第八話 神威
日本海に近い出雲の地は、山と海とがほどよく距離を保ち、古くから「神々の往来する境」として語られてきた。
その中心に、深い杜を背負うようにして鎮座するのが、出雲大社である。
早朝、睦貴は勢溜の大鳥居前に到着した。
父である奏貴が昨夜のうちに連絡をしてくれていた。
ある程度は詳細を伏せて伝えていたが、それでも事態を重く見た出雲大社の関係者たちが出迎えてくれた。
「お待ちしておりました。早速、参りましょう」
社殿へと続く参道は、過剰な荘厳さを誇ることなく、ただ静かに、睦貴の歩調を整えていく。
大社の空気は、張り詰めてはいない。
かといって、気安く触れられるものでもない。
永い時を経て積み重ねられた信仰が、柔らかな層となってその場に留まり、人と神との距離を過不足なく保っていると睦気は感じた。
途中、神職たちが祓社で足を止め、「祓詞」を奏上し睦貴を祓い清める。
拝殿に掲げられた、人の背丈や感覚を軽々と超えた、巨大なしめ縄。
乾いた色合いを帯びながらも、境界としての役割を強く主張していた。
しめ縄の圧倒的な重厚感が、人と神域を隔てる一本の線として、否応なく意識に刻まれる。
「杵築様、大変申し訳ございませんが、瑞垣の内へはご案内いたしますが、御本殿の奥への立ち入りは、ご容赦いただきたく存じます」
「もちろんです。突然の不躾な申し入れにも関わらず、快くご対応いただき感謝の言葉もありません。立入をお許しいただけただけでも十分です」
神職たちの先導に従い、静かに歩いていく。
昨夜の大国主との邂逅で体感した畏怖を思い出す。
「こちらから先が、御本殿です。私どものご案内はここまでとなります。扉の外に控えておりますので、何かありましたらお声をお掛け下さい」
「私一人で入ってもよろしいのでしょうか」
神職は一瞬だけ視線を伏せ、深く息を整えてから、静かに首を縦に振った。
「ええ。お一人でお願いいたします」
それは拒絶でも指示でもなく、定められた距離を越えぬための言葉だった。
「この先は、人が導く場ではございません。もし…もしも、あのお方が在すならば、我らが同じ場所に身を置くことは、あまりにも畏れ多く…」
言葉はそこで途切れた。
続ければ、それ自体が不敬になると悟ったかのように。
「みだりに踏み入ることも、また許されぬ御神域にございます」
睦貴は、小さくうなずいた。
その理由は、理屈ではなく、身体の奥で理解できた。
昨夜、大国主と対峙したあの感覚——
「…承知しました」
神職たちはそれ以上何も言わず、睦貴に道を作るかのように、左右に一歩ずつ退いた。
その中央を、睦貴は落ち着いた心持ちで通っていく。
振り返れば、神職たちはすでに頭を垂れている。
視線を上げることもなく、ただ沈黙の中で、その場に留まっていたのだった。
瑞垣の内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
境内と隔てられているのは、ほんの数歩の距離に過ぎない。
気温も湿度も変わらない。
それでも、同じ敷地に立っているとは思えなかった。
視線の先に屹立していたのは、高床のまま大地から引き離されたように建つ大社造の本殿。
柱は太く、無言のまま幾世の時を支えてきた重みを宿し、正面へと伸びる急な階は、人の歩みを拒むかのように高く険しい。
千木と鰹木を戴く切妻の屋根は空を切り、ここが神の坐すための座であることを雄弁に語っている。
ここが人の尺度で測る場所ではないと、理屈ではなく理解した。
どこまでも天高く、そして気高い階の前に立つ。
呼ばれているという、言葉にしがたい確信を胸に、睦貴は深く一礼した。
礼をしたまま、睦貴は周囲の空気がさらに変わるのを感じた。
何かに包まれたと感じた次の瞬間、その感覚は跡形もなく消えていた。
そこに残っていたのは、ただ澄み切った清浄な空気と、猛烈な圧。
恐る恐る顔を上げると、階に悠々と座る一人の老成した人物がそこにいた。
片足は胡坐をかき、もう片足はリラックスしたように前に投げている。
水狭神社の本殿で見た時と同じように、長い髪を簡素に結わき、風に靡かせている。
昨夜と違うのは、ホログラムのような発光体ではなく、血の通った肉体を備えた生身の人間のようだった。
違うのは質感だけではない。
その「神威」が桁違いの圧だった。
睦貴は、喉の奥がひくりと鳴るのを自覚した。
視線を逸らそうとしても、身体が言うことを聞かない。
