしていく。だが、この二億という数字は、私という人間を一度たりとも温めてはくれない。昨日、私はサランラップの聖域で、一分五万円の契約を何十回も更新した。私の唇が、脂ぎった男たちの欲望をポリ塩化ビニリデンの膜越しにトレースするたび、事務所の金庫には札束が積み上がったはずだ。しかし、さきほどATMで確認した私の銀行残高は、先月の歩合を含めても十四万二千円しかなかった。



「……おかしいよ。計算が合わない」



 独り言が、冷たい市営住宅の壁に跳ね返る。プロデューサーが私に渡す給与明細には、呪文のような控除項目が並んでいる。スタジオ・劇場使用料、高照度照明による肌ダメージ修繕費、市場価値維持のためのSNS運用コンサル費、構造材摩耗対策費……。結局、二億円の利益を生む装置である私に与えられるのは、この街で生きていくための最低限の電気代と食料代だけなのだ。私は、時価総額二億円のフェラーリを運転しながら、自分自身はガソリン代すらままならない整備士のようなものだった。「リン、お前を輝かせるためのシステムにどれだけの維持費がかかっていると思っている」プロデューサーの、湿った声が脳内でリフレインする。「お前という装置を稼働させるコストは、お前の年収の百倍だ。お前は、自分が生み出す利益の残りカスだけで生きている寄生虫なんだよ。感謝しろ。俺が図面を引かなければ、お前はただの、価値のない十九歳の肉塊だったんだ」



 私は、汚れた天井を見上げる。天井の隅には、小さなクラックが入っていた。この市営住宅の構造体も、私と同じように長い年月をかけて解体へと向かっている。コンクリートの耐用年数と、アイドルの賞味期限。どちらが先に限界を迎えるか、答えは明白だった。一分五万円のサランラップ。その〇・〇一ミリの向こう側で、ファンAが泣いていた。彼は自分の人生を、三十年の住宅ローンという形で切り売りし、その残骸を私に運んできた。そして私は、その残骸を受け取りながら、自分の人生を十四万円という端金に換金している。



 私とファンA。どちらがより深い暗渠に沈んでいるのだろうか。彼がラップ越しに感じた熱は、プロデューサーがシステムを効率よく回すために排出した、ただのエネルギーのゴミだ。熱力学の第二法則に従えば、すべてのエネルギーは最後には利用不可能な廃熱へと変わる。それを愛だと勘違いして、彼はまた明日も一万円札を持って蟻の列に並ぶだろう。その行為が、自らの人生を解体する工事だとも気づかずに。



悲しかった。



 市営住宅に暮らすアイドル、給料十四万のアイドル、安物のパスタを家で一人で食べるアイドル、〇・〇一ミリに魂を売るアイドル。いや、私はアイドルではない。地下アイドルだった。一度足を踏み入れれば、決して地上へと這い上がることは叶わない。光の届かない土の中で、ただキャッシュという卵を生み続ける女王蟻。女王という名を与えられながら、その実体は生殖という名の集金袋として機能を特化させられただけの肉塊だ。働き蟻たちが外から運んでくる蜜という生活費を吸い、ただひたすらにシステムを維持するための数字を産み落とす。



 埋めなくなった女王蟻は、その役目を終えると、無慈悲に地上へと捨てられる。羽をもがれ、光に焼かれ、誰からも顧みられない瓦礫として。私たちが流す汗も、震える指先も、剥がれ落ちるスパンコールも。すべてが精密な積算見積書の一行に過ぎないことが、私の胸を鋭くえぐった。十九歳の私という季節は、誰の記憶にも残らない。ただ、プロデューサーの通帳に刻まれる数字の羅列として、機械的に処理されていくだけだ。



 ふと、台所にあるサランラップの箱に目が留まった。昨日、スーパーで百九十八円で買った、何の変哲もない生活用品。あの立方体の中では、これが一分五万円の聖域を作るための魔法の建材だった。ドナーたちが渇望し、狂ったように唇を押し当てる、神聖な境界線。けれど、この六畳一間の部屋では、これはただの食べ残しを包むための、味気ないプラスチックの膜だ。五万円あれば、二百五十二個のサランラップが買える。その事実が、たまらなく皮肉で、吐き気がした。



 一分間、私の頬に触れる権利のために支払われた五万円で、私はこのスーパーのラップを二百五十二本買うことができる。もしそれをすべて引き出し、この部屋の壁一面に貼り巡らせたとしたら、私はより強固な聖域を手に入れることができるだろうか。それとも、単に自分が二百五十二倍の速度で窒息していくだけだろうか。



 茹で上がるまでの六百秒で、私は四百八十円分の価値を失う。私の夕食よりも高いコストを支払って、私はただ老いている。私は、自分が産み落としたキャッシュという卵が、どのように使われているのかを知っている。それはミカの鼻を高くするための手術費用になり、ステージの照明を最新のLEDに変えるための設備投資になり、そしてプロデューサーの高級外車のガソリン代になる。構造材である私には、その恩恵は一切還元されない。摩耗した部品には、新しい油を差すよりも、使い潰して交換する方がコストパフォーマンスが良いからだ。



「……ねえ、二十歳になった私は、どこに捨てられるの?」



 私は、ラップ越しに自分の唇を指でなぞった。冷たくて、硬い。そこには、ファンAが感じたような熱など、最初から存在しなかったのだ。私が売っていたのは、私の熱ではない。彼らの孤独が鏡に反射して、勝手に発熱していただけの虚像。クラックの入った天井を眺めながらサランラップを開いた。そこには地下アイドルではない実像に近い私の顔が映りこんでいた。サランラップの僅かな弛みから私の顔は歪んでいく。私は、必死にサランラップを伸ばした。そこに映るのは、今の私と地下アイドルの私。そして居るはずのないファンAの顔が三重写しのように見えた。



 私は、自分自身とキスをし、ファンAともキスをする。ファンAは、自分自身とキスをしながら私にキスをしている。この透明な膜の中で、私たちの欲望は出口を失い、互いの輪郭を侵食し合う。私は、誰とキスをしているのか。アクリル板という硬い拒絶を失い、サランラップという柔らかな受容を手に入れてしまった私たちは、もはや個体としての境界線を維持できない。問いは、室内がオレンジ色に染まる時間になっても答えは出なかった。夕日は、部屋の隅にあるクラックを残酷に強調し、私の影を床に長く引き摺っていた。



 ふと、思い出した。ファンAが去った後に切り取られた、あの使用済みラップ。マネージャーの持つカッターが立てる、あの鋭利な音。あれは私の皮膚を剥ぐ音ではなく、私の実像を消去する音だったのだ。一分五万円を支払うことで、彼は私の実像を殺し、彼にとって都合の良い記号を買い取る。ファンAもまた、持ち帰ったサランラップを自室で広げているのだろうか。シワの寄ったプラスチックの膜に、自分自身の脂ぎった顔を投影しながら、そこに存在しないはずの私の虚像を見て、キスをしているのかもしれない。ラップが映し出すのは、実像を失った私の二重写しと、彼の妄想が重なった虚無の三重写し。その混濁した反射の渦の中に、私は自分を探した。



 オレンジ色に染まった室内で、引き伸ばされたサランラップの張力が、私の頬を不自然に歪ませる。その瞬間に、誰もいない室内で、私は数年ぶりに私の声を聴いた。



「……気持ち悪い」



 その言葉が零れ落ちた瞬間、私の視界を覆っていたサランラップの魔法が、音を立てて弾けた。二百五十二個分のサランラップで部屋を梱包しても、私は救われない。あと、百二十万秒。二十歳の誕生日に瓦礫になるのを待つ必要なんて、どこにもなかったのだ。私は、顔に張り付いたラップを力任せに引き剥がした。ポリ塩化ビニリデンの膜は、醜く伸び、私の指にまとわりつき、最後には力なく千切れた。私は、鏡も見ずに、冷めきったパスタを口に運んだ。小麦粉の味しかしない、十四万円の人生の味。だが、その不味さこそが、今の私の唯一の実像だった。喉を通るパスタの感触が、私に確信させた。私は構造材ではない。私は、この立方体を内側から腐食させ、崩落させるための、一粒のウイルスにならなければならない。