「(これほどまでとは…!)」
神代に幾多の困難や生死をも乗り越え、荒れた中津国を平定し、豊かさをもたらし、医療を広め、そして現在に至るまで人々を幽世から見守り続けてきた大神の神威。
『よくここまで歩みを進めてきた』
低く、よく通る声だった。
天から降るようでもあり、大地の底から響くようでもある。
その一言で、睦貴の膝がわずかに震えた。
名を呼ぶことすら憚られ、言葉が喉に絡む。
呼吸を整え、ようやく絞り出す。
「この場にて、あなた様をお呼びする名を賜ってもよろしいでしょうか」
老成した人物は、わずかに口元を緩めた。
それは笑みと呼ぶには静かすぎ、しかし確かに慈しみを含んでいた。
『名を口にする必要はない。ここでは『在るもの』でよい。しかし、そなたが話をしやすいよう、人々が我を呼ぶ名でよい』
「…大国主…様…」
大国主は階の縁に置いていた手を軽く叩く。
『楽にせよ。そのように身を固くしていては、言葉も交わせぬ』
楽に、という言葉とは裏腹に、神威は少しも緩まない。
むしろ、睦貴の覚悟を測るかのように、静かに圧を保ち続けている。
「…恐れながら。私をお呼びいただいた理由をお聞かせ願えますでしょうか」
沈黙が落ちた。
風が、大国主の髪をわずかに揺らす。
やがて、大国主は天を仰ぐように視線を逸らし、あご髭を触りながらぽつりと言った。
『人の世が、少しばかり騒がしくなっておる。その揺らぎの中で、そなたはここへ至った』
ゆっくりと視線が戻り、再び睦貴を捉える。
『それだけで、十分に理由となる』
視線はそのままに、大国主は僅かに身を乗り出した。
『問おう。そなたは何を求め、この場に立っておる』
その問いは、導きでも、裁きでも、命令でもない。
ただ、選択と覚悟を促す問いだった。
睦貴は、拳を強く握りしめ、大国主を見つめた。
「強大な敵により、今まさに日本は消滅の危機にあります」
『知っておる』
「私はこの日本を守りたいのです!」
大国主を前に、睦貴は感情を露わにした。
嘘偽りのない純真な感情、そして不安。
『それがそなたの、答えか』
大国主はさらに身を睦貴に近付け、抑揚のない声色で問う。
その覚悟を確かめているようにも思えたが、睦貴にはその神意が掴めるはずもなかった。
「しかしその術がありません。私たちが開発を進めている八咫も、あと一歩のところで停滞しています。八咫さえあれば、日本は対抗し得る力を備えられるのです」
大国主は乗り出していた身を元に戻し、再びあご髭に手をやり、目を閉じて黙してしまった。
しばしの沈黙。
この重厚な空気の中に垂れ込める沈黙に、耐えられる人間は少ないだろう。
睦貴は、希望、不安、畏怖といった胸の奥に渦巻く感情を押し殺しながら、深く頭を垂れた。
「恐れながら…大国主様にお尋ねいたします」
声に出した瞬間、自分でも分かるほど、喉が渇いていた。
「神は、直接に人へ恩恵を与え、あるいは罰を下すことは、なさらぬのでしょうか」
大国主は、わずかに目を細めた。
その表情は柔らかく、しかし答えは短かった。
『………せぬ』
それだけで、空気が揺れた。
覆しようのない真理が、そこにパチリと置かれたようだった。
睦貴は、さらに一歩踏み込む。
「では…人の祈りは、届いておられぬのですか」
大国主は、風に揺れる髪をそのままに、静かに睦貴を見下ろした。
『届いておる。現世に生きる者の声が、我らに届かぬことはない』
その言葉に、安堵と戸惑いが同時に胸を満たす。
「人々の祈りが届いていらっしゃるのなら……なぜ、神の御業を施してはいただけないのでしょうか。このままでは信仰が薄れ、いずれ途絶えてしまい……それは日本の…日本人らしさの消失ではありませんか」
しばしの沈黙。
やがて、大国主は静かに口を開いた。
『逆に問おう。なぜ、そなたは神々の力を『施されておらぬ』と思うのだ』
睦貴は言葉に詰まった。
「…多くの人が、そう感じているからです」
『人が『感じる』ことが、すべてではない』
その声音は、諭すでも責めるでもなく、ただ淡々としていた。
しかし変わらず、優しさで包み込むようだった。
『たとえば、小さき石が山を転がり落ちたとしよう。その石は岩に触れ、岩はさらに大きな塊を動かし、やがて山肌を崩す』
大国主の視線が、遥か彼方を見据える。
『人の目に映るのは、山が崩れたという大きな災いのみ。その始まりが、指先に乗るほどの小石であったことを、誰が気づこうか』
大国主は、わずかに笑みを含んだ。