「……私も、これと同じなんだ」



 場所を変えれば、五万円。場所を変えれば、ただのゴミ。私の価値は、私自身の内側にはない。プロデューサーが引いた図面の中にしかないのだ。その図面から一歩外に出れば、私はただの重力に従うだけの質量に変わる。もし、私が二十歳の誕生日を迎える前に、このバブルを意図的に弾けさせたら? 二億一千七百五十万円という数字が、一瞬でゼロになる瞬間を見てみたい。



 私はスマートフォンを手に取り、秘密の裏アカウントにログインする。そこには、私が夜道で一人、傘もなく立ち尽くしている写真が保存されていた。ステージの上での防水塗装を施した笑顔ではない、剥き出しの、湿った十九歳の顔。これを放流すれば、期待値は暴落する。愛を語るな、レートを語れ。窓の外では、朝の通勤ラッシュに向かう蟻たちが、駅へと続く隊列を作り始めていた。彼らもまた、一秒ごとに自分の生命を換金し、消費されている。



 私は、震える指で送信ボタンを見つめる。二十歳の終焉まで、あと十四日。私は、自分という名の新しい通貨が、紙屑に変わる瞬間を待っていた。サランラップの芯が、空虚な音を立てて床に転がった。



 私はプロデューサー。PA卓のフェーダーを上げると、八十平米の空間は巨大な圧力釜へと変質する。私はこの立方体の設計者ではない。私は熱力学の執行者だ。凡庸なプロデューサーは可愛さという不確かな変数を管理しようとするが、私は違う。私が管理するのは、純粋な物理現象としての伝導率だ。なぜ、強化ガラスではなく、あえてアクリルなのか。なぜ、シリコンではなく、サランラップなのか。コストの問題ではない。それは、情報の純度を極限まで高め、感情を熱量へと変換するための、必然的な選択だ。



 アクリル板は、五ミリの厚みを持たせることで安全を担保するのではない。あれは、ドナーたちの欲望を屈折させ、増幅させるためのレンズだ。透明であることは、残酷であることと等価だ。目の前に存在し、その呼気さえ見えるのに、物理的な接触は五ミリの重合体に阻まれる。この情報の非対称性が、電荷のように空間に蓄積され、やがて臨界点に達する。そして、その臨界を解放するための唯一の安全弁が、サランラップだ。



 ポリ塩化ビニリデン、厚さ〇・〇一ミリ。この膜に物理的な強度は皆無だ。しかし、この膜は聖域の境界として機能する。ドナーがラップ越しに唇を寄せる。そのとき、リンの体温はラップという抵抗を通じて、ドナーの粘膜へと伝達される。このとき発生する熱量は、フーリエの熱伝導法則に支配されている。厚みがゼロに近づけば近づくほど、熱の移動速度は無限大へと加速し、脳は直接触れているという錯覚を起こす。ドナーたちが感じる多幸感の正体は、愛などではない。極薄のプラスチック膜によって引き起こされた、熱力学的なショート現象なのだ。



 私は、モニターの中に映るリンを見る。彼女は自分を人間だと思っているようだが、私の設計図の上では、彼女は十九歳という高効率な熱交換器に過ぎない。オーディションの際、私が彼女を選んだ理由は一つ。彼女の眼球の奥にある空虚が、最も美しく絶望を反射すると確信したからだ。幸福な少女は、熱を外部へ放出してしまう。だが、内側に重い空虚を抱えた個体は、ドナーの視線をその空隙に吸い込み、内部エネルギーとして蓄積する。



 最近、彼女の表面に微細なノイズが混じり始めている。本人は巧みな化粧で隠せていると思っているようだが、私の高精細カメラは、目尻に走った〇・一ミリのクラックを見逃さない。だが、それでいい。構造材は、崩壊の直前が最も官能的だ。ストレスが限界に達し、金属疲労がその悲鳴を上げる瞬間の煌めき。それこそが、二億一千七百五十万円という数字を叩き出す真の燃料となる。



 二十歳という解体予定日まで、カウントダウンは止まらない。彼女がどれほど足掻こうとも、私の設計図から逃れることはできない。熱力学第二法則エントロピーは増大し、若さは必ず失われる。私はただ、その崩壊のプロセスを最も高値で売却するだけだ。私は、リンという十九歳の構造材を、この高負荷の実験に耐えうる触媒として設計した。彼女が摩耗し、クラックが入り、最後には瓦礫へと還元されることは、当初からの計算だ。積算計が回る。彼女が一回呼吸するたびに、私の口座には、若さの廃熱が通貨として蓄積される。この立方体の中で、唯一エントロピーの法則に抗い、富を増大させているのは私だけだ。さあ、リン。次の一秒、君はどれだけの熱を、あの蟻どもに分け与えるつもりだ?



 なぜ、私がここまで熱伝導と隔壁に固執するのか。それは、私がかつて犯した致命的な設計ミスに起因する。十年前、私はまだ、この世界を感情という不確定要素で制御できると信じていた愚かな若造だった。当時、私が担当していた一人の少女がいた。名はハナ。彼女は今のリンよりもずっと強度が低く、けれど、どの建材よりも美しい天然の光沢を持っていた。私は彼女を愛していた。プロデューサーという立場を忘れ、アクリル板という隔壁を設けることもなく、生身の彼女と直接接触してしまったのだ。システムに情愛という名の過電流が流れた。私は彼女を特別扱いし、レートを無視した運営を行った。だが、物理法則は残酷だ。保護回路のない回路は、負荷がかかれば一瞬で焼き切れる。彼女に執着した一人の狂信的なドナーが、アクリル板のない楽屋口で、彼女を物理的に解体しようとした。



 彼女の白い衣装が、本物の赤で染まったとき、私はようやく理解したのだ。アイドルとは、人間であってはならない。彼女を守るものは私の愛ではなく、五ミリのポリメタクリル酸メチルであり、〇・〇一ミリのポリ塩化ビニリデンでなければならなかった。物理的な障壁こそが、彼女たちの価値と生存を担保する唯一の手段なのだ。彼女を死なせたのは、包丁を持った男ではない。直接触れ合えるという幻想を許した、私の甘い設計図だ。以来、私は愛を捨て、レートを信奉することにした。人間を記号へと解体し、感情を廃熱として処理する。それが、彼女たちを瓦礫になるその瞬間まで商品として美しく維持するための、唯一の供養だ。



 リン。お前が私を憎むのは構わない。だが、私がアクリル板を置くのは、お前を拒絶するためではない。お前を、かつてのハナのように、ただの死体にさせないための、私の血塗られた贖罪の壁なのだ。



 積算計を回せ。数字だけが、お前が今、この地獄で生きていることを証明する唯一の座標なのだから。私はフェーダーをさらに一段階、押し上げた。ハウリング寸前の高周波が、立方体の空気を切り裂く。さあ、踊れ、リン。君が自分を自分だと思い込んでいるその傲慢さが、一番の売り物なのだから。



 プロデューサー。あなたはかつて「物理的な障壁こそが、彼女たちの価値を担保する唯一の手段だ」と言った。だが、あなたが必死にメンテナンスしていたのは、私の実体ではなく、私があなたの欲望に合わせて偽装した十九歳の外装に過ぎなかった。あなたは、設計図という名の檻で私を飼い慣らしているつもりだったのだろう。けれど、檻の中にいたのは、私が作り出した精密なホログラムだ。私は、あなたの管理アプリに表示される推定残存時価総額という数字を、自らの嘘でハッキングし、操作し続けていた。あなたが吸い上げていたのは、私の若さというエネルギーではない。私が意図的に漏洩させた、偽りの情報の廃熱だ。    五年。その長い施工期間を経て、私はようやく理解した。この世界において、真実などという強度は必要ない。必要なのは、相手が信じたいと願う偽りのスペックを、いかに完璧に、いかに美しく納品し続けるかだ。私は、あなたに十九歳の死という名の、完璧な竣工写真を見せてあげる。あなたが明日、誰もいない八十平米の立方体で、残されたアクリル板の破片を拾い集める時、そこには一滴の私の真実も残っていない。あなたは、空虚な積算見積書を握りしめ、存在しなかった少女の減価償却を、永遠に計算し続けるがいい。



 その日の三回公演目が終わった深夜、楽屋の鏡の前で、ミカは自分の顔を解体していた。  クレンジングシートで何度も何度も頬を擦り、皮膚が赤く腫れ上がるのも構わずに、彼女は自分の顔を剥ぎ取ろうとしているように見えた。