『神がなすのは、種を撒くことのみ。太古に蒔かれた種が、永き時を経てようやく今、豊かな穂を結ぶこともある。あるいは、蒔かれたその瞬間に花開くこともあろう。ただ種を撒き続ける。その先を、人が生きるために』
睦貴の胸に、ある考えが浮かび上がる。
「神の御心によって私がここに立つよう、初めから定められていたのでしょうか」
『違う』
即答だった。
『選び、決め、歩むのは、そなた自身だ。どれだけ辛かろうが、進む先を変える強き意思を人は持っておる。神は人の生を縛らぬ』
大国主は、再びゆっくりと前かがみになり、睦貴を見据える。
『我は、ただそれを見守るのみ。そしてそなたは、自らの足で歩みを続け、今ここで――』
大国主はゆっくりと、睦貴に向けて指をさす。
その目は、どこか嬉しそうでもあり、どこまでも慈愛に満ちていた。
『――こうして花を咲かせておる』
睦貴は、深く息を吐いた。
「私たちは…自分たちの力だけで日常を生きていると思いがちです。けれど、その裏には、目に見えぬ御力が働いていた…そういうことなのですね」
『人はそれを、神徳とも呼び、時には神罰とも呼ぶ』
その言葉は、「そう在る」という事実を告げているだけだった。
『では、そなたの答えに応じよう』
大国主は、ふと視線を落とした。
それは睦貴自身ではなく、彼の拳――握り込んでいた勾玉へ向けられていた。
『そなたらが生み出した『器』のことは、知っておる』
低く、しかし確かな響きをもった声だった。
『雷や火、光や力…そなたらは、古き神々のはたらきをなぞるようにして、それらを形にしようとしておるな』
「…そこまでご存じ、だったのですか」
大国主は否も肯も示さず、ただ言葉を続ける。
『人の手で神のはたらきを扱おうとするならば、まず受け止める土壌が整っておらねばならぬ』
階に置かれた指先が、軽く地を叩いた。
『今のそれは、種を抱くには未だ浅い。力を呼び込もうとしても、根を張る前に土が裂けてしまおう』
睦貴は、思わず拳を握りしめた。
「…確かに、起動までは順調に動作します。しかし発動しようとすれば、全てを拒絶するかのように動きを止めてしまう…」
大国主は、わずかに目を細めた。
『なに、そう気落ちする必要はない。そなたらの歩みに、誤りがあったのではない』
そう言って、大国主はゆっくりと手を差し伸べた。
その掌の前に、睦貴は反射的に勾玉を取り出していた。
空気が震えた。
『我の在り方を、そこへ刻もう』
睦貴は、思わず声を上げる。
「…在り方を刻む、とは…?」
『そなたらの間では、「波動」と呼ぶのであろう?』
大国主の指先から、目に見えぬ流れが勾玉へと注がれていく。
それは熱でも光でもない。
だが確かに、何かが満ちていく感覚があった。
『これは、我が新たに撒く種となるであろう』
翡翠色の光が、脈打つように強まる。
『その勾玉には眩き力が満ちている。我らの在り方を覚え、留め、伝える器となる。そなたらが力を扱うための、助けとなろう』
睦貴は、息を詰めたまま見つめていた。
勾玉は神々の波動を記憶するメモリの役割も果たすことを知り、驚愕していた。
「…これを、八咫の土壌、すなわちOSに…?」
大国主は、静かに頷く。
『この波動をもとに、土を耕せ。さすれば、神のはたらきも、そなたらの器に応じたかたちで応えよう』
翡翠の光は、やがて最高潮に達し…次の瞬間、ふっと霧が晴れるように、消えた。
勾玉は、再び静かな輝きを宿したまま、睦貴の掌にあった。
「………終わった、のですか」
睦貴の問いに、大国主は立ち上がる。
『始まったのだ』
その言葉とともに、神威がわずかに揺らいだ。
『我が子よ。神とは、人がその歩みを止めぬ限り――』
大国主の姿が、ゆっくりと空気に溶けていく。
『――常に共に在る――』
慈愛に満ちた目で発した大国主の最後の言葉は、しっかりと睦貴の心に刻まれた。
睦貴は流れ落ちる涙をそのままに、ただ勾玉を握りしめていた。
そこには、確かに何かが宿っている。
人の手では触れられず、しかし、人の未来に深く関わるものが。
急ぎ東京に戻り、この勾玉を八咫に読み込ませなくては。
時計を見ると、急げば夕方前には環境情報調査室へ戻れそうだ。
睦貴は本殿に向かい、最大限の敬意を込めて二拝四拍手一拝で拝礼した。
この絶大なる神威が満ちる中で、時計は正確な時を刻んでいる。
天(Tian)すらも凌駕する圧倒的な力。
大国主の言葉を胸に、睦貴は本殿を後にした。