「ねえ、リン」



 鏡越しに目が合う。ミカの瞳は、過電流で焼き切れたフィラメントのように、鈍く濁った光を放っていた。「私、次はシリコンになりたい」突拍子もない言葉だった。だが、彼女の指先は、自分の鼻梁や顎のラインを、まるで欠陥住宅の柱を検分するように、冷徹になぞっている。



「……何言ってるの、ミカ」



 「本気だよ。この肉がいけないんだよ。汗をかけばメイクは剥げるし、泣けば目が腫れる。一秒ごとに細胞が死んで、設計図からズレていく。不確実すぎるよ。この肉っていう建材は、アイドルの構造物には向いてないんだよ」ミカは、鏡に映る自分の顔を指差し、まるで他人の遺影を見るような冷ややかな笑みを浮かべた。「だからさ、少しずつ入れ替えていこうと思うの。ここにはプロテーゼ、ここにはヒアルロン酸。自分の柔らかい部分を、もっと硬くて、劣化しない、管理しやすい部品に置換していくの。そうすれば、プロデューサーの管理アプリの数字も、少しは安定するでしょ? 摩耗しない部品になれば、私は永遠に十九歳のまま、この立方体のパーツとして機能し続けられる」



 彼女の声は、祈りのようでもあり、呪詛のようでもあった。彼女は、人間として愛されることを諦め、システムに最適化された高精度のデバイスへと昇華されることで、この窒息しそうな不安から逃れようとしていた。「部品になっちゃえば、もう痛くないし、悲しくもない。誰に何を言われても、それは私の外装材に当たって跳ね返るだけ。心なんて、一番最初に廃棄しちゃえばいいんだよ。リンもそう思わない?」



 ミカが差し出した手は、微かに震えていた。その震えを止めるために、彼女はさらに強い力で自分の腕を掴む。私は、彼女を抱きしめることができなかった。もし抱きしめてしまえば、彼女が今、必死に保っているモノになろうとする決意という脆い構造を、私の体温が溶かしてしまうような気がしたからだ。



「……ミカ。部品になったら、もう戻れないよ」



 「戻らなくていいの。瓦礫になるくらいなら、私は、この立方体の一部として、無機質なまま生き残りたい」ミカの言葉に私はかつての封印した記憶を思い出しながら、奥歯に沈んだ金属的な沈黙で噛みしめていた。翌週、ミカは数日のメンテナンス休暇を取った。戻ってきた彼女の鼻筋には、まだ消えない微かな内出血の痕と、不自然なほど完璧な直線が施工されていた。彼女の笑顔は、以前よりも少しだけ、物理的な抵抗感を伴って歪んでいた。それが、彼女が自分という個体を捨て、この地獄の構造材へと同化を始めた、最初の改築工事だった。ミカの鼻筋に埋め込まれたシリコンの直線は、ステージの強烈なフロントスポットを浴びるたび、かつての彼女にはなかった無機質な正解を反射していた。彼女の改造は、止まらなかった。鼻の次は顎を削り、その次は頬の脂肪を溶かし、代わりに高分子の充填剤を注入した。彼女が自分の肉体を修理するたびに、プロデューサーのタブレット上のインジケーターは、皮肉にも安定した数値を刻み始めた。



 有機的な揺らぎ、すなわち人間らしさが消えるほど、彼女の商品価値は固定され、減価償却のカーブは緩やかになった。彼女は自らを殺すことで、延命に成功していたのだ。



「見て、リン。今日の私、一ミリも崩れてないでしょ」



 三時間に及ぶ激しいライブの直後、汗だくの私とは対照的に、ミカの顔面は冷徹な平滑さを保っていた。表情筋の動きを制限された彼女の笑顔は、もはや感情の表出ではなく、設計図通りに配置された視覚効果だった。彼女の指先が、自分の頬を叩く。カチカチと、爪が硬質な何かに当たる乾いた音が楽屋に響く。それは、かつて彼女が痛いと泣いていた十九歳の少女の末期の音だった。



「……完璧だよ、ミカ。まるで、出来立てのアクリルフィギュアみたいだ」



 私の言葉に、彼女は満足そうに口角を上げた。その動作に伴い、皮膚の下でプロテーゼが微かに浮き上がる。私はそれを見て、激しい眩暈に襲われた。彼女が選んだ部品としての生存戦略は、この立方体というシステムに対する、最も卑屈で、かつ最も誠実な服従だった。彼女は自ら進んで、プロデューサーの引いた設計図の一部となり、建材としての強度を高めていった。



 だが、その代償として、彼女の瞳からは対話という機能が失われていった。サランラップの聖域で、ドナーたちが彼女に唇を寄せるとき、彼女はもはや全消去する必要すらなかった。そこにいるのは、ポリ塩化ビニリデンの膜と、その数ミリ下にある合成樹脂の塊だけなのだから。ドナーたちは、自分の人生を懸けて、無機質な工業製品と熱交換を行っているに過ぎない。



 私は、自分の指先を見つめる。ささくれ立ち、血が滲んだ爪。一秒ごとに酸化し、重力に負けていく私の肉。ミカが正解だというのなら、この痛みを感じ続けている私は、このシステムにおける不良債権でしかない。



 「リン、お前も早く工事をしろ」 PA卓の影から、プロデューサーが湿った声で命じてくる。彼の指先は、相変わらずあの上位のインジケーターを前に小刻みに震えているが、ミカの安定したレートだけが、彼に束の間の安寧を与えているようだった。「お前のその目尻のクラック、ドナーたちは気づき始めているぞ。お前というデバイスは、もう保守限界を超えているんだ。ミカを見ろ。彼女は賢い。自分を資産として守るために、自分を捨てたんだ」



 プロデューサーの言葉は、私の鼓動を正確に逆なでする。ミカの改築費用は、すべて彼女のこれまでの売上から設備投資費として差し引かれていた。彼女は自分の魂を換金して、自分を閉じ込める檻の壁をより強固に、より美しく塗り替えていたのだ。



 その夜、私は深夜の公園で、ひとりベンチに座っていた。雨は降っていない。だが、空気は不親切なほど冷たく、私の肺を内側から削っていく。カバンの中から、一枚のサランラップを取り出す。昼間、スーパーで購入した家庭用の消耗品。私はそれを自分の顔に巻きつけた。



 〇・〇一ミリの膜越しに、夜の街を見る。街灯の光が歪み、世界がプラスチックのフィルターを通して解体されていく。ミカは、この膜の内側へ、永遠に引き籠もることを選んだ。  彼女はもう、外気の冷たさも、ドナーたちの吐息の不快さも、十九歳が瓦礫に変わる恐怖も感じない。彼女は、システムの一部として「完成」したのだ。



「……嫌だ」



 私の唇から、呪いのような言葉が漏れた。私は部品になりたくない。シリコンの鼻も、ヒアルロン酸の頬も、感情を廃棄した笑顔も、いらない。例え二十歳の誕生日に瓦礫となって、誰からも顧みられないゴミとして排出されるのだとしても、私は、この摩耗する肉のまま、このシステムを道連れにしてやりたい。



 私は顔に張り付いたサランラップを、乱暴に引き剥がした。剥がれるとき、自分の肌が微かに悲鳴を上げた気がした。その痛みこそが、私の実像だった。私はスマートフォンを起動し、ミカの改築後の写真をじっと見つめる。完璧に左右対称に整えられた、美しい仮面。この仮面が、あのアクリル板が粉砕される日に、どんな音を立てて割れるのか。ミカ。あなたが選んだその硬質な盾が、最後にはあなた自身を切り裂く刃になることを、私は予感していた。



 私たちは、同じ一秒を生きながら、全く別の絶望を構築していた。私は崩落を夢見る瓦礫として。ミカは、永遠を偽装する部品として。そしてプロデューサーは、そのすべてを数字という名の暗渠へ流し込む、震える管理者として。



「あと百十万秒」



 カウントダウンの数字が、私の網膜の裏側で血のように赤く点滅した。ミカの部品化という名の逃避行を見届けたことで、私の覚悟は、アクリル板よりも鋭く研ぎ澄まされていた。施工は、着々と進んでいる。私たちの破滅という名の、巨大な構造物の竣工に向けて。


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